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こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(22)~(34)  作者: uparupapapa


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憲政の父、自由民権運動の父、 明治の元勲 板垣退助

  第35話 大阪会議














 大久保利通は追い詰められていた。




 維新政府から次々と要人が下野し、


反政府の反乱が起きるなど、


不満が国中に充満している。




  征韓論で西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、


江藤新平、副島種臣らが下野。




 やむを得ず維新政府の残留組、


岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・大隈重信


伊藤博文・片岡健吉らが


政府を再編する。




 しかし6月政変の影響は大きく、


下野し、即座に帰郷した西郷らが、


鹿児島に私学校結成。


 県政の壟断問題が起きる。




 一方退助、象二郎らは


1874年(明治7)1月12日愛国公党を結成、


民撰議院設立建白書を提出した。




 同年1月14日、土佐の不平武士による


岩倉具視暗殺未遂事件が起き、


更に2月江藤新平の佐賀の乱が勃発した。




 追い打ちをかけるように


台湾出兵が議論されると、


征韓論を否定しておきながら、


台湾への出兵は矛盾であるとして、


4月18日、征韓論に反対していた


長州閥トップ、木戸孝允までもが


参議の職を辞し下野した。








  台湾出兵とは




 1871年(明治4)


年貢を輸送していた琉球御用船が


台風による暴風で遭難、


台湾南部に漂着、遭難した乗組員は


先住民の集落に拉致される。


 しかし遭難者たちは現地先住民との


意思疎通の不備から集落を逃走。


 同年12月17日先住民は


逃走者54名を斬首した。


 その事件を受け、


台湾蕃地事務都督西郷従道が


独断で出兵を強行、


征討軍3,000を出動させた。


6月3日には事件発生地域を制圧、


現地を占領した。








 孤立を深める大久保は、


事態の打開を模索しなければならない。




 この時援軍が現れる。




 当時官界から実業者に転身していた井上馨が、


この情勢を憂い、混迷した政局の解決には


大久保には木戸・板垣との連携が必要であると、


盟友・伊藤博文と仲介役を買って出た。


 大久保はわたりに舟と仲介策に応じ、


大久保・木戸の会談の斡旋を依頼、


自ら大阪へ向かう。


 ここにきて


井上と同じく官界を去り実業界入りしていた


五代友厚の申し出があり、


五代邸が大阪会議の準備会談の場として使われた。


 この五代邸に大久保や伊藤らは下準備に


一か月もの間何度も往復している。


 五代は実に献身的に協力した。


 彼もまた国を憂う有志だったのだ。


 これを受け井上馨は、


山口に帰った木戸を大阪に招聘、


更に自由民権運動の小室信夫・古澤滋らに依頼し、


東京にいた退助も招く。




 1875年(明治8)1月22日、退助・木戸が会談。


 井上・小室・古沢の同席のもと、


民選議院設立が議題に上った。




 つづく29日、大久保と木戸が会談、


木戸の政府復帰が決定された。




 ここまでの会談では


大久保・退助に直接の接触はない。


三者三様の思惑を抱いた会談であった。




 大久保は退助が掲げる民撰議院には消極的であった。


 何故なら富国強兵殖産興業のため


一貫した政策を安定して継続するには、


薩長による藩閥政治が必要である事。


 自由民権運動は不平武士のうっ憤のはけ口であり、


現状に於いて本格的政党政治への移行は、


小党分立が想定され、国政が混乱、政策遂行の遅滞を招く。


 以上の理由から退助との会談には二の足を踏んでいた。


 しかし、退助の民権運動が過激化、


先鋭化するのを放置するより、


政府に取り込んでおいた方が、


運動を分断、コントロールできると踏んだ大久保は、


木戸とセットでの復帰を望んだ。




 木戸は退助と復帰する事により


大久保の専横に対抗できるとの思惑から、


退助の復帰を強く望んでいた。




 会談の結果立憲政体樹立や


三権分立、二院制議会など、


政府改革の要求が認められる成果をみた。


 これにより退助は、政府に協力する決断をする。






 2月11日、木戸が井上と伊藤が同席の上


大久保と板垣を北浜の料亭に招待した。








 この三者会談を大阪会議という。








 ただし、この会議という名の会談は、


政治の話は一切していない。








 退助が登場するこの手の会談が


どのようなものだったかは、


読者の皆様はもう想像できるだろう。






 但し、この時すでに彼らは明治の元勲であり、


お互い相手の急所を直接攻撃する様な


無粋で卑怯な真似はしない。




 話し合いがついて、


仲直りしようと云うのだ。




 かといって喧嘩別れした彼らが、


幼稚園や小学校の仲良しクラブ然とした


会話で満足する?




