第1話 無字姫、学院の門を叩く
母上を見送ってから、五日。
暮らしていた山はとっくに見えなくなり、目的地が見えて来た頃、背の荷が一段とずっしりと感じました。
荷物のせいではありません。
ここから先は、戻らない……そう決めた分だけ、肩に重さが感じたんだと思います。
目的地は、ヒノモトの首都。
ヒノモトは、大昔にニホンと呼ばれた国の面影を残していると言います。
木と紙と土でできた建物、瓦、暖簾、行灯。
けれど、世界で国として残ったのは、もうヒノモトだけです。
魔族や魔物との長い戦で、他の国々は地図から消えた……そう、教えられました。
入口である大門をくぐると、瓦屋根の家や建物が通りに並び、太陽の光を跳ね返しました。
大通りには様々な屋台が出ており、醤油と焼き魚の香り、油で食材を揚げる音、遠くの太鼓、近くの笑い声。
山奥の静けさに慣れた身としては、呆気に取られるほどの喧騒です。
色や形が多種多様な着物を着た人々が行き交う中、黒い武道袴が特に目を引きました。
これは、言魂士を育成する為の機関……言魂学院の正装です。
彼らは特に戦闘に適した能力を持っていますが、言魂自体は基本的には誰しもが持っています。
あ、ほら、あそこの屋台の店主さんは、【火】の文字を空中に書いて、指先から出た火でお肉を焼いていますよ。
ほとんどの人は一文字で、中には二文字の人もいます。
三文字は数えられるほどしかおらず、四文字は……真の意味で特別な人たち。
書くには魂力が必要で、自分の指先などで文字を書くことで発動されます。
ただし、発動は書き終えた瞬間である為、速さと正確さが重要……これも、知識としては知っていました。
そんなことを復習しつつ歩みを進めていると、ヒソヒソとした声が聞こえて来ます。
「見ない顔だな、旅人か?」
「学院志望じゃないか? 荷物がそれっぽい」
「長い黒髪、細い腰……それでいて胸元も……羨ましがるのも馬鹿馬鹿しくなるわね……」
「おい、声を掛けてみろよ!」
「馬鹿野郎! あんな可愛い子が、俺なんかを相手にする訳ねぇだろ!?」
囁きがすれ違い、思わず胸の前で手を握ってしまいました。
頬が少し熱いです……。
着ている振袖の袖口が揺れて、黒地の糸が光を拾いました。
逃げるようにその場を離れて急ぎ足で学院を目指すと、さほど掛からず到着します。
正面に、年季の入った大きな学び舎が見えました。
太い梁が支え、格子窓が重なり、木の香りが風に混じっています。
裏手からは、水の奔流や風の唸り、刃が打ち合う音。
恐らく、実技の時間でしょう。
そう考えつつ、わたしは正門脇の詰所に立つ守衛さんに会釈しました。
「入学試験の受付は、どちらでしょうか?」
「試験? それなら、昨日終わりましたよ」
そんな、まさか……。
胸が沈んで、言葉が一瞬だけ途切れます。
それでも、言わなければ。
「無理を承知でお願いします。 学院長に、お目に掛かれませんか?」
「申し訳ありませんが、学院長にお会いするには事前に手続きが必要ですから……」
守衛さんはわたしの顔を見ながら、苦笑しました。
ここで名を出すのは、躊躇いましたが……背中を押したのは、母上の声です。
「では、無明夜宵が参ったと、お伝え下さい」
「無明……まさか、『無字姫』ですか?」
頷くと、守衛さんの目の温度が僅かに冷えました。
緊張に体が強張り、空気がふるりと揺れます。
彼の言魂は、【声】か【会話】の系統なんでしょう。
わたしに聞こえないように、ここにはいない誰かに向かって語り掛けているようでした。
短い時間を挟み、守衛さんは溜息混じりに顎で学び舎を示します。
「学院長がお会いになるそうだ。 正面から入って、5階へ向かえ」
「有難うございます」
言葉遣いすら変わった守衛さんに丁寧に一礼してから、学び舎に入ります。
階段を上がるにつれて、鼓動が速くなりました。
それに反して学び舎は、実技の授業中だからか、しんと静まり返っています。
5階に上がると目の前の扉から、押し返すようなプレッシャーが漂って来ましたが……退けません。
深呼吸を1つして、ノックしました。
「入れ」
僅かに震える手で扉を開けると、巌のような男性が立っていました。
白が混ざった短髪、整えられた口髭と顎鬚。
