ニュータイプについて
「初代ガンダム」および「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」の核心部分のネタバレがあるので未見の方はご注意ください。
ニュータイプと言うのは宇宙世紀(初代ガンダムから続く世界観)のガンダム作品に登場する概念で、超能力じみた感知能力と共感力を持ち、他者と誤解なく分かり合う事ができる人間の革新の可能性として描かれることが多いです。ガンダム作品におけるニュータイプの役割は、作劇的には主要キャラの異様に高いパイロット能力の理由付けとして、象徴的には人類を幸福にできる筈の新技術が戦争に投入されて悲惨な破壊を引き起こしてしまう歴史が示しているように、革新だろうがなんだろうが使えるなら戦争に投入してしまう人類の愚かさのアーキタイプとして提示されているようです。そういう訳でガンダム作品内でもニュータイプの共感力や感知能力は戦争に利用される事となり、ニュータイプ本人も不幸な目に陥ってしまう事が多いです。
ニュータイプという理想は、ヘーゲル以下ニーチェやマルクスが抱いたであろう「神を喪った人間は堕落するので現実に理想を立てなければならない」という危機感の延長線上にあると思います。中でもニーチェの超人思想には、実際的な人間の姿に理想を置くという意味では似ているように感じます(方向性は違いますが)。一方で具体的な超人の生き様を描く事が殆ど出来なかった二―チェに対して、富野氏は積極的にニュータイプを極限状態の中に投げ込み、人間としての苦悩や歓喜を克明に描いている点では優れていると思います。またニュータイプは優生学的に目指すことが出来るタイプの概念としてはあまり描かれておらず、初代ガンダムのラストでは民間人の寄せ集めのホワイトベースのクルーが誰も彼も唐突にニュータイプじみた交信を始めたり(一応かなりの激戦を潜り抜けてはいます)、ZZガンダムでは「子供はみんなニュータイプ」なんてセリフがあったりと、あまり選民思想的な感じでもないようです。富野監督のインタビュー記事を一通り読んだ感じ、作品を通して富野氏が掲げて来たテーゼは「誰でもニュータイプになれる可能性を持っている。そして誰もがニュータイプになれば戦争は無くなり、人と人は分かり合えるようになり世界は平和になる筈だ。だから次の世代に希望を持って一人一人がニュータイプになるべく生きるべきだ」といった感じでしょうか。
しかしこういったテーゼに対しては私は疑問を憶えます。人と人とは本当に分かり合うべきでしょうか? エヴァで描かれたように、お互いに分かり合えないからこそ、お互いに存在する事が出来るのではないでしょうか。また、戦争が無くなり平和になった世界というのは本当にいいものでしょうか。国家間の考え方の違いが無くなれば、実質的に国家の消失を招くとも言えますが、それによる弊害はないのでしょうか。そもそも戦争は本当に愚かな事でしょうか。ナポレオンもアレクサンダーもチンギスハンも愚かなのでしょうか。そんな簡単に人間を切って捨てていいのでしょうか。富野氏はニュータイプを現実の中に投げ込むという事はできていますが、結局ニュータイプそのものは理想のピースに過ぎないわけで、ニュータイプにより達成されるであろう理想世界そのものを検討する事は殆ど出来ていません。結局富野氏の掲げた理想もフワフワ宙に浮いて曖昧なまま保護されてしまっているように感じます。
そう言う意味で、高山監督のガンダムOVA作品「ポケットの中の戦争」は富野氏の思想に一石を投じているように感じます。「ポケットの中の戦争」は初代ガンダムと同じく一年戦争を舞台とした作品ですがニュータイプは出て来ず、宇宙コロニーに住む民間人の少年アルの視点が中心となります。アルのコロニーは中立な為、人類の半数が死滅する戦争の中でも戦禍とは無縁の状態です。そんな環境で育ったアルにとっては戦争はエキセントリックなイベントでしかなく、戦いの裏で人と人が殺し合っている現実などは全く考える素振りもなく戦争を楽しんでいます。アルの姿は安全地帯から戦争アニメを楽しんでいる視聴者とも重なるかも知れません。
しかし新型ガンダムが配備されたアルのコロニーは、ガンダムを狙ったジオンの攻撃を受ける事となります。その際にアルはジオン側のモビルスーツザクⅡ改に一目ぼれし、不時着したパイロットで自称エース(本当は新入りのヒヨッコ)のバーニィにも憧れを抱きます。やがてサイクロプス隊の面々とも出会い、アルは遊び感覚のまま戦争に巻き込まれていく事になります。このサイクロプス隊の面々がまたいい味を出しています。表面的には粗野な愚連隊と言った感じなのですが表情や台詞の端々から人間的な深みが感じられます。とはいえ彼らはどこまでいっても兵士であり、任務の為なら手段を選ばないようなところもあります。
