……飛ぶ
その日。
私は、とあるさびれた無人駅に降り立った。
私が住んでいるところよりかなり南に位置するこの町は、暑いと感じる手前くらい暖かい。
着てきた春秋物のコートすら重く感じられる。
私の住む町で、どうにか『春めいた』といえるようになった三月中旬。
まとまった休みがとれたその日、私は、短大の友達と小旅行へ出かけるからと言って家族をごまかし、こっそりとこの無人駅へ降り立った。
まったくなじみのない、地図アプリの情報でしか知らない町。
(……あの子。一体何をしにここへ来たんだろう?)
考えても考えてもわからない。
わからないから来てみたのだが、来てみたからといってもやはり、私にはわからなかった。
まったく見知らぬ、縁もゆかりもない……少なくとも私の知る限り、私たちに全く縁のない、小さな田舎町。
あの子がここへ来なくてはならなかった、あるいは立ち寄らなければならなかった、切実な理由がまずわからない。
ここへ来て……消息を絶つ、あるいは、結果として消息を絶つことになってしまった、理由。
わからない。
ため息をひとつ吐き、私は、改札を出てすぐのところでコートを脱いだ。
(まりちゃん……)
ごく小さい頃からの友達、親友といえる唯一の友達だと、少なくとも私は信じてきたひとの名を、口の中でつぶやいた。
一体あなたに何があって、もしくは、何があったからいなくなったの?
彼女が消えて以来、何度も繰り返した問いを私は再び胸に浮かべる。
それを知りたくて私はここに来た。
といっても、ほとんど無意味だろうこともわかっていたが。
彼女が消息を絶って、すでに丸一年。
今更この町に来てみても、彼女の痕跡なんかないに決まっている。
もしあるのならば、とっくに彼女は見つかっている。
……それが最悪、遺体であったとしても。
(馬鹿、縁起でもない!)
胸で叫び、私は大きく息をついて背筋を伸ばし、大股で駅舎から離れた。
彼女と私は、いわゆる幼馴染だ。
家も近かったし、幼稚園で同じクラスになって以来、仲良くしていた。
高校まで同じだったのもあり、お互いの両親以上にお互いのことを知っている、少なくとも私にとってはそういえる友達だった。
いつもニコニコしておっとりの彼女と、ちょっとせっかちでおっちょこちょいなところのある私は、凸凹が上手く嚙みあう感じの、誰もが認める名コンビだった。
それだけ近しい存在(少なくとも私にとっては。こう但し書きを付けなければならないのが、哀しくて虚しくて苦しかった。ようやく最近、少しは冷静にそう思えるようになった)の彼女が突然姿を消したのは去年、春の気配がほんのり感じられる二月の終わり。
本当に突然で唐突に、だった。
唯一いつもと違ったのは、最後にバイバイと言い合ったのが高校の卒業式の日の夕方だった、ということだけ。
お互いセンチメンタルな気分に浸っていたのは確かだったけど、卒業生なら誰もが抱える『エモさ』以上ではなかった、多分。
第一、さすがに今回は違う進学先だったとはいえ、二人ともまあまあ希望に沿った進路だった。
取り立てて深刻な悩みなんか、私たち――少なくとも私には、なかった。
大股で勢いよく歩き始めたのは良かったが。
小さな町(というか、野中にポツンと駅があるから、その周辺がなんとなく町っぽい、という雰囲気)はあっという間に端になり、その先は寒々しい稲の刈り跡が無機質に並ぶ田んぼで、田んぼの先はもこもこした小山がいくつかある、だけ。
やみくもに道なりに進んだものの、それ以上どうすることも出来ず戸惑って引き返し……、結局私は再び、駅舎のある辺りへ戻ってきた。
何もない町だとは知っていたし、何もないと覚悟してここまで来たのだけれど。
頭で漠然と思っていた以上に、ここには『何もない』のに失望した。
ここへ来て、たとえ『何もない』のだとしても。
小指の爪の先、もっと言えば、たった今目の前を飛んでいるタンポポの綿毛の一本ほどであったとしても。
ここへ来れば彼女を偲ぶものがあるような気がしていたのだ、根拠らしい根拠はなかったけれど。
ため息を吐きながら、私は、持ってきたバッグからそっと、少しくたびれた絵葉書を取り出した。
一面にたんぽぽの花が咲いている、草原の写真の絵葉書。
私は元気にやってます、勝手してごめんなさい。
群生するたんぽぽの上に走り書きされた、一行だけのメッセージ。
同じものが私宛に一通、彼女のご家族あてに一通。
消印は去年の今頃、つまり失踪して一ヶ月弱、経った頃だ。
葉書を受け付けた郵便局の名前は、この町のもので間違いない。
そこはしつこいくらい確かめた。
私個人だけではなく、警察も。
(だからってやみくもに来ちゃったの? 相変わらずおっちょこちょいだなあ、りかちゃんは)
目を細めて笑う、彼女の声が聞こえる。
まったくだ、と苦く笑う。
ありもしない何かを、あるように思いこんで突っ走る今の私の状況を、もし彼女が見ていたのなら。
そんな風に言って、にこにこ笑ったのではないだろうか、いつもみたいに。
思うと不意に泣きたくなった。
にじみ始めた不穏な視界を瞬きで散らした時、駅舎の陰に隠れるように、古そうな自販機があるのに気付いた。
(……お茶かコーヒーでも飲もう)
何か飲んで、気持ちを落ち着けて。それから、今後どうするのか考えよう。
自販機を改めて見て、私は一瞬、躊躇する。
どうやら、地元のメーカーさんの商品が並んだ自販機らしい。
あか抜けないデザインのパッケージが並んでいる。
馴染みの大手メーカーの商品じゃないので、味が信頼できないような気分が胸をかすめたが、
(……でも。お茶やコーヒーの味なんて、どこのでもそんなに変わらない、よね?)