 まさかね。






 ただ、ここで退助は圧倒的不利である。


彼、脇が甘く隙が多いから・・・。




 頑張れ!退助!!














 事前二者会談で合意していたとは言え、


ここで退助と大久保が顔を合わせるのは


あの日あの日以来である。






 会場である料亭の部屋には


先に木戸と大久保が到着していた。




 少し後からやってきた退助。




 大久保と視線が合う。


 暫く見つめ合うふたり。




 まず大久保が、


「よう退助どん、久しぶり。


元気にしちょったか?


 そんなに見つめられたら、惚れてしまうがな。」


「大久保どんは関西人か?」


とボケと突っ込みで会談がスタートした。








「いや、噂に違わず退助どんは元気よのう。


随分勇ましい演説をぶっこいたそうじゃなかか?」




 「いえいえ何をおっしゃる!


大久保どんの熱弁には敵かないませぬぞ!


 ワシャいつもタジタジじゃき。」


「そんなこつあらへんがなぁ~、


おいどんはいつも退助どんに何か言われると


グサッ!とくるきに。」


「大久保どん!今宵おはんの話言葉はおかしいぞ!


何故に鹿児島と土佐と関西が混じっちょる?」


「ソゲンコツなか。」




 どうやらもう酒に酔っているみたいだ。




 木戸が口を挟む。


「ここ大坂でも、退助はんは偉い人気のようじゃの。


大阪日報にも勇ましい図が載っておったぞ。


ほら、こんな風に。」


 と、前のめりになり、


人差し指を突き上げて演説する姿勢を真似た。




 「ワシャそんな恰好はしちょらせん!


ワシが人前でしゃべるときは、東海林太郎のように


直立不動じゃき。」




 注:東海林太郎=昭和の大歌手。


   直立不動の姿勢で歌うのがトレードマーク。


   因みに作者の私は東海林太郎と島倉千代子が歌う


   「すみだ川」が得意です。(知らんがな)






 「そうかぁ?いつもの退助はんをみていると、


そうは見えんぞ。


 おはんは議論に熱がはいると、


オーバーアクションが凄いけん。」


 「何をおっしゃる!


木戸はんだって、凄い顔で迫るじゃなかか。


ほら、こんな風に。」


 (顔を想像してみてください)


「まあまあ、熱が入った時はお互い様。


あん時(征韓論で対立した時をさす)を見ろ、


互いに掴みかからんばかりじゃったろう。」




「とにかく、アクションと甘いマスクは


退助どんが一番じゃな。


 聴衆の男どもならいざ知らず、


 女性ファンも多いと聞くぞ。


黄色い声援が飛び交ったそうじゃなか。」


「演説会に女はおらん!


話を盛り過ぎじゃ!


誰がそんなガセネタを?」


と顔を赤くした退助が反論するが、


 しかし間髪入れず、木戸が


「そうそう、ファンレターが毎日山のように届くと


聞いたぞ。羨ましいかぎりじゃ。


ハハハハハ!」


 それを受けて退助が


「何をおっしゃるウサギさん、


そんならあなたたちと人気比べ。」




 木戸が


「向こうのお山の麓まで・・・・って、


何を歌わせるんじゃ!


 まあ飲め!


今宵はその辺の武勇伝をとことん尋問するぞ、


覚悟しちょれ。」


 大久保も負けずに、


「暴露合戦じゃ!


お互い恥ずかしい話で盛り上がろうぞ!


まあ、もう一杯!」






 状況と雲行きが怪しくなってきたので


退助が話題を変える。




「木戸はんと大久保どんは


ワシに隠れて昨日まで


連日囲碁三昧だったそうじゃの。


何でワシにも声を掛けん?」




 (三者会談の前、木戸と大久保は


何度も囲碁をいそしんでいた。)




「だって退助どんの囲碁は弱いじゃろ?


そう聞いたぞ?」


「そげな事ないきに。


結構強いぞ!」


「ほぉ、そげなら、いっちょ勝負するか?」


「おう、いくらでも受けてたつ!」










 ボロ負けの退助であった。






 「今宵は酒が入っていたから


こんなもんじゃろ。


 この辺で許してやる。」




 「それが負けたもんの云う言葉か?


