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クレイブンの魔法使い

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/10/13





クレイブンの魔法使い。

そんな奴が存在している事自体疑わしい。

しかし、彼女は言う。そのクレイブンの魔法使いに魔法をかけられたと……。






パン工場で働く僕は、今日もリドルの旦那に言われた数のパンの入った箱をオートモービルに積み込んでいた。

今日は少し暖かく、一人で積み込んでいると額に汗が滲み出る。

サスカの奴が無断欠勤したので、積み込み作業は僕一人。

明日、サスカがやってきたら、一言文句を言ってやろうと朝からずっと考えている。


最後の箱を積み終えて、額の汗を拭いながらオートモービルの扉を閉めると、そこに女が立っていた。女と言っても僕より少し上くらいかな。


「良い匂いね……。一つくれないかしら」


彼女はニコニコ微笑みながら言う。


僕は彼女に、パンのお店は角を曲がったところにあるからと言い、積まれた空の箱に座った。

すると彼女は僕の横に無理矢理割り込む様に座る。


「そのパンのお店は知ってるわ。この工場で作ったパンを売ってるんでしょ。だったら、あなたが私にくれても同じ事じゃない」


僕は真っ直ぐに僕を見つめて言う彼女の目の力に身体を引いた。


僕はパンの値段も知らないし、ましてや君に売って良いモノかどうかもわからない。

まだ見習いだからね……。

そう言うと立ち上がった。


「それなら問題ないわ」


彼女も立ち上がってスカートのポケットに手を入れた。


何だ……。

お金は持ってるのか……。


彼女はポケットから手を出してゆっくりと開いた。

そこにはお金ではなく、青く光る石があった。

僕は呆れて文句を言おうとした。

すると、


「黙って……。ほら、見て……」


そう言ってその石を僕に近付ける。

僕は躊躇しながらその石を覗き込んだ。

濃紺の石は尖った光を放ち、覗き込む僕の顔を映していた。

そして彼女も同じようにその石を覗き込む。

仏頂面の僕とニコニコと微笑む彼女の顔がその石に並んで写った。

石が放つ光が徐々に強くなっていくような気がして、やがてその光が僕と彼女を包み込む様に飲み込んだ。

しかしそれ以上の事は何も起こらず、僕は彼女を見て溜息を吐いた。

それでも彼女は僕を見てニコニコと微笑んでいる。

僕は彼女に待ってろと言い、売り物にならないパンを工場の中から幾つか持ってくると、彼女に渡した。


これあげるから、もう邪魔はしないでくれ。

と言うと彼女は嬉しそうにそのパンを持って工場の向かいの木陰に座り込んだ。

それを見て僕はまた溜息を吐く。


通りがかった牛乳屋のリヤカーの親父に声を掛けて、牛乳を一つ買った。

そしてその牛乳を持って道を渡り、木陰に座る彼女に渡した。


うちのパンを喉に詰めて死んだりしたら困るからな……。

僕は彼女の目を見ずにそう言うとさっさと工場へと戻った。






夕方、日が暮れる前にパン工場は終わる。

その代わりパン工場の朝は早い。

パン職人たちはまだみんなが寝ている時間から工場へやって来て、パンを焼き始める。

僕たちはそのパンが焼き終えた頃にやって来て、焼き立てのパンを箱に詰めてオートモービルに積み込む。


今日も余ったパンを袋に入れて持ち帰り、夕食と明日の朝に分けて食べる。

パン工場で働く理由の一つに、パンを買わなくて済むという理由があった。

安い給料で働いているが、食費は助かっている。


バックスキンのジャンパーを着てマフラーを巻くと、工場の裏手から外に出た。

そして壁に立てかけた油の切れかかった自転車を押して通りに出た。

するとそこに、昼間パンをあげた彼女が立っていた。

彼女は僕を見つけると小走りにやって来た。


「待ってたのよ」


彼女はニコニコと微笑みながらそう言った。


待ってたって言われてもな……。

僕は自転車に跨って走り去ろうとした。

すると彼女は僕の自転車の後ろに座った。

僕は自転車を下りて、彼女を睨む。


何やってんだよ。

降りろよ……。

僕は彼女の袖を掴んで自転車の後ろから降ろした。


「お腹空いたのよ……」


彼女は僕に微笑みながらそう言う。

彼女はずっと微笑んでいた。

その微笑みが僕を馬鹿にしている様に見えた。


お腹空いたなら家に帰れよ。

僕は彼女を突き放す様に声を荒げる。


「おいおい、スワッジ。女の子虐めてるんじゃないぞ」


通りすがる工場の仲間が僕を冷やかしながら帰って行く。

僕は恥ずかしくなり、彼女の手を引いて細い路地に入った。

一日中日の当たらないその路地はひんやりとして寒かった。


家、何処なんだ……。

僕は彼女に訊いた。

彼女はゆっくりと首を横に振った。


家は何処だって聞いてるんだよ。

僕は溜息を吐きながらもう一度彼女に訊く。


「わからないの……」


わからないって……。

僕は彼女の顔を覗き込む様に見た。


「何も思い出せないのよ……。だけど……」


彼女はまたスカートのポケットに手を入れる。


おいおい、またあの青い石か……。

僕は半ば呆れて顔を逸らした。

すると彼女は一枚の紙を取り出し、僕に差し出した。


クレイブンの魔法使い。

滲んだインクで、それだけ書かれた紙だった。


クレイブンの魔法使い……。

僕は彼女に訊く。

彼女は頷き、また微笑む。


