第9話
ざわめきが、もうそこまで聞こえている。
「処刑だ」
「もうすぐだ」
風と共に運ばれてくるのは、緊張と興奮が入り混じった声だった。
まるで楽しい宴でも始まるかのような熱気に、思わず眩暈がした。
「リリエル、大丈夫?」
彼女はただ頷き、まだ遠い群衆の頭の向こう側、処刑台に立たされるモルダン司教の姿を見据えている。
「——モルダン司教、汝は聖女を幽閉し、人々を欺きし罪により、ここに死をもって償うものとする。
よって斬首をもって刑を執行——」
「待って!!」
その声は、確かに私の耳には届いた。
だけれど群衆の喧騒に呑まれ消えた声は、広場で響くにはあまりにも小さくて。
処刑台の上では執行人が眉をひそめるも、ほんのわずかな変化しかなく、こちらを振り向くこともない。
「——振り下ろせ。」
乾いた号令とともに、大きな斧が天高く振り上げられたその時。
——ゴトッ
執行人の手首を弾くと、斧はその手から滑り落ちた。
群衆のざわめきが凍りつき、鈍い音がよく響く。
人々が静観する中、リリエルは両腕を広げてモルダン司教の前に立ち塞がった。
突然処刑台に立った少女の姿に、人々の目は好奇で満ちていく。
リリエルは、大きく息を吸った。
「……みんな、聞いて。
司教様の罪は、ぜんぶ、みんなの勘違い。
聖女は閉じ込められてない。薬の取引も、人身売買も、してないもの。」
リリエルの言葉に皆が静まり返ったが、やがて執行官が声を上げた。
「な、何を根拠に……!
あなたは何者なんですか!?誰の許可を得てこんなことを…!!」
「わたし、聖女だもの。
知ってるから言えるの。」
リリエルは毅然として、モルダン司教のそばに駆け寄った。
司教は涙を流し、額を床に擦らんばかりに深々と頭を下げている。
やがて群衆は彼女を指差しながら、ヒソヒソと囁き合った。
その声は次第に大きくなり、一人の青年が叫んだ。
「司教は聖女を虐待していたと聞いた!
あんたはその聖女に、そうやって自分を庇うように仕向けたんだろう!」
それを皮切りに、再び糾弾の雨が降り注ぐ。
「そうだ!そいつは聖女の力を独り占めしようとしてたんだろ!?」
「あんたが聖女なんて証拠、どこにあるんだよ!?」
このままでは、群衆が処刑台のリリエルたちに飛びかかるのも時間の問題だろう。
国の兵たちも集まり始めている。
「わたしはあの塔にずっといました。
誰もわたしのことを知らないのが証拠だもの。
それに、聖女の力なんてない。
——わたしは、聖女なんかじゃない!」
それはあまりにも暴力的な告白で。
民衆の怒りが司教からリリエルに移るには、十分すぎる威力があった。
台に手をかける者が現れ始める。
もう、限界だろう。
「リリエル、もう無理だ!逃げるぞ!」
リリエルの手を取り、用意してあった馬へと飛び乗った。
できるだけ早く、ここから離れなければ。
馬を走らせる中で一度だけ後ろを振り返ると、モルダン司教は何度も頷いていた。
——約束は、果たすさ。
兵が追いかけてくるのがわかった。
矢の雨が降ろうとも、槍が顔の真横をすり抜けようとも、リリエルだけは傷つけないようにと。
ただひたすらに、走り続けた。
森が、もう目の前に見えた時、馬に矢が刺さったらしい。馬は大きく悲鳴をあげ、私たちを振り落とした。
それでも、リリエルを抱え走った。
やっと、風の音だけが聞こえる、いつもの空間まで辿り着いた。
ここなら誰も追ってくることはない。
リリエルをそっと地面に下ろすと、私はそのまま膝から崩れ落ちた。
いくつかの骨が折れていたのだろう。
「……リリエル、無事?怪我はない?」
「わたしは、平気。
あなたのほうが……!
待ってて、わたしの血を飲めば——」
そう言って落ちている木の枝を拾おうとする彼女の腕を掴み、制止した。
視界すらぼやけているけれど、その手は、離しはしない。
「……気持ちは嬉しい。
だけれど、あなたに傷ついてほしくはないの。
いくら、あなたの願いでも……それだけは。」
ああ、そんな顔をしないで。
あなたは可憐で、気高くて、少しぼんやりしているけれど、とても美しいのだから。
リリエルは私の兜に手をかけ、ゆっくりと外した。
「……あなたを助けられる薬、ここじゃ作れない。
血も、飲んでくれない。
このままじゃ、あなたは死んじゃう。」
彼女の目から、一筋の涙が流れた。
綺麗だなんて思うのは、不謹慎だろうか。
「わたしが望むなら、ずっとずっと、一緒にいてくれるんでしょう?」
その澄んだ声は、まるで私の答えなど最初から決まっていると言いたげで。
その通りだと、彼女の目を見つめた。
「……なら、死ぬときも、アレンと一緒がいい。」
「……ズルいな。」
初めて呼ばれた名前が、こんなに熱烈な愛を告げる場面でだなんて。
体の痛みなど、嘘のようになくなってしまった。
上半身の甲冑を脱ぎ、リリエルに手招きをする。
私の腕にすっぽりとおさまる姿に、思わず笑みがこぼれた。
「アレン、きれい。好きよ。」
「……うん、私も、好きだよ。」
リリエルを抱き抱え、湖のすぐそばまで一歩ずつ、足を進める。
もう、私は助からない。
万一命があったとしても、国中が森を囲っているのだろう。森の中でも、生きていられるのはほんの少しの時間だけ。
それなら、いっそ。
「リリエル。
……生まれ変わったら、また美味しいものをたくさん食べよう。」
「また、魚、焼いてくれる?」
「もちろん。何度でも。
ずっと、一緒だよ。」
「ずっと。」
そうして私たちは二人だけの世界へ、旅立った。
ここが私とリリエルの物語の、始まりと終わりの場所。
お読みいただきありがとうございます。
こちらで最終話になります。
なかなかコンパクトにまとまったんじゃなかろうかと。
ここまで見守っていただきありがとうございました!