負けん気の強いやっちゃ!」




「今後はまた閣議で勝負じゃ。


そん時にゃ、コテンパンにしちゃるけん。」




「何をおっしゃるウサギさん」




 堂々巡りの酒宴であった。




 日本のその後の方向性を決めた


重要な三者会談だったが、


実はこんな具合の低次元な歓談に終始した。














   第36話  愛国社












 退助が征韓論で敗れ下野した時、


実は彼に対する批判が多くあった。




 曰く、


「板垣が民撰議院の設立に対し、


本気で取り組むつもりなら、何故参議の職を辞した?


政府部内に残り、いわば強引にでも


改革の旗振りをすべきではなかったか?」








 大阪会議を受け、


退助は旧愛国公党設立時の同志たちを再結集させた。




 民撰議院設立建白書を退出するために設立した


愛国公党は政府による拒絶により


一時、自然消滅したが、


その機運までもが消滅した訳ではなかった。




 退助は性懲りもなく


愛国公党に代わり「愛国社」を設立する。






   <おさらい>


 退助が下野してから


いくつもの政治結社を結成している。






 東京に愛国公党、(1874年)


 土佐に立志社、(1874年)


大阪に愛国社。(1875年)




(日本史上、退助が結成した愛国社は、


後述するが、その直後また自然消滅。


その後退助と、その意を継いだ


立志社により1878年(明治11)4月、


愛国社は再結成される。(そのくだりは別の回で)


 それとは別に同名の愛国社


(1928年右翼団体が結成)も存在したが


それは全くの別物である。




 実にややこしく、面倒くさいが、


後の自由党結成までの紆余曲折が


退助の自由に対する情熱と、


決意の本気度を示しているのではないだろうか?








 愛国社に参加した者たちは主に士族であった。


その運営は退助が顔となり、土佐の立志社が中心となる。


 本社は東京。


愛国社に加盟するそれぞれの地方政社からは、


委員を本社に送り、情報収集などの


「報・連・相」に当たることになっていた。


 今までになく、本格的大規模な組織である。






 しかしこの愛国社も(愛国公党同様)


長くは続かない。




 退助が参議に復職すると


次第に求心力が失われた。




 更に1877年(明治10)、


鹿児島で西南戦争が勃発すると、


立志社内部の武闘派が、


内戦に乗じて挙兵する動きを見せる。


(実際、西南戦争に参戦する者も多数出ている。)


その結果、幹部が逮捕される事件があった。


(立志社の獄)




 これらの事由、及び資金難に陥るなどにより、


退助が造った結社『愛国社』は自然消滅した。




 先に参議復帰により、東京に戻った退助は、


自由民権派から背信行為であると糾弾され、


愛国社創立運動の失敗の釈明に追われる。






 下野したら批判され、


復帰したら批判される。




 退助は嘆く。


「どないしたらええねん!!」




 帰宅した退助は吐き捨てるように呟く。




 自分がしてきたことは、決して無駄ではない。


大阪会議の合意に基づき、4月14日に


「漸次立憲政体樹立の勅書」が発せられる。


これにより元老院・大審院・地方官会議を設置、


段階的、立憲政体樹立を宣言した。




 民撰議院設立の下準備が決まり


公布されたのだ。




 立派に目的は果たしたではないか!


 なのに、この批判。


ああ、理不尽じゃ!




 ふてくされる退助であった。




 それでも父が帰り、喜ぶ鉾太郎。


退助の周囲をトコトコ駆け回る。




 妻の鈴が、


「あなた、最近関西弁が多くありません?」


「あぁ?そうじゃったか?


自分じゃ、よう分からん。」


「全くあなた様には呆れます。


偉いお役人になったり、すぐ失業したかと思うと、


良く分からない人たちを集めて騒いだり。


 そうかと思うと、また直ぐ帰ってくるし。


 一体何をしたいのか、私のような者には


全然分かりませぬ。


 挙句の果てにその関西弁。


大阪にまた女子おなごでもできましたか?」


「そんな訳なかろう!!


ワシが鈴一筋なのはしっておろうが!」


「あら、土佐の展子様にも同じ事言えますか?」


「だから!展子の事は口にするでない。」


「ほら、やっぱり!


