ガブリエル書(4)
どのくらい物思いに耽っていただろうか。再びコーヒーを口に含むと、少し冷めていた。
多くの人々が行き交う中、一人の若い男性がトイレの前でじっと立っていた。真弥との距離は二十メートル程。黒い靴、黒いズボン、黒のショートコートと黒ずくめの服装とは対照的に、髪は綺麗に真っ白で、脱色というよりは遺伝的なものを感じさせ、よく似合っていた。中性的な雰囲気を漂わせる顔立ちで、韓流アイドルグループにいそうなくらいのイケメンだった。ただ肌色が悪く、健康そうには見えなかった。
白髪の若者の視線は、ずっと真弥に向けられていた。
真弥はさりげなく目を逸らし、右手の缶コーヒーをバッグを持っている左手に移し、掻き癖のある後頭部を右手で撫でた。
自慢ではないが、若い頃は美人だとよく褒められた。しかし今は年齢に抗って、シミとコジワの抑制と、スタイルの維持に悪戦苦闘している、ただのオバサンに過ぎない。私に気がある、なんてこと、あるはずがない。たまたまこちらを向いているだけだ。
真弥は自分を戒めるように軽く息を吐いた。
まったく、今日は妙な男に縁がある日だ。
もう一度、白髪の若者にそろりと視線を向けようとした。
その時、ブゥン、という耳をつんざく音がすると共に、真弥の体が振動した。思わず、ウッ、と胸が潰れるような声を発し、前屈みになった。左手の力が緩み、バッグと缶コーヒーを床に落とした。振動は二秒ほどで収まったが、暑くもないのに額から汗が吹き出した。
東京という地震多発地帯で四十六年も生きていると、何らかの揺れを感じると、反射的に地震を連想する癖がついてしまっている。しかしさすがにこれは違う。上目使いで駅構内を見回す。人々の平然とした様子から、何も起こっていないのは明白だった。
何かが起こったのは、自分だけだ。
あの時、体全体が均一に、細かく激しく振動した。いや……。真弥は先ほどの感覚を自分の頭で分析しようとした。自分を構成する全細胞の間に、得体の知れない何かが一気に浸透してくるような感覚。まるで体が何かと混ざり合って、自分という存在が薄まったかのような。
また余計なことを考えすぎている。
姿勢を元に戻した。額の汗もすでに止まっている。体のどこにも異変を感じていない。熱くも寒くもない。
今日は忙しかったから、自分が思っている以上に疲れているのかもしれない。年を取れば、妙な症状が突然現れることもある。何か大きな病気の前兆かもしれない。一度体の隅々まできっちり検査してもらおう。土日は病院が休みだから、月曜日にでも人間ドックを予約しておこう。
落とした缶からコーヒーが少しこぼれ出ていたが、バッグを汚していないのは幸いだった。まずはバッグを拾い上げようとしゃがみ込み、持ち手を掴もうとしたが、掴み損ね、ただ拳を握っただけになった。
やれやれ。真弥は軽く溜息をついた。バッグとの距離感がわからないほどに疲れているのか。自宅に帰ったらすぐに寝た方がいいな。
今度は持ち手ではなく本体ごと掴もうと、袋口の方から手を伸ばした。袋口に手が当たっているはずなのに、感触がまったくなかった。首をかしげながら、手をおそるおそるバッグ本体の方に動かしてみる。手がバッグに入り込み、バッグの中を通り、そして底から抜けた。やはり感触がなかった。手がバッグの中を擦り抜けたのだ。
え?