思い直し、投入口に小銭を入れて、なんとなく目についたブラックの缶コーヒーを買う。
ガシャン、と落ちてきた缶を取り上げ、タブを開けてゴクリと一口飲んだ、刹那。
ぐらり、と視界が回る激しい眩暈。
(ん? んんん?)
次の瞬間。
一面にタンポポが咲き乱れる広い広い野原に、私はいた。
……いた。
「……」
ええと?
茫然と周囲を見回しながらも、フルスロットルで私は考える。
私、駅舎のそばの自販機でコーヒーを買って、飲んでいたんだよね?
駅のそばだったよね?
こんなだだっ広い、タンポポだらけの野原じゃなかったよね?
絶対絶対、JRの駅のそばだったよね? 電車に乗って、ここまで来たよね?
なのにどうして駅舎も線路も見えないの?
何気なく右手を見る。
必要以上にきつく、缶を握っている指が白い。
小さめのコーヒー缶には、黒地に焦げ茶色で縦書きの、クラシックな雰囲気の字体で
『炭火焼き風味 蒲公英珈琲』
と書かれていた。
(蒲?、公英……珈琲? あ! タンポポ、だ、この漢字)
「やあ、いらっしゃい」
胡散臭いくらい爽やかな声が、私の後ろから聞こえてきた。
鋭く振り返るとそこに、緑色のオーバーオール・レモンイエローのロンTを身につけた、茶色っぽい髪をショートカットにした中学生くらいの女の子……多分女の子、がいた。
可愛らしい柔和な丸顔だったが、顔に反して醸し出すムードがパキッというかキリッとしていたし、細身ですらりとした身体つきなので、少年だったとしてもおかしくない。
彼女?はニコニコ笑いながら(なんとなく失踪したまりちゃんを思い出させる笑顔で)
「これが僕の役目だから、最後の確認をするよ」
と、当たり前のような口調で言った。
(え? 一人称が僕? やっぱり男の子なの? それともボクっ娘? など、混乱が極まったせいか私は、頭の隅でそんなのんきなことを考えていた)
「空を飛び、落ちた先で根を張って生きる。もちろん悪い生き方じゃない、素敵な生き方だ。けれど君たち人間の思うよりも多分、苦しいことの方が多い生き方になるだろう。それでも君は、空を飛ぶのかい?」
「……は?」
まったく訳のわからないことを聞かれ、私は間の抜けた顔で彼女?を見た。
「あれ?」
彼女?は眉根を寄せ、首をかしげた。
「おかしいな。意味がわからないって顔してるね。君、空を飛ぶつもりでここへ来たんじゃないの?」
「チガイマス」
何となく片言っぽくなりながら、私は答える。
「っていうか。ここは、どこ……、です、か?」
自分よりもかなり年下のように見えるけど、この得体のしれない場所で我が物顔をしている相手がふっと怖くなり、私は、取ってつけたように敬語で問うた。
「……なるほどね、大体わかった」
草の上に足を投げ出して座った彼女?は、一通りの話を聞き、私が差し出したあの絵葉書を見た後、うなずいた。
「この葉書は見覚えがあるし、書いた人も知ってる」
私は期待に満ちた目で相手を見た。だが相手の顔があまりにも、それこそ凪いだように静かだったので、私は口をつぐむ。
「僕自身が風に頼んで、去年の今頃、この葉書を町の郵便ポストへ入れてもらったからね。僕らの一族へ加わった者の、人間時代のケジメっていうか最後のお願いは、出来るだけ叶えるようにしているから」
「どういう、ことですか?」
なんとなく察しながらも、私は問う。
「まりちゃん、だっけ? 彼女は……もういない。死んだ訳じゃないけど、人間としては、もういない」
困ったような憐れむような顔でこちらを見ると、彼女?は言った。
「つまり、君のお友達だったまりちゃんは。僕らと同じもの……タンポポに、なったんだよ」
まさか、と、やはり、が同時に、絶句した胸に湧く。
「……何故?」
「さあ、それは知らない」
少女のようなモノ……つまりタンポポの精は、無残なまでにあっさりそう言った。