旦那様はそれだから信用できません。」




「信用?」


 ようやく言葉を喋ることができるようになった鉾太郎。


「信用ってなに?」


父に聞く。


(ワシに聞くな!)と思い乍ら、


「信用ってな、この家では母の次に大事なものじゃ。


よお覚えておけ。」


「母の次?じゃぁ、父上は?」


「母の次が鉾太郎じゃろ、


その次が(うちで飼っている犬の)クロ、


その次が(猫の)ミケ。その次がこのワシじゃ。


どうじゃ?可哀そうな父上じゃろ?」


「あなた!鉾太郎にいい加減に教えないでくだされ!」


「だからワシは自由と平等と民権を


説いて回っておるんじゃ。


我が家にも自由と平等を!」


「何を言いたいのか良く分かりませぬ。


あなた様の口は


いつもろくな事に使われていませんね。


 女子を口説いたり、屁理屈を吐いたり。


 あの世に行ったら、


閻魔様に舌をちょん切られましょうぞ。」


「いいや、そんなことはないぞ!


ワシの口は


いつもそなたのためだけに存在するんじゃ。


 知っておるくせに。」




 またいつものように厭らしい目で


口を窄める。




 「バカ」と鈴。


 「バカ」と鉾太郎。














   第37話 国会期成同盟












 西南戦争、立志社の獄に加え


退助の参議復帰により、


出来たばかりの愛国社は


自然消滅した。(第一次愛国社)






 明治新政府以降、


不平士族の反乱は


征韓論をきっかけに起きた


明治6年政変以降、


頻発している。




 佐賀の乱(江藤新平)、


神風連の乱(熊本、廃刀令に反発)、


秋月の乱(福岡、神風連の三日後)、


萩の乱(山口、秋月に呼応)。




 そして極め付けが


西郷隆盛の私学校が起こした西南戦争。




 それら不平士族の反乱は


政府により、悉ことごとく潰された。




 それは士族民権運動の終焉を意味し、


不平士族たちの武力に頼った運動は、


武力によりねじ伏せられ


終わりを迎えたのだった。




 しかし、それは民権運動の


消滅を意味しない。


運動の主体が士族(士族民権)から


農民へ移るきっかけとなる。








 士族に代わり立ち上がったのが、


何の力も持たない、(国民の大半を占める)


農民層であった。


 有史以来常に支配を受け、


国家の屋台骨を支える


税金捻出マシーンとして


虐げられた人々である。




 しかし彼らは退助の呼びかけから


僅か数年後、雄々しく立ち上がった。




 その背景は、


大規模な内戦となった


西南戦争の戦費調達のため、


新政府が発行した紙幣の乱発にある。




 お金を発行すれば戦費は賄える。


しかし、その通貨である紙幣には


発行する国が保有する


金など財政の裏付けはない。


(不換紙幣)






 裏付けのない紙幣は、


妻たちの信用のない退助のようなもの。






 新紙幣は発行された途端、


市場原理が働き、お金がだぶつき


購買対象物が不足する。


 つまり物の価値が上がり、


お金の価値が下がったのである。












 横道に逸れたので、


話を明治政府に戻す。




 正直な明治政府は、


市場原理の調整能力も、その意思もない。


 その結果、インフレーションが発生。


農民が政府に払う


年貢の税額は変わらぬため、


(相対的に)実質負担が軽減された。






 更に1876年(明治9)


地租改正反対一揆が農民の間で勃発。


 政府は一連の不平士族たちの乱との結託を恐れ


地租軽減策で譲歩、


(地租を100分の3から100分の2.5に減額)


農民層の租税負担が減少し、


政治運動を行う余力が生じた。








     *蛇足*




    地租改正




 1873(明治6)に


明治政府が行った租税制度改革。


地租改正法(上諭と地代の3%を地租とする)


では、江戸時代の年貢率と変わらない。


 新政府になって租税軽減を期待していた


農民の失望は大きく、


不平士族同様、不満が溜まっていた。 






     *蛇足2*




 不平士族は日本の総人口の1割に満たない。


しかし、農民層は8割超であることから、


一揆が全国に広がると、


政府は如何に武力で鎮圧しようとしても、


それは不可能と云える。


 政府には懐柔策しか無かったのだ。






 そうした事情から自由民権運動の主体も


士族から農民、とりわけ地主と呼ばれる


農民指導者層を中心に、


『豪農民権』へと変遷した。




 退助が士族ではなく、


農民をターゲットにした意識改革運動は、


ここにきてようやく実を結ぶ。




 この情勢を受け退助は、


1878(明治11)愛国社を再興、(第2次愛国社)