そしてサイクロプス隊は秘密工場でモビルスーツを作ってガンダムを強襲しますが失敗し、最後の手段に連邦の基地に潜入するもバーニィのヘマで失敗し、バーニィを除き全滅してしまいます。そしてガンダムを破壊しなければコロニーがジオン軍の核兵器で攻撃される事が判明し、バーニィはアルに逃げるように伝えて自らもコロニーを脱出しようとしますが結局変節し、ザクでガンダムと戦ってコロニーを守る事を決意します。しかしバーニィがガンダムと戦っている最中にアルは、ジオン軍の核兵器が鹵獲された事をニュースで知ります。アルは無意味となったバーニィの戦いを止めようとしますが……物語は悲劇的な結末を迎えてしまいます。最後にアルはバーニィの残したビデオレターを見るのですが、その中でバーニィは戦いを選んだ理由として「アイツと・・・ガンダムと戦ってみたくなったんだ・・・」と語っています。
ガンダムを齧ったことがある方なら知っていると思いますが、バーニィの乗機のザクⅡというのはジオン公国を象徴する量産モビルスーツで、開戦当初は大活躍しましたが戦争が長引くにつれ旧式化してしまっています。ザクⅡ改なので普通のザクよりはマシとはいえ連邦軍の技術の粋を集めた高性能機であるガンダムには遠く及びません。しかしそれでも……いや、だからこそ戦ってみたい。私はゲームなんかで弱いキャラクターで強いキャラクターに挑むのが好きなので、そう言う風にバーニィに自分の気持ちを重ね合わせていました。……もちろんバーニィはゲームをやっていた訳ではありません。「ここで戦うのを止めると自分が自分では無くなる」とガンダムのパイロットも自分自身も傷つけながら命がけで戦い、そして悲劇に到達する事となります。戦争が終わって、バーニィの思いを一人抱え込む事となったアルは泣き叫びます。戦いの後には悲しみが残りました。しかしアルが泣き叫ぶこの場面でどこか肯定的なBGMが流れていたのが印象深いです。戦争について肯定も否定もしていないのが「ポケットの中の戦争」という作品です。ただ、人の意志や思いに対しては大いに肯定しています。私には作品においてそれが何より一番肝心な事に感じられます。
ビデオレターの中でバーニィは「自分が直接自首して事情を話せば戦わずに済んだかもしれない」とも言っています。実際、コロニーを守る為ならガンダムと戦う必要はなかったかもしれません。しかしバーニィは戦う事を選びました。バーニィは愚かだったのでしょうか。そうとも言えるかも知れません。しかし、私はそうやって人間を切って捨てたくはありません。たとえ結果としてどんな悲劇を招いてしまうとしても、実際に戦う兵士たちの意志や思いはどこまでも純粋で尊いもので、だからこそ戦争と言うのはどこまでも根が深いのだと思います。バーニィを戦争に囚われたオールドタイプとして見下し、愚かと断じるのがニュータイプの理想だとしたら、それは人間そのものを否定する事にならないでしょうか。そうやって人間をしばりつけて得られた平和は本当に素晴らしいのでしょうか。それはそれで一種の害悪ではないでしょうか。
ガンダム作品の多く、特に宇宙世紀外のアナザーガンダムでは戦争を解決可能な問題として扱い、「戦争は愚か」という視点に終始している事が多いように感じますが、現実にはそんなに単純な話ではないと思います。例えばイスラエルとパレスチナの問題がニュータイプがどうたらで解決可能なのでしょうか。私には到底そうは思えません。現実にはもっと根が深い問題があります。世界から悪人がいなくなっても恐らく戦争は無くならないでしょう。富野氏は戦争の中を生きる人間の姿はよく描けていると思いますが、土地や国や文化への理解がいまいち浅いように感じますし、ニュータイプはまだまだ理想の形として煮詰まっているとは思えません。だからガンダム作品を描くクリエイターはもっと富野氏にぶつかる気持ちで切り込んだ作品を作って欲しいのですが、近年話題になった福井氏のガンダムUCではニュータイプが神格化され完全にスピリチュアルじみた概念になってしまっていました。結局ニュータイプというのは人間の希望でもなんでもなく、人間は愚かでどうしようもないので神がかりでなんとかするしかない、という人間への絶望の裏返しでしかないのかも知れません。
……こんなことを言っていたら「だったらあんたがもっとマシな理想を考えろや」なんて言われるかも知れません。しかしそう言われても全くなにも思い浮かびませんし、そもそも現実に理想を達成する事が困難では無いかと私は思います。ただ一つ言いたいのは、戦いに向かうような意志を含めて人間を肯定する視点を持つ事ができなければ、永遠に他人を見下し続ける事しかできないのではないかという事です。こういった発想はある意味絶望的でもありますが、ある意味では肯定であり希望でもあると思います。