「彼女がどうしてタンポポになりたかったのか、僕は知らない。多分、本人にしかわからないと思うよ。僕らの中にも人間に憧れる者がいないわけじゃないから、そういう変わり者は何処にでもいるってことなんだと思う。僕らは元々気力も生命力も強い一族だし、純血に対するこだわりもない。だから、心から仲間になりたいと思う生き物がいるんなら、どんどん受け入れることにしているんだ。この国に住む人間さんへの入り口は、どうにかして手に入れた『蒲公英珈琲を飲む』にしている」
私は『炭火焼き風味 蒲公英珈琲』の缶を横目で見た。
「彼女は、ほとんどない伝手をたどってこの町へたどり着き、蒲公英珈琲の自販機を見つけ出してコーヒーを買い、飲んだ。そこまでして、人間じゃなくてタンポポとして生きることを選んだんだよ」
かなり長く、私は黙っていた。
タンポポの精も、特に何も言わず私の沈黙に付き合ってくれていた。
後で考えると、我慢強くて優しい精霊だ、タンポポって。
「……あの」
意を決して声をかけると、ん?と言うようにタンポポの精は小首をかしげた。
「私も……タンポポにしてくれる?」
そこで初めて、タンポポの精は渋い顔をした。
「やめておいた方がいい」
「どうして!」
思わず叫ぶと、タンポポは真顔でこう言った。
「そもそも君は、タンポポになりたくてここへ来たんじゃない、だろう?」
ウッと言葉に詰まる。それは……、そうだ。
「友達に置いてゆかれて寂しい、悲しい。だから彼女を追いかけて、同じものになりたい。そんなところだろう?」
ムッとした。
確かに……そう、だが。
そんな言われ方をすると、お前は子供じみていると窘められている気分だ。
タンポポは真顔で続ける。
「その気持ちを否定はしない、それだけ大事な友達だったんだろうから。同じものになったら彼女の気持ちがわかるかもしれない、とも思っているかもしれないね? だけど残念ながらそうとも言い切れないよ。現に、今まで君と彼女は同じ種族……つまり人間だったのに。君は、彼女の心の奥底にある望みを知らなかったじゃないか」
静かな言葉が胸を抉る。
確かに……確かにそう、だった。
「本来ここへは、なんていうのかな、すさまじい、渇望に近い思いがなければたどり着けないんだ。彼女は独りでそれを成し遂げた。そこまで切実だったんだね。でも君は、彼女に対する思いは切実で強いだろうけど。タンポポとして生きる、自分の生き方としてタンポポを選びたいという、真面目さや切実さが見えない」
「で、でも……でも……」
駄々っ子のようにデモデモと言いながら泣く自分を、心のどこかで白けながらも私は、やっぱりタンポポになりたい、と言い張った。
半分以上、意地になっていたのだろう。
このまま納得して帰るなんて、何に対してかわからないけれど『負け』のような気がしていた。
今にして思うと私は、悲しい半面、怒っていたのかもしれない。
こんな大事なことをまったく相談してくれなかった、それどころか、こんなにも悩んで渇望していることすら感じさせずに消えた、親友に対して。
親友だと思っていた私の気持ちをそっくり蔑ろにされたようで、傷付いていたのだ、と。
タンポポは一瞬、難しい顔で何か考えた後、ふっと笑んだ。
酷薄ですらあるその笑み、思わず私は涙を飲み込む。
相手が人外の存在であることを、不意に思い知る。
「わかった。そこまで言うのなら君を空へ飛ばそう。綿毛につかまり、風に運ばれ、落ちた場所で根付いて咲きなさい。君はたった今から、僕らの仲間・僕らの一族だ」
言葉と同時に素早く、タンポポの精は私の額を人差し指でチョン、と押した。
ハッと気づくと私は、空の中を漂っていた。
手も足も胴もない、ただ頭だけの状態で。
風が吹くたびにすさまじく揺れ、くるくる回転する。恐ろしい!