1880(明治13)国会期成同盟の結成を成す。




 これにより政府に対し国会開設の請願、


建白書が多数提出される。




 富農層中心の運動は瞬く間に広がりをみせ、


政治的要求に民力休養・地租軽減を求めた。


 更に士族民権や豪農民権の他にも、


国の施策である殖産興業策の結果興った


都市ブルジョワ層や、


貧困層までも参加するまでになってきた。






 一方民権運動の盛り上がりに対し、


政府は1875年(明治8)、


讒謗律、新聞紙条例を公布、


1880年(明治13)、


集会条例などで言論弾圧し対抗した。








    私擬憲法








 国家の弾圧なんぞに負けてはいけない。




 国会期成同盟は、国約憲法論を展開する。




 即ち、『國家の根本法たる憲法は、


君主と人民との一致に基づいて定むべく、


國約憲法とは之これを謂いふなり。


 (後文省略)




  板垣退助』






 1881年(明治14)


その前提となる試案として、


自ら憲法を作ろうと、


私案を持ち寄ることを決議し、


国民に広く求めた。




 これを受け、


全国に憲法草案を発表する者たちが多発、


1881年(明治14)


交詢社は『私擬憲法案』を発行、


あの植木枝盛も『東洋大日本国国憲按』起草、


発表した。








  *蛇足3*




 昭和になって


東京五日市町で発見された


『五日市憲法』などは、


地方における民権運動の高まりや、


思想的な深化がみられた。










 退助の活躍の陰に


常に象二郎あり。


 活動の裏付けとなる資金調達担当は


失業したあの日、


料亭『むろと』で


他のメンツとジャンケンで負けた


象二郎がなった。




「え~!何でワシじゃ~!!」


「ええぃ、象二郎!うるさいぞ!!


ジャンケンで負けたんじゃき、


男らしく従え!!


 それにお主にその役はピッタリじゃろ?


口先三寸でお金を生み出す天才じゃき。


 まるで資金調達をするためだけに


生まれてきた男ぞ。」


「退ちゃん、それは酷か!


それじゃまるで


ワシャ詐欺師みたいじゃなかか!」


「当たらずとも遠からずじゃろ?


人は皆、大風呂敷の象二郎と呼んでおるぞ。




 しかもその大風呂敷の中から何でも出てくる。


魔法の大風呂敷じゃな。




 まあ、それでワシらの資金を調達したのだから


象二郎様々じゃが。




 ハハハ!」




 実際象二郎は、


政治資金を調達するための商社を設立。


 「蓬莱社」と命名する。


 旧知のジャーディン・マセソン商会から


約55万円を借り、その資金で


政府から高島炭鉱の払い下げを受ける。


それを岩崎弥太郎の三菱に約97万円で転売、


借りた55万円に利子をつけ


マセソン商会に返済、


転売差額と毎月1000円のマージンを


三菱から受け取る事とした。


つまり自己資金ゼロで


悪辣なわらしべ長者のような


からくり錬金術を発揮している。




(岩崎弥太郎も


土佐林塾の同窓生で仲の良い友である)




そう云う手法は、


どこか今の中国に似ているかも?






 退助が愛国社を再興した時、


(第二愛国社)


全国から有志が集まった。




 その中にあの三春城無血開城で


出逢った河野広中がいた。


(第24話参照)


(彼は後に、


第11代衆議院議長にまでなっている。)


 あの時から広中は退助に心酔していた。


同時に自由民権思想にも感化されている。




 ただ、広中が学んだ自由民権思想は、


西洋の啓蒙思想家たちのそれであり、


特にルソーの『人間不平等起源論』など


最も急進的思想の信奉者であった。




  広中が退助に問う。


「先生(退助の事)は


自由と平等を説いていますが、


その知識は一体


何処から仕入れられたのですか?」


「え!そなたも尊王思想の持主であろう?


なら、天賦人権の教えも存じておろうが?


天子様(明治天皇)から明示された


『五箇条の御誓文』にある通り、


君主が国を治め、民に幸福を与える。


そのために必要なのが人権の保障であり、


その道筋として


自由と平等の確立が必要なのじゃ。




 ワシはソチの聞き齧った


ルソーなるものの


教えに触れたことはない。


 でもおおよその概要は存じておるぞ。


西洋の云う自由とは何じゃ?