「探してるの……。その魔法使い」


魔法使いを探すって言っても……。

僕はそんな魔法使いの存在さえ信じていないし、どこかに居るなんて事も聞いた事も無かった。


「一緒に探してくれなんて言わない……。けど、見つかるまで私をあなたの家に住まわせてくれないかしら……」


今日初めて会った彼女。

名前も知らない彼女。

それに僕だって男だ。

彼女は女。

一緒に住むなんて無理に決まっている。


僕は彼女をじっと見た。

足の先からずっと視線を上げて行き、大きな瞳……。

良く見ると可愛い少女だった。


「掃除も洗濯も、お料理も……何でもするわ……。もし、あなたが望むなら……」


彼女はそこまで言うと声を詰まらせて顔を真っ赤に染めた。

僕にも彼女が何を言おうとしているのか察しがついた。


わかったよ……。

とにかく、うちまで行こう。

その先の事はどうするか、後で決めよう。


僕は寒い路地に耐え切れずに、彼女を自転車の後ろに乗せて家まで走った。






シエラ。

彼女の名前らしい。

少なくとも、この街に来るまではそう呼ばれていたらしい。


僕はタンスから僕の服を出し、彼女に渡した。


とりあえず、シャワーを浴びて、それに着替えろよ。

ちゃんと洗ってあるから大丈夫だ。


僕は彼女にシャワーの使い方を教えて、彼女をシャワールームに押し込んだ。

そして缶詰のスープを開けるとコンロに火をつけた。


「お湯が出ないわ……」


シャワールームから彼女の声がする。

確かにうちのシャワーはお湯の調整が難しい。

蛇口を少し回し過ぎると水になり、回したりないと熱い。


少しだけ左に回してみな。

僕はシャワールームの外から言う。


「熱いわ……」


今度は少し右。

少しだけだぞ。


「少し温いけど、これで良いわ……」


彼女の声がシャワーの音に重なり聞こえてくる。


僕は何故かそんなやり取りがおかしくなり、いつしか微笑んでいた。


スープを温め終えた頃に彼女のシャワーの音が止んだ。


僕はもらって帰ったパンを籐の籠に入れてテーブルの上に置く。

そして不揃いの皿に温めたスープを入れ、テーブルに置いた。


「気持ち良かった」


彼女がシャワールームから出て来た。

その姿に僕は驚く。

彼女はタオルで髪を拭きながら全裸で僕の前に現れたからだ。


な、何をしてるの……。

服を着てから出て来いよ……。

僕は慌ててもう一枚出して置いたタオルで彼女の身体を隠した。

それでも僕の脳裏には彼女の細く白い身体と薄い陰毛、まだ薄っぺらい胸が焼きついた。

僕は自分の理性ってヤツが何処まで機能するのか、不安になった。


服を着た彼女と向かい合ってテーブルに座ると僕は冷蔵庫から冷えた葡萄ジュースを出してグラスに注いだ。

ワイン工房のトレスがいつもくれるジュース。

ワインにならない葡萄を絞り、こうやってジュースにするらしい。

ジュースとしての味は最高に美味い。


彼女はスプーンでスープをすくい口に運ぶ。

その勢いは凄まじい速さだった。

僕はその光景に圧巻だった。


ふと彼女が顔を上げて僕を見る。

目が合うとさっきの彼女の裸を思い出し、僕は目を逸らす。


「食べないの……」


彼女は籠に入ったパンに手を伸ばして口に入れた。

僕はスプーンを置いてスープの皿を彼女の前に差し出した。


良かったらこれも食べな……。

僕はそう言ってグラスの葡萄ジュースを飲み干した。


彼女は喜んで僕のスープの皿を引き寄せた。

相当お腹が空いていたらしい。


彼女の食べっぷりを見ていると気持ち良かった。

そう思った時、新聞記者をしている食べっぷりの良いカシム叔父さんの事を思い出した。


そうだ……。

カシム叔父さんに訊いたら何かわかるかもしれない……。

僕はそう思い、


さっきのメモ。

貸してくれないか。

と彼女に言う。

彼女はクロワッサンを口に咥えたまま、ベッドの上に投げ出される様に置いてあった脱いだワンピースのポケットを探る。

そして「クレイブンの魔女」と書かれた紙を僕に差し出した。

僕はそれを受け取ると、上着を着た。


ちょっと電話してくるよ。


僕は彼女にそう言うと部屋を出た。

一階にある管理人室の前の電話機にコインを入れると叔父さんの新聞社の番号をダイヤルした。

二回コールしたらすぐに電話は繋がった。

出るのが早くて驚いた事をカシム叔父さんに伝えると、


「新聞記者ってのは何でも早くないとな。早寝、早起き、早飯、早糞ってな」


カシム叔父さんは大声で笑っていた。


「ところでどうした。お前が俺に電話してくるなんて珍しいじゃないか」


カシム叔父さんに電話したのは二回目。

パン屋で働くのにどこのパン屋が評判が良いかと訊いた時と今。

僕は彼女の持っていたメモを開いて叔父さんに訊いた。


「クレイブンの魔法使いね……」


叔父さんは電話の向こうで黙っていた。


知ってるの……。

僕はメモを折りたたみポケットに入れる。


「知っているには知っているが、その魔法使いに何の用だ」


さっきまでと違い、カシム叔父さんの声は少しトーンが下がっていた。


「黒いオートモービルで移動しながら数日街に滞在して、また次の街に移動する占い師らしい」


僕は叔父さんの話に如何わしさを感じて、俯いた。


「占い自体は別に怪しいモンでもなくて、ごく普通の占いみたいだ。若い少女の間で噂になって、所謂恋占いだな……。しかし、その占い師が言う通りにするとその恋が成就するって事らしいんだ……」


