第32話 瑠夏州
燦々たる有様となった室内は、無事なところを探す方が難しかった。
途中、明燐達が心配して入って来ようとしたが、果竪は全て拒否した。
そうしてようやく壊すものが無くなった頃、李盟は床に座り込んだ。
泣きすぎて頭痛がするらしく、辛そうに眼を細めている。
カーテンが引き裂かれたせいか、先程よりも明るくなった室内。
外は雨が降り続いているが、それでも最初に部屋に入った時よりもずっとずっと明るかった。
李盟の泣き声に、果竪はゆっくりと寝台から立ち上がり歩み寄った。
その体を引き寄せれば腕を突っ張るようにして拒否されるが、それでも構わず懐に抱え込むようにして抱き寄せる。
もう抗う力もないのか、李盟は促されるまま、果竪の胸に顔を埋めた。
小さく、両親を呼ぶ声が聞こえた。
それが酷く悲しげで、果竪は李盟を力一杯抱き締めた。
自分が両親を、住んでいた村を失ったのは十二歳の時。
李盟はそれよりも更に幼くして両親を失った。
自分の場合は、夫が居たし、明燐や沢山の仲間達が居た。
最初から優しかったのは夫と明燐の二人だけだったが、次第に仲間達と打ち解けていくに連れ、寂しいだなんて思う暇もなかった。
それに、皆が甘やかしてくれた。
でも、李盟は甘える時間は酷く少なく、領主になると同時に子供時代は強制的に終らせられた。
最終的にそれを受け入れたのは李盟だし、その道を選んだのも彼だ。
自分の幸せよりも、民達の幸せを願った末のもの。
「この瑠夏州が今までやって来られたのは、李盟のおかげだよ」
果竪ははっきりとそう言った。
「李盟のお父さんが頑張って切り開いたのを、李盟が安定させた。だからこそ、今の瑠夏州があるの」
「果竪…様…」
「あのね、私、この州に流された時、凄く驚いたのよ。だって、瑠夏州の事はずっと聞いていたからね」
なのに、その面影は全くなかった。
瑠夏州は凪国一の貧乏州――そんな揶揄を聞いたのは、凪国が建国して間もない頃の事だった。
そもそも収入減となる鉱山が殆どなく、土地自体も荒れ果てやせ細り農作業にも向かない。
だが、前領主は諦めなかった。
本来ならばもっと豊かな領地を任される筈だった前領主は、凪国国王――果竪の夫に直訴し、自らこの領地へとやって来た。
わざわざ苦労する場所を選んだ前領主を嘲笑う者達も居た。
だが、前領主の並ならぬ努力により、不毛の地と呼ばれたこの土地は、未来の凪国の穀物庫と言われるようになった。
なのに、前領主とその妻は突然亡くなってしまったのだ。
事故だった。
誰もがその死を悲しんだ。
同時に、ようやく軌道に乗り出した農作業も、これでまた衰退してしまうと思われた。
それほどに、この貧しい州で農作業を続けて行くのは至難の業だったからだ。
しかし、前領主に仕え、能吏と呼ばれていた者達は諦めず、人望厚かった前領主のたった一人の遺児である李盟を領主として仰いだのだった。
当時ようやく十歳になったばかりの幼い少年の即位に、当時は国中が驚きを隠せなかった。
ただ、王宮側は半ば予想でもしていたのか、とくに何も言うことなく了承の意を伝えた。
たぶん、実際に働くのは能吏達で、李盟は旗印。
正式に仕事を行うのは、成人してからと思ったのかも知れない。
「でも、それからが大変だったのよね~」
領主になった李盟だが、当然ながら子供が領主なんてと反対する者達は多かった。
「それでも半分は貴方の事を思っての人達だった」
そう――幼い子に重圧を押しつけるのを良しとしない半分の者達は、能吏達の必死の説得と、李盟自身の努力を間近で見て反対の意見を収めた。
もともと、彼らなりに州の未来を憂いていた者達だ。
前領主の元で、州の未来を考え、いつかどこの州よりも豊かな州にしようと必死に頑張っていた。
と同時に、前領主がどれだけ重たい重責に堪えていたのかも、その仕事の大変さも知っている。
だからこそ、彼らは反対した。
子供には無理だ。
と同時に、たった一人残された敬愛すべき主の愛息子を、このような若さでその重責を背負わせたくないという優しさからだった。
だが……残り半分は全く違った。
「あの人達は違った……この州の未来なんてこれっぽっちも考えていなかった」
長い時間がかかる農業よりも鉱山業と考えるのは、ある意味仕方ない事だ。
それに、豊かな資源を持った鉱山が幾つか見つかった事もそれに拍車をかけていた。
「でもあの人達は、民達の生活を楽にすると言いながら、それに必要な費用は領民からの税を増やして賄おうとした」
しかもその額は、明らかに違法な額だった。
いくら農作業が順調だとしても払える金額ではない。
それに、農作業で人手が取られているのに、何処から鉱山業の人手を割くのか?