平等とは何じゃ?




 他人の国を侵略しておいて、


その国の民を奴隷や虫けら同様の


扱いをすることを基本的人権と申すか?


それを自由と申すか?


平等と申すか?




 お題目なら何とでも唱えられよう。




 ワシらが実現するべきは


国民の誰もが幸福を希求できる


自由で平等な世の中ぞ。




 だから間違ってもらっては困る。


 また、一緒にされても困る。


 無意味な西洋かぶれでも困る。


 ワシらが募るのは、


国の為、真剣に戦う志士ぞ。」




「私の考えは甘もうございました。


そのお言葉を聞いて私の志は


今、この時より明確な目標となりました。


今後はどうぞ私に東北をお任せくだされ。


天賦人権の楽園を造って見せましょうぞ!」


「そうか!その言葉、頼もしく思う。


 お主は無血開城の時も


その目でしっかり見据えて約束してくれたきに。


 今度も全幅の信頼をおこう!


のう、象二郎?」




 大番頭の象二郎は言った。


「資金はワシがいくらでも都合するけん、


遠慮のう申せ。」




 そこにどこからともなく、


女将の菊が現れる。


「そうですか?


それならあの時の(出世払いの)ツケも


そろそろ耳をそろえて


お支払いいただけますね?」




 退助が弱弱しい声で


「それが・・・・、その、


象二郎はワシと同じ哀れな失業者で


只の大風呂敷野郎じゃき、


今はまだ無理じゃ。」




(1875年(明治8)、


一度復帰した参議の職を


僅か半年後再び対立、


10月に辞職、下野している)




「ここにいらっしゃるときは


いつも失業中・・・。


 ハァ、 (*´Д`)


やっぱり懲りないお方たち・・・。」




 あきれ顔のお菊だった。














   第38話 自由党












 1880年(明治13年)11月10日、


国会期成同盟の大会にて植木枝盛、河野広中らが


政党結成の提案を提出、


「自由党準備会」を発足し、


自由党結成盟約4か条を定めた。




(第2次)愛国社の使命は


次の段階へと発展する。






 1881年(明治14)


明治天皇より国会開設の詔みことのりが発布される。


 10年後、帝国議会を開設すると云う


政府の約束を取り付ける事に成功したのだ。




 退助の目指す自由・平等・人権の確立のための


第一関門突破の瞬間であった。






 退助はここに日本初の近代本格政党である、


『自由党』を結成した。






 初代党首(総理)は退助。


後藤象二郎は常議員として参加した。




 結党の理念は


当時士族の支持者たちの間で急速に普及した


フランス急進思想ルソーなどの影響にて、


一院制・民本主義・尊王・公正な選挙制度を掲げる。


 退助は西洋の啓蒙思想とは


一線を画す独自の考えを持つが(尊王思想)、


敢えて就任を受諾した。






  『自由党の尊王論』


 退助は1882年(明治15)3月、


著作『自由党の尊王論』を発表、


自由主義は尊王と同一であると説き


自由民権の意義を表した。






 「世に尊王家多しと雖いえども


吾わが自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。


 世に忠臣少からずと雖も、


吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。


 吾党は我 


皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。


 皇帝陛下には


「広く会議を興し万機公論に決すべし」


と宣のたまひ、


又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」


と宣のたまひたり。




 故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は


悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、


一点の私心を(も)其間に挟まざる者也。




 吾党は我人民をして自由の民たらしめ、


我邦をして文明の国に位し、


(陛下を)自由貴重の民上に君臨せしめ、


無上の光栄を保ち、


無比の尊崇を受けしめんと企図する者也。




    (抜粋)




   板垣退助 著






 自由党が強力に推進する自由民権運動は、


全国に組織を広げた。


 しかし政府はその急進的且つ、


過激な言動を問題視し、


集会条例を以って弾圧した。 




 何故急進的、過激な傾向があるのか?




