ガブリエル書(5)
あれ?
身を起こすと、なぜか見覚えのない部屋にいた。
叫ぶ意味がなくなったので、すぐにやめた。
人の気配を感じて右を向くと、ディビッドがモダンなデザインのロッキングチェアに座っていた。目を閉じて微動だにしないが、首が真っ直ぐ立っているので、まるでマネキン人形のようだった。これで寝ているのだろうか。
落ち着いたクリーム色の壁。床はライトグレー。天井はホワイトで、円盤状のシーリングライトが付いている。壁も床も天井も、質感はプラスティックに近いが、光沢のなさは画用紙のようだった。
部屋の広さは十畳くらいだろうか。床の形はほぼ正方形、壁の二隅付近ににライム色とスカイブルーの扉がある。一人暮らしサイズのクローゼットがあり、壁より若干濃いクリーム色をしていた。真弥がいるのはべッドの上で、布団と枕は真っ新な純白だった。その軽さと柔らかさから、中身はおそらく羽毛だろう。窓は一切ない。
それがこの部屋のすべてだった。
シンプルなのは悪いことではないが、真弥をげんなりさせるほど、色使いにセンスがなかった。
自分の服を確認する。ブラウンのロングネックセーターにベージュのチノパンは変わらないが、ダウンジャケットはどこにいったのだろうか。
音がしなかった。人間は完全な無音状態に耐えられない、という話をどこかで聞いたことがあるが、何のストレスも感じていなかった。
今まで眠っていたのだろうか。池袋駅のことは悪夢だったのか。いや、むしろ今こそ夢の中なのではないか。そうでなければ、自分がこのセンスのない部屋にいる理由がわからない。池袋駅の三階から落下し、地下一階コンコースに叩きつけられる直前までの記憶はある。実際の自分は瀕死の状態で、冷たいコンコースで気を失っているのではないか。
真弥は自分の頬を思い切りつねった。かなり痛かった。
「何をしている?」
声を聞いて、反射的にディビッドの方を向いた。ディビッドの目が開いている。
「ここは、どこなの?」
「私は、バックルーム、と呼んでいる」
「バックルーム?」
「君は百貨店で働いていたが、客が立ち入れない売場裏側のことをバックヤードと呼んでいなかったか」
「……呼んでたけど」
「それと同じだ。ここは《世界》の裏側に構築した私のアジトだ」
「あの世ってこと?」
池袋駅でのディビッドの話が頭の中に蘇ってきた。
「私があの世に例えた《天使の領域》は《世界》の中だが、ここは《世界》の外だ」
何を言っているのか、さっぱりわからない。
ディビッドの話を振り返ってみると、下赤塚のマンションからバックルームまで、一貫して現実離れしている。そして今は事実上、このいかれた中二病外国人に監禁されているらしい。
よし。これまでの不可解な出来事のカラクリを、いかれたイリュージョンの仕掛けを探し出してやろう。そしてその裏に隠されたディビッドの企みを暴いてやろう。今こそ、得意の考えすぎを発揮する時だ。まずはできるだけ情報を引き出すことだ。幸いなことに、この外国人は随分とお喋りなようだ。
「貴方は何者? 天使と戦っているようだけど、ひょっとして悪魔?」
「違う。異星人だ。銀河系星雲内にある母星の知的生命体によって生成された、君達の言うところの人工知能だ」
予想以上にいかれた答えが返ってきた。スピリチュアルな妄想にSFまで混ぜてくるのか。
「人工知能って、人なの?」
負けずと、ちょっと揚げ足を取ってみる。
「惑星単位で最も知的な存在を、生命体か否かに関わらず、私は『人』と呼んでいる」
即答だった。これくらいの質問は想定していたのだろう。
「貴方の星、どこにあるの?」
「銀河系中央のブラックホールと母星を結ぶ線は、ブラックホールとこの星を結ぶ線の百六十二度先だ」
少しわかりにくい言い方だが、仕方ない。火星にすら降り立ったことのない地球人が、はるか彼方にある星の位置を説明するのに最適な表現を持っているわけがない。
「つまり……、銀河系のほぼ反対側ってことでいいのかな」
「それでいい。母星からブラックホールまでの距離は約三万四千光年、母星からこの星までは約六万光年離れている」
「随分遠くからいらっしゃったのね。物質は光速以上では進めないはずだから、貴方は六万歳よりはるかに年を取っているってこと? それにしては随分若そうだけど」
大学では日本の古典文学を研究してきた文系人間だが、アインシュタインの相対性理論なら雑学程度にかじっている。
「私が宇宙航行を始めたのは三十四年前だ。君達の言うところのワープに近い次元間航行法を使っている」
ワープというSFの定番ワードを安直に使ってくるところに、設定の甘さを感じる。このまま順調に矛盾を突いていけば、ディビッドのペテンを意外と早く崩せるかもしれない。
「またこの体はこの星の人のものだ。ディビッド・ヘンダーソンは元々、日本滞在歴十五年の、四十三歳のアメリカ人だ」
「体を乗っ取ったってこと?」
「そうだ」
「どうやって?」
「それは言えない」
取り敢えず何でも話してくれる印象があったが、拒否することもあるのか。乗っ取り方法まで考え切れていなかったのだろう。
「じゃあ、本来のディビッドさんの人格はどうなっているの。二重人格みたいになっているのかな」
「一つの個体に二つの自我を共存させることは禁止されている。アメリカ人の自我は抹消した」
多少冷酷な方が、異星人としてのリアリティが増す。
「随分とひどいことをするんだね。ディビッドさんが気の毒だし、アメリカにいる家族も可愛そう
人の情を刺激してみる。
「いかにも低レベルな知的生命体的発想だ」
ディビッドは平然と言い放った。
「何だって?」
真弥は思わず眉間に皺を寄せた。
「君は今、自分とはまったく関わりのない赤の他人、そしてその赤の他人の家族にまで同情した。さらにそれを私に貶されて憤りを覚えた。知性を有することを誇りながらも、論理ではなく感情という、著しく信頼性に劣る行動因子に支配されている。君は矛盾を内在した不完全な存在だ」
思わぬ言葉のカウンターパンチを喰らってしまった。どうやらディビッドは、ただの中二病患者ではないようだ。真弥は気を取り直そうと一度咳払いをした。
「地球人の体を乗っ取ってまで、この星で活動する理由は何?」
異星人といえば、やはり侵略者のイメージが強い。人類対エイリアンは、SF映画定番のテーマだ。
「私はこの星で静的生命体……、君たちの言うところの植物を調査していた」
「随分平和的なのね」
植物好きの異星人が人間の少年と交流するSF映画を子供の頃に観賞したのを思い出した。大ヒットした映画だったので、この外国人も知っていておかしくなかった。その映画の異星人設定を丸パクリしたわけだ。
「侵略は考えてないの?」
「この星は母星から遠すぎる。次元間航行は莫大なエネルギーを必要とし、また探査体への負担も大きい。現在の技術での想定航行限界距離は約四万光年。母星を飛び立った三百十六の遠距離探査体の内、六万光年の航行を達成したのは、この個体だけだ。さすがにこの個体だけでは侵略はできない」
この個体? 違和感のある言い方だった。この個体とは、自分のことを指しているのか。
「じゃあ、侵略可能な状態なら、侵略するってこと?」
「侵略に意義があるか、関連するすべての情報を精査し、総合的に判断する」
合理的なところは、人工知能っぽくて良い。