純正クレタ語
クレタ島の東部から出土した、紀元前7世紀末、あるいは前6世紀初頭から前3世紀の碑文には、ギリシア文字で、ギリシア語以外の言語を記録した物があり、元々、クレタ島にいた「エテオクレタ人」の言語で、純正クレタ語(Eteocretan language)とされる。未解読ながら、線文字Aの背景言語たるミノア語の可能性が高いとされる。取り敢えずWikipediaが参考になり、またRay Brown, Eteocretanで検索すると、彼の解説が読める。以下、「エテオクレタ人」に関する古代の証言である。
〇 オデュッセウスは、帰郷後、ミノスの孫を装い、妻ペネロペに、仮託の故郷クレタについて語る。(ホメロス:オデュッセイより)
「葡萄酒のような色の海のただ中に、クレタと呼ばれる土地がある。美しく豊饒で、海に囲まれている。その中には多くの人々が住み、数知れず、90の都市がある。言葉が互いに入り混じっている。そこにはアカイア人があり、偉大な心を持つエテオクレタ人があり、キュドン人があり、また三氏族に分かれたドーリア人と高貴なペラスゴイ人がいる」。
〇 紀元1世紀、地理学者ストラボンは、地理誌(Geographika)の中で、クレタにおける諸部族につき、次のように記している。
「スタピュロスによれば、ドーリア人は東方の地域を占め、キュドン人は西方を、エテオクレタ人は南方を占めており、その町はプラーソスであり、そこにはディクタイオス・ゼウスの神殿がある。そしてエテオクレタ人とキュドン人はおそらく土着であり、その他は外来者である。」
因みに純正クレタ語の碑文の半数以上は、クレタ島のプラーソス出土であり、他はドレロス(現代のドリロス)出土である。碑文コーパスとして、Yve Duhoux の「L’Eteocretois:les textes-la langue」が挙げられる。
ドレロスの碑文のうち、2点は、ギリシャ語との2言語碑文である。このうち、Dreros#1とされる、長い方の碑文は、1936年にP.デマーニュ、H.ヴァン・エフェンテレによって発見され、1946年に出版。しかし第2次大戦中、クレタ等の占領中に失われた。その記述をローマ字に変換した場合、純正クレタ語とされる、最初の2行は、次の通り。
et isalabre komn men inai isaluria lmo
筆者は、エテオクレタ人とは、紀元前8世紀、ポリスの時代に入っても、なおクレタ島に残留していた日本語族であり、純正クレタ語とは、日本語ではないかと考えた。そしてミノア人には、大酒飲みのイメージがあったので、左端からkomn menまでの部分に、次の様に音価を補ってみた。
et isalabre kom(e)n(o) men(o)
これを右から、音節毎に読むと、nome nome kore ba la si teとなり、「飲め飲め、これ晴らして」 となる。続く部分を、右端から音節毎に読めば、molarilu sa iinaiとなり、「盛らりるさ、良いな、言い」となり、両者を合わせれば、「盛らりるさ、良いな、言い。飲め飲め、これ晴らして!」。
ここで紀元前399年、アテネで裁判の結果に従い、逃げずに服毒自殺を遂げたソクラテスの逸話からし、類似の話を連想した。そして今度は、同じ文字列に調整を施しつつ、かつ(日本語なら、rとlの両方は不要なので)rをhと差し替えて、左から右へ読んだ。
et isalab(a) he kom(u)n(o) men inai isaluhia l(o)mo
「ちっ、さらば」。「ヘコム、飲め!」に「なっ!」言い。去る日あろうも。
するとヘコムとは、ソクラテスの飲んだとされる毒薬、ドクニンジン(hemlock)、又はそのパロディーと解釈できる。