 それは自由党を構成する党員にあった。


それまでの愛国党などは、


士族が中心だったが、


今回の自由党は農民が大半を占める。




 つまり、税金を直接負担する階層なのだ。


だから、彼らの関心は、自由や平等ではなく、


如何に税金を軽減するかにかかっていた。




 税負担軽減を掲げる、一種の一揆感覚なのだ。














 退助が全国を飛び回る中、


ひとりの女性が退助の元を去る。




 土佐の本宅を守ってきた展子ひろこである。






 退助は政治に傾注し、


もうここには殆ど戻ってこない。




 どれだけ待っても、


待っても


待っても


待っても




戻ってこない。




 東京の妻には嫡男がいる。


 しかし私には何も無い。




 夫がたまに帰ってきたとしても、


もう心が通じ合う事はない。




 いつも隙間風が体を貫くこの寂しさに、


展子は耐えられなくなっていた。




 たまたま退助が運動で土佐に帰郷した折り、


展子は意を決し、


ついに退助に離婚を切り出す。




 退助は最初から気づいていた。


東京の妻、鈴との間にできた鉾太郎の誕生は、


展子を孤立させると。


 展子にも子ができるという可能性は極めて低い。


 第一に、自分がこの土佐に留まるのは


ほんの一刻いっときに過ぎない。


 離れたお互いの心を修復する術はなく、


一緒にいるのが苦痛にさえ思えた。




 「・・・済まぬ。


総てワシが悪い。


 ソチを幸せにできなかったこと、


自分勝手なワシの振る舞いに


さぞ心が痛んだだろう。


ワシを恨んだだろう。


寂しかっただろう。




 ソチのその涙は、


裏切りや、恨みの眼差しより辛く痛い。




 いっその事、ソチに愛想を尽かされ


浮気され、裏切りに遭った方が


どれだけ気が楽か。




 ワシは我が身の身勝手さを、


死後の世界で閻魔に厳しく裁かれるだろう。




 だからといって、


それで済むとも思っておらぬ。


 ソチを不幸にした報いは


ワシの生涯を蝕み、苛まされ続けるだろう。




 だが、これだけは分かってくれ。


今となってはもう


信じてもらえぬかもしれぬが、


ワシはソチを愛していた。


 心から愛していた。




 ・・・本当に済まぬ事をした。」




「あなた様の事は


良く分かっております。


 いつも一生懸命で、悪気はなく、


人の事を第一に考えてくださるお人だと。


 ただあなた様のその情の深さが


仇あだになっていることも。


 あなた様は人を引き付けます。


同じくらい女心を刺激します。


 そしてあなた様はそのご気性から、


惚れた女子おなごを放したくないのです。




 多分あなた様のその性向は


今後も変わらぬでしょう。


 願わくは、私のような寂しい思いをする者が


もう出ないように、と思うだけです。」






 そして別れの朝。




 また大切な女性を失う退助。




 霧のような記憶しか残せない。










 もうとっくに母は他界し、


この家には誰も居ない。








 退助は東京に帰ると


鈴に展子との離婚を告げた。




 鉾太郎はじっと父を見る。


無言でひたすら見ている。


 この日の父の表情を


生涯忘れぬと決めたかのように。




 いたたまれない父、退助は、


ひとりでお菊の店に足を運んだ。


 「今宵は酔いつぶれるまで


飲むから、そのつもりで。」


 女将のお菊は、


何か言おうとしたが止めた。








 程なく障子の向こうの廊下から、


聞きなれた声の一団が近づく。




 ノックもなく、「入ります」もなく


ニコニコ顔の象二郎。


 その後ろから植木枝盛、河野広中が続く。




「なんだ、退ちゃん、


やっぱりここにいた。


お宅に行ったらどこかに出かけたというから、


きっと此処じゃろと思った。


 他に行くところは無いんか?」




「ん?その顔はどうした?


左の頬が赤いぞ。」




 憮然とした退助、


「何でもない。」




(実はこの少し前、退助がおいおい泣きながら


お菊にすがろうとしたら、


ピシャリと平手が飛んだのだった。)




 何かを察した象二郎が


底抜けに明るく話題を変えて、


「さあ、皆の衆、


今、手持ちの有り金を全部ここに出せ。」


とテーブルを指した。


 すると広中が、


「え?象二郎殿、活動資金は任せろと


云っていたじゃないですか?」


「活動資金はな。


ここの飲み代は別会計じゃ。」


「出たよ、大風呂敷の真骨頂!」


と枝盛。


「やかましい!さっさと出さんかい!


