第6話 急襲
改訂版と入れ替えております
大きなナメクジにもタコにも見えるそれは、口は耳元まで割け、長く大きな牙が生えていた。
体は赤い液体で覆われといるというよりは解けかけのようで、二本の手だけが異常なまでに発達していた。
目は白く濁った部分のみで、顔の大半を占める口からは大量の唾液が流れていた。
あまりの気持ち悪さに言葉すら出ない果竪を、その異形は獲物とみなしたのか、鼻息荒く近づいてくる。
「こ、来ないで!!」
後ろに下がった果竪は、片足が宙を蹴る感触にハッと振り向く。
背後にあるのは干上がった泉。
しかも干上がって分かったが、大きなすり鉢状となっていた。
深さは……どう見ても五㍍はあり、後一歩踏み外せば一気に底まで転げ落ちる。
後ろから吹き付ける生臭い風を浴びて振り返れば、眼前まで迫った異形の腕があった。
慌てて避けようと体を後ろにずらした途端、果竪の体が沈む。
足を踏み外したのだ。
「きゃぁ――」
果竪の体が干上がった泉の底へと転がり落ち、何度も体を打ち付けながら、ようやく底で止まる。
「イタ……」
落ち方が悪かったのか、足がズキズキと痛み、手を当てればそれだけで激痛が走った。
化け物が喜悦の咆哮を上げ、果竪の前に降ってくる。
「っ!」
突き出される腕から、地面を転がり逃れる。
痛めた右足が動いた事で痛みに悲鳴をあげるが、立ち止まるわけにはいかない。
なかなか捕まえられない獲物に、化け物が怒りの声を上げた。
腕を激しく振り上げる様は、まるで駄々をこねる子供のようだった。
果竪は何とか隙を突いて起き上がり、体勢を立て直すが、右足を地面につけた途端走った激痛に走るのは無理だと悟った。
それは果竪の絶体絶命を意味する。
すり鉢状となっている泉の底では、斜面を駆け上るしか逃げる方法はない。
しかし……それにはこの足では無理だ。
仮に足を怪我してなくても難しいのだから。
というのも、この泉の底から先程居た場所までは深さにして約五㍍はあり、傾斜も急斜面。
但し、完全に登れないというわけではなく、苦労する程度である。
足を怪我していなければ、時間を掛ければ登る事は出来た。
だが……この状況で時間をかけるという事自体が、命取りとなる。
異形を見つめる果竪の額から汗が流れる。
この異形は、完全に自分を獲物と見なしている。
斜面を登るという事は、相手に背中を見せると言う事だ。
野生動物だって背中を見せれば襲ってくるのだから、既に自分を獲物と認識した異形ならば尚更だ。
果竪はもし自分が足を怪我していなければどうなっていたかと考える。
まず確実に、ここから逃れようとして斜面を駆け上っただろう。
反撃する?そんな事を冷静に考えられないほど、異形は酷く醜く突然の出現だったのだから。
晒した背中を異形は喜々として襲いかかっただろう。
こうなると、足を怪我した事が幸いとも言えよう。
逃げられない状況は同じだか、生きていられる時間は長くなった。
果竪は異形から決して目を離さなかった。
一度でも目を離せば確実に殺られる。
一方、自分から目を離さない獲物に異形も、獲物の出方を窺っているようだった。
驚かせようと咆哮を上げるも、果竪は視線を外さない。
しばし睨み合いが続く。
(どうすればいい……?)
化け物を睨付けながら、果竪は必死に思案した。
このまま持久戦に突入すれば、不利なのは確実にこっちになる。
ならば反撃するしかないのだが……。
痛めた足では飛びかかる事すら無理だ。
となれば、術を使うしかないのだが……。
(神力の弱い私が使える術で……こんな異形を仕留められるわけがないっての! そもそも私は戦闘向きじゃないし――神だからって何でもできると思うなぁぁ!)
それは誰に向けての叫びか。
(ああ、こんな事ならもっと鍛錬しておくんだったぁ!)