僕はそれを訊いて安心した。

もっと怪しいモノだと想像していたのだが、単なる恋占いだった。


「だけどな、妙な噂もある。恋を成就させると、少女たちはその代償を支払う事になる」


代償……。

お金……。


「いや、その時々でその代償は違っていて、ある者はお金、ある者は身体、そして親や記憶なんて話もあったな」


記憶……。

僕はシエラの顔が浮かんだ。


そのクレイブンの魔法使いは今何処に居るか知らない……。

僕はカシム叔父さんに訊く。


「そこまではわからないな……。神出鬼没で気が付くと街に居るらしいんだ」


そうか……。

僕は息を吐いた。


「居場所がわかったら教えるよ」


叔父さんはそう言うと電話を切った。


クレイブンの魔法使い。

十二分に怪しい存在だという事がわかった。


部屋に戻ると、彼女はベッドに横になって眠っていた。


僕は投げ出された彼女の服を手に取って壁に掛ける。

そして同じようにベッドに散らばっていた彼女の靴下と下着を取るとシャワールームの前の洗濯籠に放り込んだ。






翌朝、僕が目覚めると、彼女がキッチンに立ち、朝食を作っていた。


「起きたの。早く顔洗って来て」


もらって来た古いソファで寝ていたので体中が痛む。


「どうしてベッドで寝なかったのよ……」


彼女はテーブルに焼いたパンを出しながらそう言う。

僕は文句を言おうとして止めた。

彼女を意識していると思われたくなかったからだ。


顔を洗ってテーブルに着くと、クロワッサンに卵サラダと野菜が挟まれたサンドイッチと、コーヒーと牛乳、それに葡萄ジュースが並んでいた。

美味そうなサンドイッチだった。


美味そうだな……。

僕は葡萄ジュースを飲んだ。

彼女は僕の前に昨日の残りのスープを出した。


「私って、何か料理をやっていたのかしら……」


そう呟いて自分も椅子に座った。


「あ、お掃除と洗濯、やっておくからね」


彼女はニコニコと微笑んだ。


僕もつられて笑ったが、その表情は引き攣っていたに違いない。


部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「スワッジ。電話よ。カシムって男の人から」


管理人のフシオ婆さんだった。

僕はすぐに行くと返事をして部屋を出て階段を駆け下りた。

不思議だが、すぐに部屋を出ても、フシオ婆さんに追い着く事が出来ない。

僕だけじゃなく、このアパートに住むみんなが同じような事を言っている。


管理人室の前にある電話の横に受話器が置いてあった。

僕はその受話器を耳に当てた。


「スワッジか。クレイブンの魔法使いの情報が入ったぞ」


カシム叔父さんは慌てていた。


「今、お前の街に居る筈だ。街の外れのトニオ街に黒のオートモービルが停まっているのが目撃されている」


トニオ街。

少し距離はあるが、行けない事も無い。

僕は叔父さんに礼を言った。


「スワッジ。あれから色々と調べたんだけどな。クレイブンの魔法使いに頼んだ恋の魔法はすぐに解く事が出来るらしい。しかし、それが女の子にとって幸せな事なのかそうではないのか……。それは本人にしかわからない。余計な事はするなよ……」