缶にも手を伸ばしてみる。掴めない。こぼれたコーヒー液に右手の人差し指を浸してみる。床の固い感触はあったが、液体で濡れる感触はない。手をそっと上げ、指を顔に近づける。コーヒー液が付着していない。真弥は自分の視覚を疑うように、目を大きく見開いた。
駅構内にアナウンスが響いた。
お客様に申し上げます。大山駅・中板橋駅間の踏切におきまして、車両との衝突事故が発生致しました。詳細につきましては、只今確認中です。新しい情報が入り次第、皆様にお伝えします。
今までの人生の中で、戦慄、という言葉がここまで当て嵌まる瞬間はなかった。自分が立ち上がったことにすら、自分で気づいていなかった。まさかあんないい加減な即席タロット占いが当たるとは。一度でもマンションを離れたら、二度と戻ろうとしてはならない。戻ろうとすれば、死ぬ。蘇ってきたディビッドの言葉に迫られ、思わず後ずさりした。壁が背中に当たった。
「電車に乗らなかったのは賢明だった」
左の耳元で声がした。真弥は反射的に声の方を向いた。ビジネスマン風の黒髪の白人、ディビッド・ヘンダーソンだった。
「電車の二両目にタンクローリー車を衝突させ、爆発させる。それが彼らの計画だった。おそらく計画通りに実行したのだろう」
電車の二両目に乗るのは、真弥にとって帰宅時の決まり事だった。
「現場となった踏切は大型車が通行を避けるような細い道にある。そこに危険物を満載したタンクローリー車が時速百キロという非常識なスピードで進入する。かなり強引で大胆な計画だ。極力目立たないように行動する彼らが、敢えてここまで目立つ行動に踏み切った。そこには必ず成し遂げなければならないという強い意志が感じられる」
「強い意志?」
「西本真弥、君の殺害だ」
「はぁ? ちょ、ちょっと待って」
真弥は右手で自分の額を押さえた。
「私の命を狙ったってこと?」
「そうだ。彼らが計画を発動させたのは、おそらく君が改札を抜けたタイミングだろう。君は本来、成増行き普通電車の二両目に乗り込むはずだった。しかし君は乗り込まなかった。それを彼らも察知していた。それでも彼らは計画をそのまま続行した。私にとってもそれは意外だった。彼らの目的が単純に、君を爆死させる、というものだと私は認識していたが、どうやら少し違っていたようだ。もし上手く爆死させられなくても、君の転換だけは必ず完遂する、という二段構えで臨んでいたのだとすれば、辻褄が合う」
「転換?」
「別の領域に移動することだ。君の場合は、《人の領域》から《天使の領域》へ強制的に移動させられた。今の君は《人の領域》ではなく《天使の領域》に存在している。対して足元のバッグとコーヒー缶は《人の領域》に存在している。《天使の領域》からは《人の領域》の存在に対して物理的な接触ができない。つまりバッグとコーヒー缶を見ることはできるが触れることはできない。それは先ほど、君自身が確認したはずだ。また《人の領域》の存在は、《天使の領域》の存在に対して作用しない。つまり駅構内を行き交う人々に、君を認識することはできない。君を目で見ることも、君の声を聞くことも、君の匂いを嗅ぐことも、君の体に触ることもできない」
この外国人は何を言っているのだ。
見えないし、聞こえないし、匂わないし、触れない?
