第59話 旅立ち
沈みゆく月と上る太陽の交代の時。
黒から菫色に、次第に薄い青へと変わっていく様は、一種の感動すら覚える絶景。
一時間もしないうちに、完全に夜が明ける。
焼け野原となった『聖域の森』も同じ。
朝はどんな場所だろうと等しくやってくる。
例え朝露に濡れる葉がなくとも、日の光を求めて天を向く木々がなくとも、朝日を浴びて美しく咲き誇る花々がなくとも――そして、それらの恩恵に与る動物達が姿を見せずとも……朝の光は等しく全てのもの達に降り注いだ。
「よっと」
軽やかな足取りでその場に現れたのは果竪だった。
しかし、身に纏う服はいつもの動きやすい服とは違い、上等な絹で作られた衣だった。
貴族の娘が身に纏うにはあまりにも質素過ぎるが、一般市民からすれば触るのも躊躇われるほどの一級品。
長い裾と袖を綺麗に翻し、果竪は『聖域の森』の前に立つ。
「来ちゃった」
明燐の目を盗み、迎えの者達に気づかれないように此処に来た。
「今日、王宮に行きます」
果竪は『聖域の森』の入り口に立ち、静かに告げた。
「今までありがとう」
この二十年、自分の憩いの場となっていた森に果樹は優雅に一礼する。
「思えば……私が一人で泣くときって、いつも此処だった気がするな~」
辛い時、哀しい時、気づけばここに足を向けていた。
誰にも言えなくて、一人で悩むのも苦しくて夢中で歩けばいつも此処に辿り着いていた。
「沢山のものをくれたね」
果竪はこの森が好きだった。
優しくて雄大で包み込むように訪れる者達を歓迎するこの森が大好きだった。
それに――この森は故郷の森によく似ていた。
もう今はない故郷。
暗黒大戦で滅ぼされた故郷を偲ばせる『聖域の森』は、果竪にとってもかけがえのない場所である。
「また戻ってくるから」
それは、『聖域の森』だけでなく、ここで出会った少女にも向けられた言葉。
「ふふ、あのね、やっぱり昨日の夜もまた悩んじゃった。本当にもう堂々巡り! ウジウジず~~っと考えちゃって……やっぱり、私はこの先もずっと同じ事を何度も悩むんだと思う」
でもね――。
「それで、いいんだよね?」
たとえ何度も悩んでも、答えを出してもまた同じ事を悩んでも。
「だから、私、頑張るね」
いつの日か、心から納得出来る答えが出せるように。
「ありがとう――カヤ」
弱くてもいい。
悩んでもいい。
初めてそう言ってくれたカヤに、果竪はペコリと頭を下げた。
「――まあ、でも……王宮に戻ったら、昨日植えた愛する大根達の成長が見れないのがハンカチを引き裂きたくなるほど悔しいんですけどね」
カヤが居たら絶対ツッこむ事間違いなしの発言だが、果竪にとっては真剣な悩み。
一つ気になれば次々と気になり出していく。
「それに、州都で手助けしてくれる大根の妖精達のあの艶めかしいステップも……」
あの白くほっそりとした二本の足が紡ぎ出す軽やかなステップ。
更に、しなやかに伸びる二本の腕で繰り広げる職人技とニヒルな笑みは果竪にとっての癒しだった。
それが見れなくなる。
王宮に戻ったら見れなくなる。
見れなく……。
「王宮に戻るの止めようかな」
王宮と大根を天秤にかけた挙げ句、迷い無く大根を取った瞬間だった。
「大根のステップ、大根のニヒルな笑顔、大根の――」
寧ろ帰って下さい。
『聖域の森』が話せれば速攻で叫んだだろう。
さっきまでの感動的な光景が怪しい光景に移り変わる。
というか、焼け跡でぶつぶつと大根と呟く少女を見れば、誰だって通報したくなるに違いない。
「写真、そうよ写真よ! また時間はあるわっ! 愛する大根達の艶めかしく艶麗な姿の写真集を作らなきゃ! 第百巻まで」
いつまで滞在する気だと明燐に却下されるのは目に見えるだろうが、今の果竪にはそんな予想はこれっぽっちもない。あるのはただ大根への愛のみ。
愛 LOVE 大根。
その三文字だけである。
「この日の為に、毎日百円ずつお小遣いを貯めて買った最新式デジカメの性能を試すときが来たわ!」
毎日百円のお小遣い。
それを貰っているのは、子供ではなくれっきとした大国――凪国の王妃。
侍女長である明燐から無駄遣いはするな――と言う名の、大根に全財産をつぎ込まないように財布の紐を握られたがゆえの金額だが、意外にしっかりしている果竪はきっちりと貯金し、デジカメを買った。
そう……大根の白く艶めかしい魅惑の肢体を撮影するために。
「うふふ! 待ってて私の愛する大根達! 貴方達を最新式のデジカメで撮ってあげるから!!」
もはや頭の中は大根のみ。
いざ行かんとばかりに、踵を返して走り出した果竪だったが、数歩進んで振り返る。
「忘れてた」
果竪は先ほど立っていた場所まで戻ると、腰に下げた袋から一本の挿し木を取り出した。
「これね、再会の木って言うらしいの」
李盟から貰った小さな苗木。
何でも、李盟の両親がある事件から離ればなれになった時、立派に聳え経つ一本の木の根元で再会しようと誓い合った。
その後、二人は無事にその木の根元で再会したという。
この挿し木は、その木から得たものだ。
「しかもこの木の凄いところは、不毛の大地を癒し穢れを払い、豊かな大地へと変えるんだって」