カシム叔父さんはそれだけ言うと電話を切った。

僕はポケットからコインを出し、電話に入れるとパン工場に電話して仕事を休む事を伝えた。

昨日はサスカが無断欠勤したんだ。

今日は僕が休んでもサスカに文句を言われる筋合いはない。


僕は部屋に戻ると、食べかけの朝食を食べて、上着を着た。


「仕事がんばってね」


彼女は僕に微笑むと食器を洗い始める。

僕は「うん」と頷き、部屋を出た。


そして自転車に跨ると工場とは逆の方向へと走り出した。

トニオ街……。

そこにクレイブンの魔法使いは居る……。






自転車で約四十分。

トニオ街に着いた。

そしてそのトニオ街の中心にある大きな公園で黒のオートモービルを見つけた。

パラソルを立てて椅子に座り脚を投げ出している老婆を見つけた。


僕はその傍に自転車を停めると、ゆっくりとその老婆に歩み寄った。


「おや、お客かい……」


老婆は片目だけを開くと僕を見た。


「ほう。男の客は珍しいね……。アタシは恋愛の相談しかやってないけど大丈夫かい」


老婆はゆっくりと身体を起こして椅子に座った。

僕はその老婆の向かいに立ち、じっとその老婆を見た。






僕は帰りに彼女の下着と夕食のパンを買って部屋に戻った。

工場に行かない日はパンが無い。

いつもと違うパン屋の味で勉強する事も大切な事だ。


部屋に入ると僕はパンをテーブルの上に置いて、彼女に下着の入った袋を渡した。

そしてベッドにへたり込む様に座ると、窓際に洗濯物が干してあるのが見えた。


彼女は喜んで、新しい下着を僕から見えないところで身に着けていた。


僕は上着を脱いでベッドに横になり、見慣れた天井を見つめた。







「シエラね……。よく覚えているよ。大きなラピスラズリを持っている不思議な子だね……」


彼女の持っている石はラピスラズリと言うらしい。


彼女にかけた魔法を解いてやって欲しい。

僕が言うと老婆は声を出して笑った。


何がおかしいんだ……。

僕はテーブルを叩いて老婆に言った。


「あんたなにか勘違いしてないかい……」


老婆は脇に置いた紅茶の入ったポットから冷めた紅茶を注ぎ、僕の前に出す。


「アタシは単なる占い師だよ。魔法なんて使える訳がない。彼女には恋のアドバイスをしただけさ」


現に彼女は記憶を無くしている。

恋の成就の代償に彼女の記憶を奪ったんだろう。


僕は更に声を荒げた。


老婆はニヤリと笑うと紅茶のポットの横に置いた分厚いノートを捲った。


「彼女は……」


老婆はそう呟くとそのノートを更に捲る。


「聞くかい……。あんたには辛い内容かもしれないよ……」


そう言うとニヤリと笑った。


僕は老婆を睨みながら頷く。


老婆は再び笑い、首から下げた眼鏡をかけた。






彼女はベッドで横になる僕の隣に座った。


「どうしたの……。仕事大変だったの……」


そう訊くと、僕の上着を取り、壁に掛けた。

そしてまた僕の隣に座った。


「疲れてるよ……。何か食べる……」


僕の顔を覗き込む様に彼女は言う。


僕は勢いよく起き上がり、彼女をベッドに押し倒した。

彼女は少し驚いていたが、やっぱり僕に微笑んだ。







「彼女には好きな男が居るんだよ。その男にどうしても近付きたいって相談だったね……」


老婆はずれる眼鏡を何度も上げながら話を続けた。


「彼女は相手に何かをプレゼントしたら意識してもらえる様になるかって聞いて来たさ。私は彼女に言ったよ。何かをプレゼントするより、何かを貰えってね……」


