ポニーテール
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朝の光が差し込むベランダは、いつもよりひどく白く、やけに眩しく感じられた。
佑介はポケットから最後の一本の煙草を抜き取り、役目を終えた空箱を無造作に屑籠へ放ると、静かに火をつける。肺へ流れ込む苦い煙が、胸の奥に沈んでいた緊張をわずかに和らげた。
——今日は、勝負の日だった。
悪夢の果てに二度、異界へ足を踏み入れたことで、失われていた二つの記憶はようやく輪郭を取り戻した。
そして知ったのだ。すべての真実は、あの大階段の先に眠っているのだと。
あとは藍那とともにそこへ辿り着き、残された最後の扉を開くだけ。
いつもなら真っ先に手を伸ばすお気に入りのハニートーストさえ、今日ばかりは食べる気になれなかった。ベランダを吹き抜ける風は思いのほか強く、煙草の火が今にも掻き消されそうに赤く揺れる。それでもなお小さく灯り続ける火は、彼の胸に宿る揺るぎない意志そのもののようだった。
その日の時間は、妙にゆっくりと過ぎていった。
窓の外が群青に沈み、街のざわめきが静まり始めるころ、佑介はようやく胸の内に覚悟が定まっていくのを感じた。
今日もまた、藍那とともに眠りへ落ちる。青いスウェットにデニムのショートパンツというラフな装いでありながら、彼女はどこかいつもより凛として見えた。気合いを入れるように高く結ばれたポニーテールが小さく揺れる。その横顔は可憐でありながら、同時に揺るぎない決意を宿しているようにも見えた。
それは安らぎのためではない。あの大階段の先に隠された真実へ辿り着くために――ただそのためだけに。
目を閉じた先に待っていたのは今日も変わらぬ森だった。果てなく続く森の闇が静かに彼を呑み込み、木々のざわめきだけが耳の奥で不気味に揺れる。佑介は低く息を吐き、インマー・アウフェントと呪文を唱えた。脳の奥を鋭い刺激が駆け抜け、次の瞬間、意識は異界へと滑り落ちていく。
気づけば、白い館が夜の静寂の中に佇み、その前では藍那がこちらへ手を振っていた。
「佑君、こっちこっち。」
藍那が扉に手をかけ、静かに押し開く。
その先に広がっていた光景は、外から見た洋館の構造とはまるで噛み合わない。広間も廊下もなく、ただ正面に、果ての見えない長い階段だけがまっすぐ上へ伸びている。左右へ続くはずの通路の痕跡すら、どこにも存在しなかった。
藍那が無意識にその先を指さした瞬間、天井の闇を裂くように赤い光が降りてきた。
それは宙に浮かぶルビーのように妖しく輝きながら、暗闇に沈んでいた階上をゆっくりと照らし出していく。
——呼ばれている。
そうとしか思えなかった。
「私、こういうのに敏感なほうじゃないんですけど……」
藍那は赤い光を見上げたまま、小さく息を漏らした。
「でも、分かるんです。この先で、すごく大切なものに出会える気がする。今日だけは、どうしてもそんな気がして」
彼女はそこで一度言葉を切り、そっと佑介を見つめる。
「ありがとうって言いたい。佑君に会わなかったら、私、ここまで来られなかった。今みたいに強くもなれてなかった……」
心を許したのか、ところどころにためらいのない素の言葉が混じる。
「こちらこそ」
佑介は静かに笑い、彼女の言葉を受け止めた。
「藍那がいたから、俺もここまで来れた。俺も強くなれたよ。あとは彼女を――成瀬花菜を助けてやりたい。それができれば、これから先もちゃんと生きていける気がするんだ」
二人は視線を交わし、深く頷き合う。
そして一段、また一段と、希望を胸に刻むように階段を上っていった。
気づけば、導くように輝いていた赤い光は、いつの間にか闇の中へ溶けるように消えていた。
長い階段の果てに待っていたのは、観音開きの巨大な扉だった。
扉の表面には何か文字が刻まれていた痕跡がある。だが、その上から乱暴に黒く塗り潰され、もはや解読することはできない。
佑介は拳を固く握りしめ、最後の扉に手をかけた。
その先に広がっていた光景を、彼はすぐには受け止めきれなかった。
クライマックスです。
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