第28話 夢の終るとき
気付けば暗闇の中を走っていた。
恐い。
恐い。
誰か助けて。
背後から沢山の人達が追いかけてくる。
伸ばされる手が自分を捕まえようとする。
おいで。
早くおいで。
こっちに戻っておいで。
嫌だ、来ないで、そっちには行きたくないの。
向こうに花畑が見えた。
美しい白い花々が咲き乱れる花畑。
ああ、あそこに行けばもう恐くない。
果竪は力を振り絞り走り続けた。
そうしてあと一歩で花畑に足を踏み入れようとした時だった。
花畑の中にその人は居た。
白い髪、紅い瞳。息を呑むほどに美しい優美なる美貌の王。
そして――自分の夫。
夫は沢山の女性を侍らせていた。
美しい美姫達が夫の傍で、艶やかに咲き誇る。
そんな夫の手にはそんな美姫達すらも叶わぬほど美しい少女が居た。
顔はよく見えない。
けれど、それでも分かったのは女の勘。
あの少女が愛妾だ――。
夫がその少女を大切そうに抱き締める。
優しく見つめ、その耳元で囁く。
ちらりとも……自分を見ずに。
まるでお前なんてもう必要ない――。
そう言われているかのようで、果竪は思わず目を閉じた。
そしていつもの言葉を呟く。
私には傷つく権利なんてない。
あの人に嘘をつきまくって、真実を言わずにいる卑怯で酷い自分に夫の所行を責める資格なんてない。
だって、それを望んでいたのは……目の前の光景を望んでいたのは自分でしょう?
本当に愛する人と結ばれて欲しい。
子供を産むことの出来ない自分ではなく、真実あの人に相応しい人が現れるのを願っていた。
世継ぎの問題も全て、全ての面であの人を癒し支えてくれる人と、今度こそ結ばれて欲しいから。
そう願っていた筈。
今度こそ……夫には、夫の傍に立つに相応しい人と結ばれて欲しい。
自分は相応しくないのだ。
夫の助けになれない自分は。
せめて何か一つでも優れているものがあれば良かった。
美しさも教養もなく、能力もない。
強力な後ろ盾すらもない。
何も無い自分。
その上、子供を産むという大切な役割さえ出来ない。
こんな私が王妃だなんて間違っている。
こんな役立たずの王妃は夫には相応しくない。
いつか夫を苦しめる。
いや、既に苦しめている。
だから……王妃を辞めたいと願った。
でも、同時にそれを拒む自分が居た。
夫の事が好きなのにどうして離れなければならないの?
どうして?
どうして一緒に居てはならないの?
ああ、昔は良かった。
あの時は唯の果竪でいてもまだ許された。
でももうそれは無理だ
夫が王になった時に、全ては変わってしまった。
同情で迎えられた妻が傍に居てはならない。
夫の事を想えば、その手を離さなければならない。
妻の座も何もかも全てを返上して。
夫の事を愛しているならば、それこそ子供を産める妻を、夫が真実愛する人と結ばれる事を望まなければならない。
それが……何も出来ない自分が唯一出来る事だから。
果竪の瞳から涙が零れ、止まらなくなる。
目の前で夫は愛妾を抱き締める。
その様子は余りにも愛情に溢れていた。
ああ、夫は王宮で今もこのように愛妾を大切にしているのだろうか。
いや、しているに違いない。
だって夫にとって愛妾は心から愛する人なのだから。
片時も傍から離さないと聞いた。
それだけ寵愛しているのだろう。
今も。
ず~っと。
だから……王宮に戻ったら、すぐに王妃を退任しなければ。
そうしないと、夫の愛する女性が何時までも愛妾のままになってしまう。
だから……だから、早く王宮に。
――なら、どうしてすぐに戻らなかったの?
