長男リツハルト
「ちょっと驚きました。リツハルト様、あなたの弟のグレイハルト様……まさか、『賢者シリーズ』の作者だったなんて!」
ある日、エリーゼは婚約者のリツハルトに呼び出され、お茶を飲んでいた。
場所はリトハルド公爵邸の中庭。エリーゼの目の前にいるのは、綺麗な紅色の長髪をなびかせる絶世の美男子。リトハルド次期公爵のリツハルトだ。
リツハルトは、あまり興味がなさそうに言う。
「そういや、作家になるとか言ってたな。二十歳になったら家を出て平民暮らしするとか言ってたけど」
「まぁ、そうなのですか?」
「ああ。やれやれ……身勝手な弟だよ。まぁ、公爵家に何の益もない奴だし、父上も母上も諦めているようだし……それに、私も興味がない」
「……そうなのですか」
リツハルトは、どうでもよさそうに言った。
血のつながった弟に対し、冷たい言い方だった。そのことにエリーゼは少しだけ胸を痛める。
リツハルトは、紅茶で唇を濡らしてから言う。
「そんなことよりエリーゼ。学園の長期休暇も間もなく終わる。学園主催のダンスパーティーのことなんだが……」
「ええ、存じています」
リツハルトは、申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当に申し訳ない。私のパートナーは当然君であるべきなんだが……今回は、遠慮してもらえないだろうか」
「……え?」
「実は、公爵家が出資しているヘルマン侯爵家の令嬢が、私をダンスパーティーのパートナーに指名してきたんだ」
「なっ」
有り得ない話だった。
そもそも、婚約者のいる男性をダンスパートナーに指名すること自体、有り得ない。
だが、リツハルトは悔し気に言う。
「ヘルマン侯爵家の令嬢をパートナーにしないと、事業を打ち切ると言い出したんだ」
「そんなっ!? そもそも、そんなバカげた提案……それに、リトハルド公爵が許すはず」
「ヘルマン侯爵家の事業は、ユーグレイス王国にとって画期的な事業なんだ。詳しくは言えないが、この事業が成功すれば、ユーグレイス王国の産業は大きく潤うことになる。リトハルド公爵家にとっても、このチャンスを逃すわけにはいかない」
「…………っ」
「本当にすまない。エリーゼ」
「……いえ、仕方ありませんわ。リツハルト様。私は病欠ということにします」
「……すまない」
リツハルトは、歯を食いしばって謝った。
エリーゼは笑っていたが、一刻も早くここから立ち去りたかった。
そして、笑顔を浮かべたまま言う。
「申し訳ございません。今日はここで……」
「あ、ああ……送らせる」
「いえ、一人で大丈夫です」
エリーゼは立ち上がり、リツハルトに一礼して歩きだした。
こみ上げてくるものを必死に押さえながら、屋敷の出口へ向かう。
侍女のエリは、馬車の前で待っているはず。
エリーゼは、目元を押さえながら曲がり角へ差し掛かり。
「うわっ!?」
「きゃあっ!?」
誰かと、ぶつかった。
バサバサと、紙束が舞う。
エリーゼは尻もちをつき、相手も倒れた。
「あいたたた……もう!! この無礼者!! ちゃんと前を向いて歩きなさい!!」
「ごご、ごめんなさい!! すみませんでした!!」
「いたぁ……うう、痛い」
「あわわわわっ、あれ? 眼鏡、眼鏡」
カチャン、とエリーゼの手に当たったのは……ダサすぎるべっ甲縁の眼鏡。
よく見ると、目の前にいる少年は、リトハルド公爵家三男、グレイハルトだった。
メイドや使用人だったら、公爵家に抗議してクビにしてやろうかと思ったが、公爵家三男ではそれも無理だ。
エリーゼは、胸のモヤモヤをグレイハルトで晴らしてやろうと思った。
「あなた、何探してるの?」
「め、眼鏡、眼鏡です。眼鏡がないと何も見えなくて」
「眼鏡ねぇ……さぁ、どこかしら」
エリーゼは、眼鏡をそっと背後に隠す。
そして、意地悪っぽく言う。
「リトハルド公爵家の三男様は、ぶつかった相手にきちんと謝罪せず、倒れたままの相手を無視して眼鏡を探すような方なのかしら?」
「あっ……すす、すみません!! あの、眼鏡ないとほんとに何も見えなくて」
ぼさぼさの髪は目元まで隠してしまっている。
こんな髪型じゃあ、眼鏡なんてなくても見えないだろう。
グレイハルトは眼鏡を諦めたのか、立ち上がりキョロキョロし、ようやくエリーゼに手を差し伸べた。
「えっと、大丈夫ですか?」
「もう、遅いわよ。まったく」
伸ばされた手を掴み、顔を上げ───ギョッとした。
見上げるような形になったせいか、グレイハルトの目が見えた。
「よい、しょっと……よし。あの、眼鏡見かけませんでしたか?」
「……これ?」
「あ、ありがとうございます!! わわ、原稿散らばってる。うわぁ……ページもバラバラだ」
グレイハルトは紙を拾い集め、一礼して去ってしまった。
エリーゼは、茫然としたままグレイハルトが去った方を見た。
「……今の」
ほんの少しだけ見えた、グレイハルトの顔。
大きなスカイブルーの瞳は宝石のように輝き、輪郭、口や鼻の位置など、全てが完璧な彫刻のような……つまり、絶世の美少年だった。
「…………」
エリーゼは、エリが迎えに来るまで、グレイハルトの去った方向を見つめていた。