……とはいえ、今までの事――過去を思えば、鍛錬の量を増やしたところで無駄としか言いようがないのだが。
強い者だけが生き残った暗黒大戦時代を仮にも生き抜いてきた果竪は、当時夫の率いる軍に所属していた。
そこに居たのは老若男女問わずの猛者達で、次々と敵軍はおろか、世界の境界の不安定により雪崩れ込んできた魔族達にも打ち勝っていた。
しかし――果竪はそれには全く貢献していない。
軍は、前線に立つ者達と後方で支援する者達の大きく二つに分かれていた。
果竪は後者に属していたが、それは名ばかりである。
果竪の神力は、質、量共に一般の神にすら劣り、後方支援では役に立たず、かといって、前線はもっと無理だった。
周囲の鬼指導で護身術は身に付けたが、他の者達に比べれば鼻で笑われる程度。
周囲もそれを知っていたから、果竪を戦場に出さず、後方支援としての働きも期待していなかった。
一方、共に従軍し、誰よりも聡明で強い力を持ち、後に凪国の建国と同時に王の側近として、上層部として国を支え続ける事になる仲間達は、前線、後方支援それぞれでその力を存分に発揮し活躍した。
そんな中、自分だけが違った。
他の者達が戦っているのに、自分は一人安全な場所に匿われてきた。
そんな日々が毎日のように続いた。
役立たずと陰口が叩かれ始めるのは当然の事で、何の役にも立たないくせに、のうのうと軍に居座る場違いな娘だと罵られるのも当たり前の事だった。
軍の仲間達は何も言わなかったが、きっと心の中では思っていたはずだ。
役立たずの穀潰しだって。
雑音は日に日に大きくなっていった。
文武に優れ、美しく聡明な仲間達を取り込み縁づこうと必死な者達。
彼らからすれば、確かに自分みたいな役立たずは、酷く異様に見えただろう。
当たり前だ……戦えもしないのに、軍に居座っているのだから。
役立たず 役立たず 役立たず
周囲はそう言って罵り侮蔑の眼差しを向けた。
そう、自分は役立たず。
皆が必死に戦っている裏で守られているだけで、余計な仕事を増やす。
殺戮と破壊、略奪が横行する中で、夫の同情で軍に居場所を与えられただけの自分。
日々怯える周囲からすれば、憎らしくて仕方なかったに違いない。
なのに、王妃にまでのし上がってしまった。
他の仲間達はその地位に相応しいだけの功績を挙げたからその地位に就いたのに、自分は夫が王になっただけでそうなった。
何も出来ない自分を憂い嘆き、でも何もしなかったのだと気付いてしまった。
自分は、そんな周囲に甘えて過ごし続けた……ただ、それだけ。
おかげで、今も自分は弱いままであり、見事にそのツケが来ている。
居たたまれなさを感じつつ、異形を見据えれば、ニタリと笑ったような気がした。
それが真実笑ったと気付いたのは、化け物の口から飛び出た舌が果竪の足を払った時だった。
一瞬にして視界は薄青に染まる。
泉のある場所は木々の開けた場所だから、邪魔な枝もない。
でも、自分の好きな何処までも澄み切った青空ではなく、雲が多く散らばる空だが、なんでか異形まで浮かぶ。
――え?
背中に痛みが走り、その感触に果竪はようやく自分が地面へと倒れた事を知る。
と、迫ってきた異形の舌が果竪を狙って伸ばされるのが見えた。
ああ、このままだったら確実に串刺しにされて死ぬ。
痛いのかな?
果竪は自分に呆れた。
痛いに決まっているし、普通ここで走馬燈が見えているはず。
しかし見えるのは異形の醜い舌。
だが、化け物の舌が近づいてくるのもとてもゆっくりだったから、きっと死ぬ寸前なのだ。
ああ、もう少しだ
もう少しで舌が届く
でも体は動かない
痛いかな?
痛いよね
自問自答し、また自分に呆れる。
このままだと死ぬ。
死んだら明燐達は悲しむだろうか?
一人で勝手にうろついたからよって……涙をボロボロこぼして……うん、だって、明燐は優しいもんね。
自分の訃報はきっと王宮にも伝わるだろう。
そこで果竪は呼吸するのもままならない程の胸の苦しさを覚えた。
王宮に伝わる訃報は当然王宮の皆の耳にも入る……夫の耳にも。
たとえ同情からでも、悲しんでくれるだろうか?
逃げもせず、抗いもせずそんな事を思う自分が居る。
王妃である自分がこんな所で死んだらそれこそ大問題なのに、今、ここで死ぬ事で叶う甘い夢を望む。
夫と愛妾の仲睦まじい姿を見ずに逝けるという、甘い夢――でも、世の中そう甘くはなかった。
地面に密着する背中を通して受けた二度目の地震に、果竪は意識ごと吹っ飛んだ。
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