「そうしたら、ふざけた事を言ったよね……農作業をやめればいいだろうって」
そう言われて、はいそうですか――なんて言える者達はそう多くはない。
とにかく、あまりにも性急すぎた。
時間をかければ、緩やかにだが鉱山にも人手をまわす事が出来たかもしれない。
「それか、他の州から人を受け入れて、その人達が働くという手もあった」
利益の何割かは人件費として持って行かれるが、それでもかなりの利益が手に入る。
なのに、彼らはこの州の事はこの州の者達の手で行うべきだと言って譲らず、民達に更なる負担を強いようとした。
李盟が反対すれば、彼らは州が豊かになるのを領主が邪魔している。
そんな領主はこの州には必要ないと言い出し、あっと言う間に内乱が起きた。
反対派はそう多くはなかったが、瑠夏州でも高い地位と権力を持つ者達だった事が災いし、それは州全土に広まった。
もともと、子供が領主になる事に疑問を感じていた者、反感を覚えて居た者達を巻き込み、終にはこの州都へと押し寄せた。
「……それを収めてくれたのが、果竪様でしたよね」
李盟の言うとおり、当時瑠夏に来たばかりの果竪は、彼らの不正を暴き、決定的な証拠を突きつけた。
というのも、彼らは前領主の時から度々税をかすめ取っていたのだ。
そうして鉱山が見つかれば、他の州の業者と結託して更なる私腹を肥やそうとしていた。
だが、それらは全て彼らの野望の足がかりでしかなかった。
彼らの最終目的は、領主の座だった。
領主の地位を得て、この州を支配する事。
いくら貧しいとはいえ、やりようによっては大きな財を得ることが出来る。
前領主が死んだ時が最大のチャンスだった。
遺児とはいえ、たった十歳の子供など、どうとでも出来る。
能吏達に先を越されたが、それでも自分達が領主の座を得られると信じていた。
「それを阻止した果竪様の手腕は見事でした」
不正を暴いた時も。
そればかりか、王宮側にもそれを伝え、退路を完全に絶った時も。
「ああいう人達は多かったからね」
王宮で政争を目の当たりにしてきた果竪にとって、その程度の事は簡単だった。
内紛に敗れた一派はこの州から追われるようにして去り、その後、瑠夏州は李盟や官吏、民達の更なる努力によって、今では凪国の穀物庫と呼ばれる様になった。
まだ全国民を養うだけの分はないが、それでも瑠夏州の快挙に少しずつだが、他の州でも家庭菜園程度ではあるが、作物が作られるようになってきた。
頑張れば出来る――全てではないが、それでも着実にこの国に衰退の一途を辿っていた農作業を根付かせていったのは、瑠夏州の頑張りがあったからこそだ。
だからこそ……今回の事件は大きな痛手だった。
「物事なんてね、そう上手く行かない事の方が多いのよ」
果竪はポンポンと李盟の頭を優しく叩く。
「でもね、決まる時、上手く行く時は一気にドドドって行く時もあるから、頑張るのを辞められないのよね」
「……上手く……行きますか?」
恐る恐る聞く李盟に果竪はにっこりと笑った。
「わかんない」
「わかんない……って、は?!」
「だ~か~ら、わからないって。先がどうなるかなんて。私、未来視は出来ないし」
そういう能力を持った者達は居るが、それは自分ではない。
「でも、やらなきゃ機会が来てもどうにもならないでしょ? 目の前に良い物が落ちてきても、手を伸ばしてなきゃ取れないように」
「そ、それは……」
「まあ、最初から手を出していれば余計なものも取っちゃうだろうけど、良い物もきちんと手に入る。もっと上手く出来る日となら、良い物が落ちてくる時だけ手を出せるんだろうけど、私には無理だわ。李盟は?」
「む、無理です、僕にも」
「じゃあ、ずっと手を伸ばしているしかないね。もし別のものを拾った時は、その時よ」
リサイクルっていう言葉もあるぐらいだし~とカラカラと笑う果竪に、気付けば李盟も笑っていた。
「笑ったね」
「え、ご、ごめんなさい」
