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電脳世界  作者: 犬彦
ガブリエル書
7/47

ガブリエル書(7)

 眠ってしまっていた。


 ベッドの上でベタ座りして、ディビッドの話を聞いていると腰が痛くなってきて、腰を伸ばそうと仰向けに寝転んだところまでしか覚えていなかった。人生で最も寝つきが良かったのではと思えるほどだった。


 身を起こす。窓がないので、朝なのか昼なのか夜なのか、区別がつかない。ふと左手首を右手で掴んだ。腕時計が残っている。どうやら身に付けていたものも、体と共にあの世に引きずり込まれているらしい。液晶のデジタル腕時計で、バンドは黒のプラスチック製だった。文字が大きくて見やすいという実用的な理由で好んで使っているが、高級感も洒落っ気もないので、占い中は外していた。2016ー03ー20(SUN)07:32。土曜日がすっ飛ばされて、日曜日になっていた。ディビッドの妙な話を聞かされて頭が疲れていたのは確かだが、まさか土曜日はずっと眠っていたのか。


 ディビッドはロッキングチェアに座って目を閉じていた。寝ているようだ。


 昨日から続く不可解な出来事のカラクリは、結局何ひとつわかっていない。ディビッドの化けの皮を剥がすどころか、終始ディビッドの話に圧倒されていただけだった。


 ディビッドは訊かれたことについて、常に即答していた。話に詰まることもなく、考える素振りも見せず、台詞を読んでいるような不自然さもなかった。悠然とした態度で、自分の言葉で淡々と話していた。今までいろんな人の話を聞いてきたが、昨日のディビッドの話が最も理路整然としていたような気さえした。人類よりはるかに高い知能レベルを有する存在。本気でそう思わせる風格すらあった。


 参ったな。後頭部を掻いた。さて、これから、どうしたものか。


 ベッドの下に自分の靴が揃えられていたので、それを履いて立ち上がった。ディビッドはまだ目を開けない。足音を立てないようにライム色の扉に近づき、好奇心でドアノブを掴んで、回して、引いてみた。開くわけがない、という真弥の予想に反し、扉はあっさり開いた。


 目の前に男性用の小便器が並んでいた。


 え?


 後ろを振り向くと、先ほどまであったはずの、センスのない部屋がディビッドごと消えていた。そこは薄汚れた大便器のある狭い個室だった。男性用トイレの中にいることに気づいて、慌てて外に飛び出した。


 見覚えのある光景が、目の前に広がっていた。程よく密集している樹木、地面にまばらに散らばる枯れ葉、樹木の隙間から見える巨大な高架橋。


「首都高速」


 無意識で呟いていた。


 東京都立赤塚公園。


 武蔵野崖線の地形を生かした自然豊かな公園だった。面積は約二十六ヘクタールと広大で、七つのエリアに分けられている。全体的に東西に細長く、その距離は約二キロにもなる。真弥が立っているのは番場地区と呼ばれるエリアの西端にある公衆トイレ前だった。


 以前に住んでいた高島平の一軒家から近いこともあって、かつては頻繁に赤塚公園での散歩を楽しんだものだった。しかし現在住んでいる下赤塚のマンションからは微妙に遠いため、すっかり足を向けなくなっていた。


 近くの樹木に手を伸ばしたが、何の感触もなく手首まで幹の中にめり込んだ。わかってはいたが、気分が沈んだ。厄介な状況は少しも変わっていない。


 なぜ突然、赤塚公園に来てしまったのだろうか。


 同じところに留まっていても何もわからないので、取り敢えず遊歩道を東に向かって歩いてみることにした。すぐに林を抜けると、芝生がメインになり、それなりに視界が開ける。遊歩道の幅は狭く、人同士が擦れ違うと肩が触れそうなくらいだった。


 前方から柴犬を連れた若い夫婦が近づいてくる。真弥はしゃがみ、柴犬の顔に手を伸ばしてみた。柴犬も若い夫婦も、真弥をまったく認識せず、そのまま真っ直ぐ真弥に突っ込んできて、当たり前のように体を擦り抜けていった。またすぐに、薄手のジョギングウェア姿の男性が軽やかなピッチで走ってきた。真弥は思い切って男性の前でコマネチのポーズをしてみた。男性は真弥の存在を完全に無視して擦り抜けていった。何とも言えない虚しさに襲われた。


 そういえば、まったく寒くない。


 昨日はダウンジャケットを羽織っていても肌寒さを少なからず感じていた。それがたった一日で、ダウンジャケットなしでも平気なほど季節が急速に進んだとは考えにくい。振り返ると、若い夫婦は二人共、暖かそうな外套を羽織っている。