羽織袴が威厳を強めており、視線は真っ直ぐこちらを向いています。
「儂は学院長、岩倉弦蔵だ。 お前が夜詠の娘か」
「あ……む、無明夜詠の娘、無明夜宵です。 本日はお時間を頂き、有難うございます」
「そんなに硬くなるな。 夜詠の娘は、儂にとっては孫みたいなものだ」
その一言で、体の力が少し抜けました。
学院長は柔和に微笑み、言葉を紡ぎます。
「良く似ている。 若い頃の夜詠に」
「あの……母上と学院長は、どのようなご関係だったのですか?」
「む? 夜詠から聞いてないのか?」
「も、申し訳ありません……。 わたしは、言魂学院に行くようにと言われただけでして……」
「ふむ、なるほどな。 夜詠は儂の教え子で、強力な言魂士だった。 何度もヒノモトを救ったが……お前を身籠もって、身を引いた。 儂は、それ以来会っておらん。 だが先日、『娘を頼む』とだけ手紙を寄越して来た」
「そうでしたか……。 母上が……」
胸の奥が温かくなり……そして痛みます。
母上は、家では言魂の話題を避けていました。
わたしに言魂がないことを、思わせない為に。
けれど結局、わたしは『無字姫』と呼ばれ、無明家は没落しました。
父上は既に亡くなり、母上も若くして逝き、残ったのは……わたし一人。
「……試験を受けさせて下さい。 わたしには言魂がありません。 それでも、技と目と足で補います。 たくさん迷惑を掛けた償いの為にも、せめて母上の願いを叶えたいんです」
わたしは俯いて、必死な思いで決然と告げましたが……学院長の掌が、軽く頭を叩きました。
痛みはほとんどありませんでしたけど、精神的な衝撃は強く、思わず頭を押さえて顔を振り上げます。
すぐそこには、呆れ果てた学院長の顔がありました。
「馬鹿者。 お前が何を考えているか、大体わかる。 だが、それは見当違いも良いところだ。 夜詠が一度でも、お前を責めたことがあるか?」
「……ありません」
「そうだろう。 あいつは、お前の幸せを望んでいた。 だからこそ、儂を頼ったんだ。 それなのに、お前がそんなことでどうする。 本当に夜詠のことを思うなら、ここで力を付けて一人前になり、安心させてやるべきじゃないのか?」
視界が滲みましたが……すぐに背筋を伸ばしました。
内に熱い闘志が燃え盛るのを感じながら、強い眼差しを学院長に返します。
言葉にせずとも意志は伝わったようで、彼は微かに口角を上げて告げました。
「良し。 無明夜宵、試験を許す。 ただし贔屓はせん。 公正に見極める」
「望むところです。 温情で入学させて頂くことを母上は求めないでしょうし、何よりわたしが納得出来ません」
「やっと良い顔になって来たな、その意気だ。 日程は、今からで構わんか」
「今から……はい、問題ありません」
「そうか。 もう1人、同時に試験を受ける者がいる。 準備が出来たら、裏手の訓練場へ行け。 その場で合否を決めるから、存分に実力を示して来い」
「有難うございます。 行って参ります」
頭を下げてから退室し、扉を閉めます。
廊下の空気が、先ほどより軽く感じられました。
母上の「行きなさい」と言う言葉が、支えてくれている……そう思えたからかもしれません。
夜宵が去ると、学院長室はひと呼吸だけ静かになった。
そしておもむろに、弦蔵が口を開く。
「いやはや、本当に夜詠に似ている。 あれだけの美女……と言うには、まだ若いか。 何にせよ、上玉に育ったと思わんか?」
答える者のない問いに、空気がゆらりと歪んだ。
糸の縫い目が解けるように、背の高い少年が1歩、現れる。
肩に掛かる髪、怜悧な真紅の瞳。
細身ながら無駄のない肢体。
学院の正装とは少し違う黒い武道袴は、所作に合わせて音もなく揺れた。
「否定はしない。俺には関係ないが」
少年の淡白な答えに、弦蔵は苦笑する。
「そんなことを言って、本当は狙っているんじゃないか? このムッツリスケベが」
「何を言っているかわからんが、もう行くぞ。 裏の訓練場だったな?」
「やれやれ、相変わらず冗談が通じん奴だな。 くれぐれもよろしく頼むぞ、透真」
「言われるまでもない」
少年の輪郭が空気に溶け、気配だけがスッと消えた。
弦蔵は椅子に身を沈め、顎鬚を撫でる。
「さて、どうなることやら」
その声には、どこか面白がる色が含まれていた。