試しに、近くの通行人に腕を伸ばしてみた。腕が通行人の体の中に入り込んだ。真弥の腕に何の感触もなかったし、通行人はまったくの無反応だった。
「え? 何これ?」
「君が直面している現実だ」
「……いやいや、そんなわけないじゃない」
真弥は首を横に振りながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
「状況を受け入れがたいのは理解するが、早く受け入れた方が君のためだ」
「わからないわからない」真弥は首をさらに激しく横に振った。「人の領域とか、天使の領域とか、わけがわからない」
ディビッドは少しの間、ピクリとも動かなかった。おそらく深く考えていたのだろう。
「言葉の正確性に問題があるが、《人の領域》はこの世、《天使の領域》はあの世と言い替えれば理解がしやすいかもしれない」
「私がこの世からあの世に行ったってこと? つまりそれって、私が死んで、幽霊にでもなったってこと?」
「違う」
「私がこんな訳のわからない目にあった上で死んだことを、貴方は早く受け入れろって言うの? そんなの、おかしいでしょ? 私、何にも遭っていないのに、どうして死ななきゃいけないの?」
声が荒ぶってきた。
「私は違うと言った。君は落ち着いて、私の話をよく聞いた方がいい」
「これが落ち着けるわけがないでしょ」
「君はまだ生きている」
混乱を極める真弥に対し、ディビッドはあくまで冷静だった。
「しかし他人からは死んだと見なされる存在になったことは確かだ。今後、君は《人の領域》で、凄惨な鉄道事故の犠牲者、として扱われるだろう。君の死体は、彼らによって偽造される」
「私の死体を偽造? ふざけないで!」
「君の感情は理解できるが、私に怒りの矛先を向けるのは筋違いだ」
「うるさい!」
真弥は怒鳴った。
「さっきから、彼ら彼らって言っているけど、彼らって何なのよ」
「天使だ」
「天使?」
真弥の声が裏返った。
「天使なんてもの、存在するの?」
「存在する」
非常識なことを、ためらいなく、はっきりと言われた。呆気に取られたおかげで、ほんの少し気持ちが静まった。
「ひょっとして、天使の領域って、何か、比喩的な表現じゃなくて、本当に天使が使う領域って意味なの?」
「そうだ。人智を超えた能力を有する天使が《人の領域》で活動すると、《世界》に矛盾を生じさせる可能性がある。それ故、彼らは《天使の領域》でのみ活動する。人々に姿を見せず、人々に気づかれないように、その能力で間接的に人々に影響を及ぼす。ただし例外が一人だけいる。あそこを見ろ。男性トイレ前に立っている、白髪の若者だ」
真弥はディビッドが指差す方を向いた。白髪の若者が依然として真弥を見つめている。
「彼の名はアナフィエル。《人の領域》でもその姿を晒す唯一の天使だ。人間の死後、その魂を肉体から分離し、神の下まで運ぶのが彼の役割だ。まさか自分だけでなく、他者を身体ごと転換させる能力があるとは、私も知らなかった」
あの振動の時か。
「他者の身体を転換させるとなると、天使単独の能力では実行できないはず。そこで電車の爆発を利用したわけだ。電車の爆発によって、《世界》の秩序に混乱が生じる。その混乱は小さく、すぐに修復されてしまうが、アナフィエルが能力を発揮するには充分な隙となる」
ディビッドは何かを察知したかのように、真弥から目を逸らし、線路の先に広がる夜の暗闇を睨みつけた。
「ガブリエルが近くに迫っている」
「ガブリエル?」
真弥はディビッドの視線に合わせたが、夜の暗闇しか見えなかった。
「《世界》の秩序を守る三大天使の一人だ。タンクローリーと電車の衝突事故は、彼の仕業だ。彼が固有能力でタンクローリーの運転手の精神を操ったのだ。君が《天使の領域》に転換したことによって、ガブリエルは今後、《世界》の秩序を気にすることなく、君を直接攻撃できるようになった。これは相当分が悪いが、メリットがないわけではない」
ディビッドはそう言うと、真弥を軽々と抱き上げた。人生初のお姫様だっこに、これほど異常な事態に晒されているにも関わらず、真弥は少しときめいてしまった。
「一旦逃げる」
ディビッドが途轍もない勢いで走り始めたことで、真弥のときめきは瞬時に消し飛んだ。自動改札機を駆け抜け、駅前コンコースの通行人を避けようともせず、そのまま体を擦り抜けた。走る速度を緩めないまま、超人的な動作でお姫様だっこからおんぶに手際良く変え、すでに運転を終了しているエスカレーターを一段飛ばしで三階まで駆け上がった。そして再びお姫様だっこに変え、三階の手摺りをハードルのように軽々と飛び越えた。真弥とディビッドの体は、吹き抜けになっている地下コンコース目掛けて落下した。重力を受けて加速していく中で、真弥は体の中身が上空に放り投げられるような感覚に襲われ、本能的に恐怖の叫び声を上げた。
きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ。