第50話 女神像への誓い
静まりかえった神殿内。
あまりの人気の無さにしまったと思うも、もはや引き返す事は出来なかった。
「はぁ……はぁ……」
先ほど閉めたばかりの扉に寄りかかり、ようやく果竪はその場に崩れるように座り込んだ。
「っ!」
ズキンと足に痛みを感じて視線を向ければ、決して浅くはない傷から血が流れ出ている。水の刃が掠めていたらしい。
「手当……しないと」
ここは神殿だ。治療道具ぐらいあるだろう。
ちなみに、神なのだから力を使って治療すれば良いという考えもあるが、自分の力の弱さを知っている果竪に最初からその考えはなかった。
自分を狙う者から完全に逃げ切ったわけではない今、今後力を使わなければならない可能性が高い。
それを考えれば、容量も少ない神力をここで消費するわけにはいかなかった。
いざ使うという時にありませんという事態になりかねないのだから。
その時、背後で何かが扉に当たる音がした。
それは、神殿の入り口の大扉。鉄製で作られている為に丈夫さには定評があるが、その衝撃音を聞けば長くは持たない事がわかった。
果竪は相手から距離を離す事もかねて、神殿の奥へと進んでいく。
明かりの灯っていない廊下を歩き、記憶を頼りに物品庫へと向えば、そこには薬草から抽出した薬品が棚一面に置かれていた。
その中から、必要なものを手に取り、同じく部屋で手に入れたガーゼにしめらせ傷口にあてた。
「つぅ――」
最初は痛みを感じたが、すぐにそれも消える。
代わりに、薬品による効能により血が止っていく。
「これで……よし、と」
だが、失った血までは補えない。
思ったよりも出血が激しかったのか、立ちくらみが起きる。
「こんな時は……」
果竪は薬品棚かに目当てのものを探していく。
そうしていくつかの薬品を手に取ると、同じく探し出したビーカーと試験管にそれらを入れて調合する。
やはり、いざという時に薬に詳しい事は強みになる。
そうして試験管の中で混ざった薬品は新たな薬へと変化する――増血剤へと。
果竪はそれを一気に飲み干した。
何の味付けもしてないそれは、酷く苦く思わずはき出してしまいそうになるも、気力で飲み込んだ。
「ぐ……く……」
最後の一滴まで飲み込み、果竪はしばらく目を閉じて意識を喉に集中させる。
何度もはき出しそうになりながら、それでも必死に耐え、ようやく吐き気が静まる。
これでもう大丈夫。
即効性があるが、その分苦みが酷い果竪特性の増血剤。
だが、一度飲んでしまえば五分もしないうちに体が失った血を補う。
既に体は熱を帯び、血を作りだしている事がわかる。
後は、熱が収まるまで体を休める必要があるのだが……。
遠くで、ドォォォンと何かが破壊される音が聞こえた。
「ここも長くはいられないみたいね……」
果竪は近くから、傷を癒す薬品を手に取り数枚のガーゼに染みこませると、それを袋に入れて懐に染みこませる。これで少しは持つだろう。
他にも何か使えるものはないかと探すが、どうやら傷を癒す薬品は今ので最後らしい。もし無事に逃げ切れたらストックしておかなければ。
果竪は完全に傷の癒えた足を確認すると、呼吸を整える。
音はかなり遠くで聞こえたが、だからといって行動は慎重にしなければならない。
果竪は自分が入ってきた扉とは別の扉から外へと出た。
音がどんどん近づいてくる。
扉から出てすぐに、果竪は部屋を挟んだ向こう側で衝撃御を聞いた。
「嘘っ?! こんなに早く?!」
小さく叫びながら、果竪は反射的に神殿の奥へと走る。
その間にも、向こうは果竪を追い詰めるかのように迫ってくる。
まるで決して逃がさないとばかりに、蝮のような執念深さで近づく相手。
長い廊下を走り抜け、扉を抜け、果竪は走り続けた。
神殿内は広い。沢山の部屋がある。
だが、だからといって永久に逃げ切れるわけではない。
また相手の隙をうかがって外に出ようかと考えもしたが、少し戻れば水の糸が逃げ道に張り巡らされており不可能だった。
少しずつ逃げ道がなくなっていく。
神殿に逃げ込んだのは完全に失敗だった。
そう思う頃には、果竪は神殿の最深部へと近づいていた。
「はぁ……はぁ……」
息が切れる。
今までで一番走らされたような気さえする。
静寂の中、果竪の荒い呼吸だけが響き渡る。
だが、それもすぐに押さえ込み呼吸を整える。
大きな音を立てれば相手に気づかれてしまうから。
立ち止まり、五秒以内に強引に息を整え、また歩き出す。
いつまでもグズグズしていれば見つかってしまうから。
「……誰か……」
無意識に漏れる言葉。
誰も人が居ない事は分かっているというのに。
すると、人の代わりに大きな扉が現れた。
それは、果竪が何度も立ち寄った事のある聖堂への入り口。
「……ここなら……少しは持つかな」
果竪は扉を押し開き中へと入った。
「あ――」
聖堂の奥に見えるものに、果竪は目を見張った。
思わず導かれるように聖堂内に足を踏み入れた瞬間、包み込むような温かな風を感じた。
ふらふらと果竪は最奥にあるそれに向って歩き出す。
「相変わらず綺麗……」
そこにあったのは、領主館で見た女性像だった。
相変わらずヴェールで顔の部分は見えないが、聖母のようなその姿に果竪が思わず心に浮かんだ言葉を呟いた。
すると、再び柔らかな風を感じた気がした。
「……守って……くれてるんですか?」
ポツリと言葉が漏れた。
それに応じるかのように、再び風を感じる。
「……ありがとうございます」
すると気が抜けたのか、座り込んでしまった。
だが、それまでのように慌てて立ち上がることはせず、果竪は黙って女神像を見上げていた。
此処に居ると、すべてがどうでも良くなるような気がした。
外の煩わしいことも、自分の身に起きていることも、今後の事も。
自分を取り巻くすべてがどうでもいいのだと思えてくる。
「……けど……いつまでも此処にはいられない」
それは、今の事なのか、それとも今後のことなのか。
果竪は女神像に語りかけるように口を開いた。
「此処での生活はとても幸せです。みんな優しくて、楽しくて、とても幸せでした。あ、だからといって昔が幸せでなかったわけではないです」
何故こんな事を話しているのかわからない。
けれど、ただ伝えなければという気持ちが果竪にそれを言わせている。
「みんな優しかった。凄く良くしてくれた。だから私も王妃の仕事を頑張りました」
庶民が王妃になる事は並大抵の事ではなかった。
多くの者達が、夫の妻には大国の姫か有力貴族の姫をと望む中、常に針のむしろに座らされているようなものだった。
もともと、果竪は王妃になる気など全くなかった。
ただ、夫が大戦にてあげた功績にて大国の王に封じられたが為に、王妃に据えられただけ。
いわば、成り行きで王妃になってしまったのだ。
それだって、自分には分不相応だった。
確かに糟糠の妻という言葉はあるだろう。
だが、出世していくにつれて妻を変えたり、もっと高貴な姫君を妻に迎える男達も多い中、自分は夫の優しさによって王妃に据えられただけ。
古い妻を捨てるにはあまりにも優しすぎた夫が、同情から自分を王妃に据えたのだ。
故郷も家族もなければ、生計を立てていく為の優れた才の一つも持たない自分がここで投げ出されれば生きていくのは難しい。
それを聡い夫はすぐに気づき、それゆえに捨てられなかったのだ。
ならば、自分を正妻ではなく側妻にして新たに正妻を迎えればいいという話にもなるだろう。
実際に、自分を正妃に据える気持ちを変えない夫に周囲は妥協案としてそういう案も出した。
だが、夫はそれすらも首を横に振った。
正妃は――妻は果竪ただ一人だけ。
それは、最後の案として、自分を正妃として認めるが、他にも側室を迎えさせて、子どもが出来ればすぐに正妃を交代させようとしていた者達の思惑を叩きつぶしてしまった。
夫は優秀だった。
上司である炎水家の当主夫妻にかけあい、それを認めさせてしまった。
だからこそ、表だって周囲は動けなくなった。
炎水家に認められた婚姻を崩すということは、かの家を敵に回す事になる。
十二王家を敵に回して生き延びれた者はいない。
そうして自分は夫のただ一人の妻として、凪国建国後も側に居る事が許された。
水面下で動く、王妃を抹殺しようとする者達、夫の妃になろうと、自分の娘や妹を夫の妃にしようと企む者達に常に命を狙われる代償と引き替えに。
でも、それでも幸せだった。
王妃になったがゆえに、自由は失ったけれど、それでもこの安定した生活と引き替えだと思えば何とか我慢出来た。
何よりも、愛する人達の側に居られる事が何よりも幸せでならなかった。
けれど……あの日に起きた事件は自分をこの州へと追いやった。
いや、半分は自ら来たのだ。
すべてに疲れ、すべてが嫌になっていた。
あの日に起きた事件はただのきっかけにすぎない。
本当はもっとずっと前から考えていたのだ。
あの人の側から離れなければと。
なぜなら、自分はあの人の――をしてあげられないから。
王妃として最大の義務を果たせない妻など、あの人には相応しくないから。
だから別の人を。
だから別の女性を迎えて欲しい。
今度は同情からではなく、心から愛した人と幸せになって欲しい。
その思いは本当。
けれど、どこかで思っていた。
あの人が別の女性を迎えるはずがないと。
あの人の手を最初に振り払ったのは自分なのに、傲慢にも心の何処かで思っていた。
自分は醜い。
それは容姿だけでなく、心の中も。
身勝手すぎる自分が嫌になる。
今もこうして思い悩んでいる。
でも、自分が決めたのだ。
最初に、願ったのだ。
だから、同情でも優しく握りしめてくれていた手を自分で振り払った。
夫が今度こそ心から愛する人と共に居られるように。
だから……愛妾を迎えたと知った時、本当は心から喜びすぐさま王妃の座を返上しなければならなかったのだ。
「なのに、私はぐすぐずとしてました」
前に進もう。
そう決心しても、すぐに迷ってしまう。
このまま王宮に戻らなければ王妃を辞めずにいられるのだと。
それが、自分が王宮に戻ることを一番邪魔していたもの。
「戻ると決めました。迷いを吹っ切って……でも、それでも心の何処かで迷ってしまうんです」
口に出して決意までした。
なのに、それでも行きたくない、戻りたくないという我が儘で傲慢な気持ちが出てしまう。
それにまた自己嫌悪し、反省して二人を祝福しようとして、また迷う。
「なんで……私ってこんなに弱いんだろう」
それなら、最初から手を振り払わなければ良かった。
でも、夫には幸せになって欲しくて。
自分みたいな夫の利益にならない平凡な存在が側に居ては夫が困るからと思って。
端から見れば一人よがりで傲慢な考えだろう。
悲劇のヒロインに酔いしれている滑稽な存在だろう。
でも、それでも考えたのだ。
たとえ滑稽でも、傲慢だと罵られても、自分なりに馬鹿な頭で考えた。
どうすれば夫が幸せになれるか、みんなが幸せになれるか。
総合的に考えれば、自分の存在はあまりにもマイナスにしかならない。
それにいつか夫を苦しめる。
本当に好きな人ができた時に。
同情から迎えられた妻は退場しなければ。
「それに……私の考え、完全には間違ってませんでした」
夫は心から愛する人を手に入れた。
正妻が居ながらも、手に入れて側に置きたい、片時も手放したくないと思うからこそ、愛妾として迎えたのだ。
そう……同情ではなく、今度こそ愛する人を手に入れた。
だから……。
「戻って……早く戻って解放してあげなければならないんです」
同じ女性でありながら、愛妾としていまだに据え置かれている人を思えばその不遇に心が痛む。
それもすべては自分がいるから。
自分がいなければ、すぐにでも正妃に迎えられた筈なのに。
自分が愛する人の幸せ邪魔している。
そんなのは我慢出来ない。
あの人は沢山の大切なものをくれた。
今度は自分が返さなければ。
でも、幸せを祝えても……その後ずっと続く仲睦まじい二人の姿には耐えられない。
だから……この我が儘だけは許して欲しい。
二人を祝福して、夫が愛する人を王妃に迎えて一段落したら……人知れず姿を消すことを。
遠くからなら、頑張って幸せを祈るから。
二人がずっと幸せでいられますようにって、頑張って祈るから。
「だから……生きて帰らないといけないんです」
果竪は女神像を見つめた。
別に、王妃を辞めるだけならばここで死んでしまったっていい。
そうすれば王妃死亡という事で、愛妾はすぐにでも王妃の座にあがれる。
だが、それは後味の良い物ではないだろう。
優しすぎる夫の事だ。
きっと、心に傷を残す。
たとえ、別の女性を愛していても、戦災孤児となった自分を保護し妻にまで迎えてくれた人だから。
それに、夫の選んだ人の心も傷つけてしまう。
あの夫が選んだのだ。さぞや美しく心優しく素敵な女性に違いない。
ようやく出会えた二人。
待ち望む新たな門出。
それを、王妃の死だなんていう縁起の良くないもので汚したくない。
「それが……せめてもの私の償いなんです」
今まで逃げ続けてきた償いとして、せめて心からの祝福をしたい。
泣き笑いのような顔を浮かべて女性像を見つめる。
「な~んて……すいません、場違いで今はそんな状況じゃないんですけど……語ってしまいました」
誰にも言えなかった思い。
でも、この女性像には素直に語りかけられる。
「聞いてくれて……ありがとうございます」
女性像はただそこにあるだけで、自分が勝手に話しまくっていただけ。
けれど、果竪には女性像が自分の思いを静かに聞いていてくれていたような気がした。
本当に、なぜ突然こんな事を話したのかわからない。
何の脈絡もなく、突拍子に。
確かに、色々とありすぎて、しかも誰かわからない相手に負われて怪我もして、しかも此処には誰も居なくて孤独で、気持ち的に沈みまくっていた。
だが、それでもここまではっきりと自分の胸の内を語ってしまうなんて思わなかった。
でも……語れて良かった。
何故か果竪は素直にそう思った。
語る相手が、この女神像で良かったと、心の底から思った。
そうして思いの丈を語った果竪は、心が少しだけ軽くなった気がした。
「二人を祝福する……その為には、まずこの状況をどうにかしないとね」
すると、まるで同意するかのように温かな風が頬をなでたような気がした。
ああ、やっぱり聞いていてくれたんですね。
女神像に向って微笑むと、果竪は近くにあった椅子へと腰を下ろしたのだった。
次は、色々とわかってきます。
神殿編は……後、三話ぐらいかな?
しかし予定は未定なので、違ったらすいません(汗)