 顔の前で右手の平をひらひらと動かしてみる。空気の抵抗は感じるが、手に冷感は微塵もなかった。


 気温を感じない。


 真弥は今まで頑なに抗ってきたものを、不用意にすべて受け入れてしまった。


 転換とは、私の周りの環境ではなく、私自身の性質が変わることだったのだ。私はもう人とは違うものなのだ。


 全身から気力が抜け落ちた。


 まず考えたのが、母親のことだった。毎週月曜日と木曜日、老人ホームに母親の着替えを届け、また汚れた衣服を引き取って、自宅で洗濯するのが決まり事になっていた。弟夫婦が同じ東京にいるのだから、私の代わりをしてくれるだろう。


 次に考えたのが、自宅のシンクに置きっ放しにしている食器や、リビングや自室に脱ぎっ放しにしている服のことだった。おそらくその内、弟が自宅の整理に来るだろう。姉貴はズボラだったな、と弟に思われるのは不愉快だった。特に六本のティースプーンがすべて未洗浄なのが心残りだった。あれでは一週間食器洗いをしていないように誤解されてしまう。


 さらに頭をよぎったのは綾子のことだった。綾子の顔を思い浮かべると、胸が締めつけられた。稼ぎ頭の占い師が急にいなくなり、レストラン街のマネージャーとして、その対応に追われていることだろう。しかしそれ以上に、綾子の精神面が気がかりだった。寂しくて耐えられないから、真弥より先に死ぬ、とまで言っていたのに、真弥の方が先にこの世からいなくなってしまった。


 ごめん。


 目に涙を滲ませた。


 綾子のこと、守ってあげられなくなってしまった。


 芝生が少なくなり、樹木が再び多くなってくると、番場地区の東端が近づいているサインだった。崖線に近い右側の方がやや高くなっており、子供が遊べる小グラウンドがある。グラウンドの端に木製のベンチがあり、そこに座る一人の男性の姿が、木々の隙間から見えた。見覚えのあるその真っ白な髪。真弥は涙を手の平で拭い、小走りでグラウンドに駆け上がった。白髪の男性は近づいてきた真弥に顔だけを向けた。


「どうも」


 温和な表情で声を掛けてきた。真弥を認識しているので、間違いなく天使だ。


「アナフィエルさん、だったっけ?」


 真弥は少し息を切らしていた。


「私のこと、ご存じなのですね。宇宙人が喋ったんですか」


 どうやらディビッドは天使界隈でも有名なようだ。


 アナフィエルは間近の方が、よりイケメンに見える。シミもシワもほくろもない透き通る肌が、四十六歳のオバサンには羨ましい限りだった。ただし肌色が不自然に悪く、赤味がない代わりに少し青味がかっていた。


「西本真弥さん、お待ちしておりました。良かったら隣、どうですか。立っていても疲れるでしょうし」


 アナフィエルはベンチの端に寄り、真弥が座れるスペースを空けた。


「私がここに来ること、知ってたんだ」

 

 真弥は警戒しながらも素直に座った。座高がほぼ同じなので、身長もほぼ同じだろう。真弥の身長は平均的な日本人女性と同じなので、アナフィエルは日本人男性の中でもかなり小柄ということになる。もっとも、日本人どころか人間でもないが。


「桜の木がたくさんありますね。特にあの大桜の枝ぶりは見事です」


 桜の木が小広場を囲むように並んでいる。


「蕾も膨らんでいますし、もうすぐ開花ですね。ここの桜は美しいんでしょうか」


 アナフィエルの声はどこまでも優しく、また甘かった。


「そこそこ綺麗だよ。もっと華やかな桜の名所が、東京にはたくさんあるけどね。さあて、今年の私、満開の桜を見られるのかな」


「さあ、どうでしょう」


「とぼけちゃって」


 真弥は苦笑いを浮かべた。


「正直に言いますと、真弥さんはここで死ぬ予定になっています。間もなく三大天使の一人、ガブリエルが到来します。《世界》の秩序を守り、《世界》に発生した異物を排除する役目を担っている三大天使ですが、異物を直接探知することはできません。一方、私は他のどの天使よりも早く真弥さんを探知することができます。三大天使は私を介して真弥さんの位置を知ることになります」


「つまり貴方は私のマーキングみたいなものね」


「いい表現です」


「で、今から、そのガブリエルとやらが、貴方を介して私を殺しに来ると」


「そうです。早く逃げた方がいいと思いますよ」


「そんなこと言っていいの? 貴方も私の命を狙う側でしょ?」


「真弥さんの死後、その魂を神の下へと導く。私の役割はそれだけです。真弥さんこそ、どうしてそんなに呑気にしていられるんですか」


「慌てたところで、天使様から逃げ切れるもんでもないでしょ?」


「昨日は逃げ切ったじゃないですか」


「昨日はまあ……、宇宙人が助けてくれたからね」


「で、今日も助けに来てくれると」


「そんなこと思ってないよ」


 真弥は両手を頭の後ろで組み、さらに足も組んだ。


「宇宙人を信用してないんですか」


「最近会ったばかりの宇宙人なんか、信用できる?」


「それもそうですね」


 アナフィエルが微笑んだ。

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