「謝らないの! すっごく良い笑顔なんだから」
「果竪様……」
「きっと私に弟がいれば、こんな感じだったんだろうね。でも、いっか。李盟が私の弟みたいなものだもの」
「弟?」
「そう。あ、嫌だっていってもこれだけは譲れないからね」
果竪の言葉に、李盟はぶんぶんと頭を横に振った。
「嫌だなんて……そんな事ないです」
果竪様が姉。
本当にそうだったら良かったのに。
果竪様が此処に居るのは一時的なものだと聞かされていた。
何時かは王宮に戻ってしまうと。
だから、必要以上に知り合う気はなかった。
どんなに仲良くなっても、いつか離れてしまうと分かっていたから。
でも、実際に会った果竪はそんな李盟の決意を吹き飛ばすぐらいに凄い人だった。
例え別れの辛さを味わっても、仲良くしたいと思わせた。
でも、別れたくなかった。
なのに、その別れを早めた原因こそ自分だった。
特権を使い、王宮に帰る事と引き替えに果竪はこの州から居なくなる。
自分のせいだ。
民達だけではなく、果竪まで不幸にする。
今はこの屋敷にいない官吏、武官、そして下働きの者達も休みを返上し、下手すれば命の危険すらあるにも関わらず各地に飛んで仕事をしてくれている。
なのに、そんな彼らの働きに自分は何も返せない。
仕えてくれる者達は自分の為に苦労し、民達は自分の不甲斐なさに犠牲となる。
そして果竪は……自分の自由と犠牲に、王宮へと戻される。
全て自分が悪いのだ。
責任ある地位にありながら、何も出来ない自分が。
こんな自分だから、民達は見放し、果竪とは引き離される。
この先どうなるか分からないが、それでも自分はここの領主として留まらなければならない。
王宮に戻った果竪と会えるのはそう何度もないだろう。
自分には過ぎた事だったのかもしれない。
失った両親と同じく、果竪も失うのだ。
悲しくて、情けなくて涙が零れる。
「李盟」
「果竪様?」
「絶対会いに来るよ」
「え?」
果竪の言葉に、李盟はハッとした。
その瞳を見て、果竪が自分の思いを読み取った事に気付く。
「貴方が来れないのなら、私が行くから」
「そんな……」
そんな事は無理だ。
領主である自分さえ自由にならないのに、この国の王の妃である果竪はそれ以上に自由を制限されるだろう。
これが我儘で好き勝手ばかりする王妃であればまだしも、果竪は絶対それを選ばないのだから。
「無理……しなくていいです。それは無理ですから」
「無理じゃないよ」
果竪はそう言って笑った。
李盟は知らないだろう。
そう、知らない筈だ。
夫が愛妾を持った事自体を李盟は知らない。
何故なら、自分もそれを知ったのはほんの偶然の事だから。
そう……自分は王宮に帰る。
でも、それは王妃を辞める為だ。
王妃を辞めた自分が王宮に留まる理由はない。
というか、王宮に留まって夫と新たなる妻になる女性の幸せそうな姿を見て平然としていられるほど、根性はまだ座っていない。
いつか大丈夫になるかもしれない。
でも今は無理だから。
根性を鍛える為にも、自分は王宮を去る。
それは、夫だけでなく、沢山のものとの別れになるだろう。
自分を可愛がってくれた仲間達。
今も、王宮で国の為に力を振るう者達。
そして……追放された自分と共に来てくれた明燐。
自分は多くのものと別れを告げる。
でも、しょうがない
共に居るには、あまりにも自分は弱すぎる。
その弱さが、大切な者達を傷つける前に立ち去るのだ。
それが自分の選んだ道。
愛する人との幸せと引き替えに得た自由が、僅かでも自分の幸となるように。
王妃を辞めたら、まず一番に此処に戻ってこよう。
その後は……もしかしたら国を出るかも知れない。
沢山の国々を巡り、いつか夫の幸せを心から願える時が来たら……。
「本当に……また会えますか?」
李盟の言葉が、果竪を現実に戻す。
泣きそうな眼差しに、果竪は額同士をくっつけて微笑んだ。
「うん、絶対に会いに来るよ」
だから――もう少しだけ頑張ろうね