僕は目を閉じて老婆の話を聞いた。






彼女は目を閉じて、押さえ付ける僕の手を払おうともしなかった。


「僕だって男だぞ……」


彼女は小さく頷く。







「彼女はその男の事をずっと前から知っていて、初めて会った時に恋をしたらしい。もう十年越しの恋なのさ……」


老婆は自分で書いた文字を指で追う様にしてノートを読んでいく。


「どうやら昔は同じ学校に通っていたらしいが、その男の家が破産してね……。仲良くなる前に男の方が引っ越ししてしまったらしい……」


僕は老婆から目を逸らした。


破産……。

引っ越し……。


「男は彼女と同じ年なのに、もう一人で暮らしていて、どうやらパン工場で働いているそうだ……」


老婆は顔を上げてニヤリと笑う。


「あんたと同じ匂いのする男なんだろうね……」






彼女は身体の力を抜いて、腕を広げた。


「良いよ……。スワッジ……」


彼女はそう言うと再び目を閉じる。


僕は彼女を押さえつける力を抜いて、彼女の横に座った。


やっぱりそうだったか……。


彼女は身体を起こして僕の顔を覗き込む。







「あんたがスワッジだね……。スワッジ・リンネル。彼女の初恋の相手だね……」


老婆は分厚いノートを音を立てて閉じ、眼鏡を外した。

そして椅子の背もたれに寄りかかる。


「あんたの事を何年も探していたようだよ。ある日、あんたに似た男が居るって言うのを聞きつけてそのパン工場を見に行ったそうだ。すると間違いなく、幼い頃に見た初恋の男だと確信したようだ」


老婆は傍らに置いた煙草を取ると一本取り出す。


「吸っていいかね……」


僕はゆっくりと頷いた。


老婆はマッチを擦ると煙草に火をつけた。

そしてゆっくりと煙を吐いた。


「彼女はアタシに言ったよ。アンタとの恋が叶うのならばお金も友達も家族も……、記憶もいらないってね」


老婆はまた煙を吐く。


「じゃあそれを全部無くしたつもりで、その男に会ったらどうだってアドバイスしたのさ……」


老婆は身を乗り出して僕の顔を見た。

そしてニヤリと笑った。


「アタシが彼女にしたのはそれだけの事さ……」


そう言うとまだ長い煙草を灰皿で消した。


「これであんたとの恋が成就したのなら、それはクレイブンの魔法使いの力じゃない。彼女自身が持っている魔法の力だろうさ……」


老婆は立ち上がると振り返り僕に微笑んでいた。






僕はベッドから立ち上がると窓際に立った。

彼女が洗った洗濯物を避けて窓の外を見た。


彼女は僕の後ろに立つと同じように窓の外を見た。


「会ったのね……。クレイブンの魔法使いに……」


僕は小さく何度か頷く。


「そう。じゃあ、もう魔法は終わりね……」


彼女は寂しそうに言うと、窓際に干した洗濯物を取り、ベッドの上に投げ出した。


僕は窓ガラスに映る彼女の姿を見つめた。


クレイブンの魔法使いか……。


僕は呟く。


彼女はベッドの上の洗濯物をたたみ始めた。


そして僕はゆっくりと彼女を振り返り、彼女の横に座った。


「クレイブンの魔法使いの魔法は解けたけど、僕はどうやら君の魔法にかかってしまったみたいだよ……。この魔法が解けるにはどれくらいの時間が必要なんだろうな……。君はそれを知ってるかい、シエラ・パープルトン……」


僕は彼女の細い肩を抱いた。

そしてずっと前に好きだった、シエラ・パープルトンにキスをした。








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