動けないなりに必死で上を見てみると、太い命綱の先に大きく広がる、綿毛のパラシュートが見えた。
「いってらっしゃーい! 良い旅を!」
遠くからそんな声が響いてくる。
揺れる視界のはるかな下、見渡す限りのタンポポの野原の真ん中で、私たちの長――と、瞬間的にそう理解していた――が、ニコニコしながら大きく手を振っているのが見え……。
私はあわてて、ギュッと目を閉じ、叫ぶ。
「わー!イヤ、イヤー! 怖いー! わ、私は、タンポポは、嫌! お願い、戻して、戻してー!」
クスクスクス、という、いかにも可笑しそうな笑声がちょっと離れた所から聞こえてくる。
おそるおそる、目を開けると……、私は、あのタンポポが咲き乱れる野原の真ん中で寝ころんでいた。
あわてて起き上がる。
……手も足も胴も、ちゃんとあった。
「……ほら。君はやっぱり、タンポポになれない。……でしょ?」
笑い声に合間に、タンポポの精は言う。
本気で可笑しそうに。
だけど不思議と馬鹿にしている雰囲気はない。
試合に負けて落ち込むチームメートの後輩を励ます、物わかりのいい先輩のような目をして、タンポポの精は私の肩を、バンバンと二回叩いた。
「あ……。あ、あはは。そ、そう、です、ね、あはは」
引きつった苦笑いを浮かべながらうなずくと、なんだか涙が出てきた。
……うん。
わかった。今、わかった。
あんな怖い思いをしてでも、まりちゃんはタンポポになりたかった、んだ。
多分、私や他の友人、彼女のご家族の誰彼が嫌になったとかじゃなくて。
どうしてもどうしても、タンポポになりたかったんだ。
タンポポという生き方を、あの子は選んだんだ。
それだけのこと、なんだ。
泣きながら笑う私の肩を、タンポポの精はもう一度、今度は優しく、叩いた。
不思議はそれでおしまい。
気付くと私は、例の無人駅のホームのベンチに座っていた。
一時間に一本くらいしかない電車は、もう少し待たなくては来ない。
吹く風が少し、冷たくなってきた。
たたんで小さく丸めていたコートを丁寧に広げ、私は、ゆっくり身に着けた。
時間は進む。容赦なく。
彼女のことを思い出すと、悲しかったり切なかったり、時には腹立たしかったり、することはあった。
でも、彼女が彼女の道を選び、真っ直ぐ進んでいったのだということは信じている。
春に、町の隅で揺れるタンポポを見かけると、ひょっとしてまりちゃんだろうかと思うことはある。
まりちゃんだろうとなかろうと、一生懸命生きているタンポポは綺麗だ。
派手じゃないけど、綺麗だ。
タンポポを見かけると、私はそっと、頑張れ、と、心の中でエールを送ることにしている。
数年後、縁あって私は、人生の相棒になる男性を見つけた。
彼女以上に近しい人など、私の人生に現れないと思っていたけど。
彼女とは違う意味で、近しい、共にいたいと感じる人と出会えた。
正直、私にこんな日が来るなんて思っていなかった。
人生は面白い。
それは結婚式の朝。
いつもより早く目覚めてしまった私は、落ち着かない気分で庭に出た。
日の出間近の薄明りの中、冴えた朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ、時。
さわさわさわ、という、葉擦れのような衣擦れのような音がした。
なんだろうとそちらへ目をやると……、
「りかちゃん」
緑色の洒落たワンピースを着た、私と同じくらいの年頃の女性がいた。
目を細めてニコニコ笑う、その笑顔……、
「ま……まり、ちゃん?」
思わず昔のままの呼び方で呼ぶと、彼女はいっそう目を細め、うなずいた。
「今日は結婚、おめでとう。あの時はせっかく来てくれたのに、会えなくてごめんね」
そう言うと彼女は、どこからともなく薄くて儚い、白いヴェールを取り出して、私の頭にかぶせた。
「おめでとう、お幸せに!」
その言葉と同時にさっきと同じ葉擦れのような音がして……、彼女は消えた。
ヴェールは、タンポポの綿毛を丁寧に綴り合わせて作られた、この世に二つとない特別製だった。
私は今日、親友が作ってくれた綿毛のヴェールを身に着け、新しい人生の空へと飛んで行く……彼と、共に。