突然閃くように脳裏に過ぎった言葉に、果竪は口を覆う。
それが分かっているのに、早く戻らなければそれだけ夫は愛する人を妻には出来ない。
いや、正妻として傍に置くことが出来ないのだ。
相手の女性も妾として不遇な状況に置かれてしまう。
それを回避するには、自分が一刻も早く王妃の座を降りなければならない。
ずっとそれを願っていた。
夫に愛する人が現れて、その人が正妻として夫を支えてくれることを。
夫に幸せになってくれる事を。
でも、それには自分が王宮に戻って王妃を辞める必要があるのだ。
勿論、このままずっと留まっていても最終的には王妃失格として辞めさせられるだろう。
けれど、それには長い時間がかかる。
何故なら、王妃という地位はそう簡単に譲位出来ないからだ。
王の寵愛だけが頼りの愛妾とは違い、王妃は国や重臣達が守ってくれる。
なのに自分は此処に留まり続けた。
此処に留まれば留まるほど、王の愛する人の地位を不安定なものにするというのに。
それは全て。
「……伸ばしたかった」
少しでも、その時を……夫と離れなければならないその時を延ばしたかったのだ。
だから自分は……ずっと……それを回避してきたのだ。
王宮に戻るという事を……。
愛してる。
本当に愛していた。
でも、自分では夫を幸せに出来ない。
そういって覚悟をしたのに、それは口だけにすぎなかったのだ。
本当はちっとも覚悟出来ていなかったのだ。
なんてずるいんだろう。
なんて卑怯なんだろう。
夫と愛する人の仲を祝福すると言いながら、自分は逃げていたのだ。
王宮に帰れば確実に時は動き出す。
夫とその女性の仲睦まじい姿を目の当たりにさせられ、王妃の座を譲らなければならなくなる。
夫は優しいから、身一つで投げ出す事はしないだろう。
生涯生活に困らない様にしてくれるに違いない。
だが、そんなものがなんだと言うのだ?
夫の傍にいられないなら、そんな物はいらなかった。
ああ、自分は卑怯で醜い女だ。
結局口先だけ。
少しでも相手を思うのならさっさと王宮に戻ればいいのに。
そんな大切な事から逃げ続けた。
王宮に戻る勇気さえなかった。
でも――それももう終わり。
果竪はゆっくりと振り返る。
そこにはゆらりと沢山の手があった。
逃げるのはもう終わり。
帰らなければならない。
動かさなければならない。
何が理由だろうと、自分はそれを選んだのだから。
果竪は涙をぬぐって、その手をしっかりと見つめる。
ここで更に逃げる事も出来る。
でも……そうすれば、多くの者達に迷惑がかかるだろう。
それに……もう逃げられない。
何故なら、自分はそれを選んだのだから。
もしかしたら、何度も立ち止まるかも知れない。
逃げようとするかもしれない。
だって全てを納得出来たわけでもない、受け入れられたわけでもないのだから。
でも、これだけは言える。
夫を愛しているし、幸せになって欲しい。
その為には、今は無理でも絶対に平気になるのだ。
夫が本当に愛する人と結ばれる事を。
その幸せを祝福出来る事を。
全てではないけれど、自分の弱さに気付いた時、果竪は少しだけ楽になった。
今まで上手く呼吸出来なかったのが、少しだけ上手く息が吸えるようになった気がする。
果竪に向かって、それまで距離を保っていた沢山の手の一本が伸ばされる。
振り払うことも出来る。
逃げる事も出来る。
でも。
果竪はその手をしっかりと掴む。
使者の特権を利用した自分はもう逃げられない。
けれど、これは自分にとってのチャンスだ。
このままだったら何時までも逃げ続けていた自分。
だけど、特権を使用した事でもう逃げる事は出来ない。
そう――逃げられないから、今度こそ前を向いて立ち向かうしかない。
その立ち向かうべきチャンスを自分は与えられたのだ。
自分の望みを……今度こそ叶える為に
――自分の道をつかみ取りなさい。
どこからか、鍾乳洞で出会った少女の声が聞こえてきたような気がした。
さあ、王宮に帰ろう。
特権との引き替えによる強制なものであっても、その中に一分の決意を交えて。
果竪は目覚めた。
「……おはよう」
誰に向けるわけでもなく、領主館に与えられた寝室の中で果竪は呟いた。
その呟きを、ただ今も降り続ける雨だけが聞いていた。