但し、それだけの素晴らしい力を持っているものの、その分根を張る力は非常に弱いという。
李盟の両親が再会の場所として決めた木ほどに育つには、かなりの年月が必要だろう。
「けど、それだけ時間があったら、いくら私でも此処に戻ってこれるよね」
この木が必死に根を張り立派に育つその時まで、自分も頑張って全てを終らせて戻ってくる。
「頑張ろうね」
その木はもう一人の自分。
果竪は焼け落ちた森の入り口付近に、その木を植樹した。
「さてと……そろそろ行かなきゃね」
王宮に戻って王妃を辞める。
けど、それと共に果竪には他にも目的があった。
それは、今回の事件の黒幕を捜す事。
そして……銅像を壊した存在、そして『聖域の森』を焼いた者の存在について知る事である。
「まあ、農作物盗難事件とは別件かもしれないけどね」
それでも、銅像も森も果竪にとっては大切なものだった。
それを悪意を持って壊した相手をこのまま野放しにしたくはない。
たとえ王宮が動かなくても、動けなくても、自分だけは最後まで真相を突き止めたい。
「じゃあ、今度こそ行くね」
果竪はくるりと踵を返す。
「またね」
振り向かずに告げると、そのまま歩き出したのだった。
「ようやく行ったわね」
別れを告げるだけでどれだけ時間がかかっているのか
音もなく先ほどまで果竪の居た場所に現れたカヤは、呆れつつも楽しげに笑った。
「いや、ようやくというよりは……もう……かな?」
初めて果竪を見たのは、聞こえてきた泣き声に気まぐれに起きた時だった。
微睡むような優しい眠りから自分を起こしたのは、一人の少女。
地味で平凡で、何の取り柄もなさそうなごく普通の少女。
けれど見る者が見れば誰もが気づいてしまう。
その心の奥底に宿す強烈な意思の光を。
カヤは一目で気づいてしまった。
果竪が自分と同じであることを。
いや、違う。
新しい――である事を。
「けれど、それゆえに貴方は背負ってしまうわ」
あの子はきっと誰よりも強い――となるだろう。
そう、新たな――の中では誰よりも強い存在に。
しかしそれがゆえに、果竪は背負ってしまう。
遙か昔、最後の――がやり残したそれをあの子は背負う。
その小さな体に一身に受けてしまう。
なぜなら、自分達を徹底的に追い詰めた――と同じ存在を、奴らは決して見逃さないから……。
「でももう運命の輪は止められない」
この森で泣いていた少女。
泣いて苦しんで無力な自分を責めて。
けれどそれでも少女は必死に前を向いて歩いていた。
その健気さは、カヤが思わず力を貸してしまいたくなるほどに強く
その運命から逃れさせてやりたいと願うほどに輝いていた。
でも……それはもはや叶わぬ願いである。
「それに……もう私にもあまり時間が残されてない」
壊された銅像、焼かれた森。
鍾乳洞の社はまだ無事だが、それもいつまで持つか。
もうあの社にも力は殆ど残されていない。
自分はいつまでこの世界に留まれるだろうか。
「果竪……」
一つを除いて全てが平凡なのに。
たった一つ非凡なそれがあの子の運命を狂わせる。
「でも、それもまた貴方だけが持つ事の出来た特別なもの」
どうかその重みに負けないで。
どうかその深さに恐れないで。
「ここで起きた事はほんの始まりにしか過ぎない」
けれど、それが全ての始まりとなる。
「頑張ってね、果竪」
古き――。
あの日、最後の一人となった――は、全ての者達に語りかけた。
貴方達に全てを託すわ――。
輝く数多の羽へと変え解放された力は流星の如く全世界へと飛び散った。
あらゆる世界へと飛び、この世に生きる全ての者達の元へと届いた。
そうして消えた最後の――。
それからどれほどの時間が経った頃か。
その光を受け止め新たなる――が少しずつ産まれ始めた。
気づかずに力を使うもの。
気づいて力を使うもの。
それはほんのごく一部の者達だけれど。
新たにその力を持って産まれた者達が心配で、時折起きては様子を見ていた。
果竪はその中でも最たる存在になるだろう。
望まずとも、願わずとも果竪の中のそれは花開く。
「だから……私は眠るわ」
残された力がたとえ微弱だとしても。
せめてその微弱な力がいつかあの子の役に立つように。
「それにしても……あの子もとんだ人達に好かれてしまったわね」
だからこそ、あの子は枷となれたのだろう。
あの子は知らない。
あの子にすがる者達も知らない。
けれど、心の何処かで誰もが気づいている。
あの子に執着する者達の誰もが、心の何処かであの子こそが自分達の枷である事を。
幸薄き少女にカヤは心から願う。
古き時代の全ての――に。
あの子の未来が少しでも幸多き事を。
「古き時代の――。その二の舞にならない事を」
最も愛する者達によって殺された古き時代の――達のようにならないように。
「また会いましょう――果竪」
それは叶うかも分からない願い。
けれどカヤは願う。
次に目覚めた時、残された力が果竪の助けとなる事を祈って……。
ゆっくりと踵を返し、森の奥へと歩く。
足下には焼け焦げた木々が散乱しているにも関わらず、足音一つ聞こえない。
そうして空気に溶け込むようにカヤの姿が消えれば、そこには風だけがいつもと変わらず吹き抜けていった。