有り金全部だぞ。


 なんだ、広ちゃん(広中の事)、


そんなぽっちしか無いんかい?」


「だって、今宵の会計は象二郎どんが


持つとおもっとたから。」


「何か怪しいな・・・。


ちょっとそこで何回か飛び跳ねてみよ。」




 するとポケットからチャリチャリと小銭の音。


「やっぱり隠しておった。


正直に全部出さんかい!」


「だってこれは帰りの馬車代だから。


これだけはお代官様、お許しを!」


「いや、許せん。


帰りの事まで計算して飲もうなんぞ、


天下の自由党員の風上にもおけんきに。


帰りの金が無いときは、


徒歩か野宿と相場は決まっちょる。


軟弱な考えはご法度ぞ!」


すると枝盛が


「女将、今宵はいりことモヤシだけで良いぞ!」


「何をおっしゃいます!


天下国家のお話をされる志士の皆様が


いりことモヤシだけなんて。


今日は生きの良いカツオがあります。


遠慮のぉ、ご注文ください。」


「え?いいんかい?じゃぁ、納豆も!」


「その代わり、後日厳しく取り立てますので。」


「また出世払いの借金が増えたか。」


「また?どんだけ借金があるのですか?」


と広中が不安な顔になる。


 すると枝盛が


「大丈夫、イザとなったら大風呂敷象二郎様が


何とかしてくれますけん。」


「だれが大風呂敷じゃ!


ワシャ名高い後藤象二郎様ぞ!」


「ハイハイ、この失業者集団は


いつになったらもっと羽振りが良くなるのでしょう?」


「何を云う女将、それが伝統というものぞ!」


すると枝盛も口をそろえるように、


「それが貧乏政党、自由党の真骨頂じゃ!」


と胸を張る。






 存在を忘れられていた退助が、


「なあ、お主ら何しに来た?


ワシを忘れておるぞ。」


「ああ、退ちゃん、居ったのか。


今日は憂さ晴らしにぱぁ~と行こう!


のう、広ちゃん!」


「ワシが悲しみに暮れるのを、


皆でハチャメチャにする気じゃな?


仕方ない。


 よぉし、今宵は飲むぞ!


菊、ジャンジャン下町のナポレオン三世を


持ってきてくれ!」






 さっきまでの退助の悲しみは


何処に行ったのでしょう?




 懲りない面々でした。
















   第39話 「板垣死すとも自由は死せず」














 1882年(明治14)


伊藤博文と大隈重信の確執の結果、


明治十四年の政変が起きる。


 参議の大隈は、国会の早期開設を唱えていた。


しかし時期尚早派の同参議、伊藤博文との


主導権争いに敗れ下野したのだ。


 大隈は自由党を結成した退助に次いで、


1882年3月14日、新党結成趣意書を発表、


4月16日、東京明治会堂で


立憲改進党の結党を宣言した。


 初代党首(総理)は大隈重信、


副総理に河野敏鎌、


これに自由党から分裂し


立憲改進党の立党に合流した


都市士族民権派、沼間守一、


尾崎行雄(父行正は断金隊2代目隊長であり、


本人は国会議員在位世界最長の記録保持者)、


前島密(郵政創設の父)など、


草々たるメンバーが参加し、


盛大に結党式が行われた。




 これで自由党と立憲改進党の


二大政党が出そろい、


政府と対峙する事となる。




 新たなライバル政党の出現により、


俄然奮起した退助は、


全国遊説を精力的に行い、党勢拡大に努めた。




 そんな情勢の中、


1882年(明治15)4月6日、


『岐阜事件』が起きる。




 東海道遊説旅行で遊説中に、


暴漢・相原尚褧あいはらなおぶみ


に左胸を刺されたのだ。






 詳しくは、






退助が午後6時頃、


自由党懇親会の演説を終え、


午後6時半頃、


帰途に就こうと


中教院の玄関の階段を下りた。


その時、「将来の賊」と叫びながら


暴漢・相原が、刃渡り9寸(約27cm)


の短刀を振りかざし、


襲い掛かったのだった。


 退助はとっさに相原の腹部に肘で


当身(あてみ=肘鉄砲)を喰らわす。


(退助は呑敵流小具足(柔術)を会得していた。)


 しかし総てをかわし切れず


負傷してしまった。




 この時、あの有名な


「板垣死すとも自由は死せず」


の言葉を発したと各新聞は報じている。


事件後すぐに発刊された


4月11日付『大阪朝日新聞』は、


「板垣は、


『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』


と叫んだ」と記されており、


他の報道機関でも


これを否定する報道は一つも無いばかりか、


事件現場の目撃者ら及び、


兇漢の相原自身もこれを否定していない。




 退助には平素から自由主義に命をかける


覚悟があった故に、


咄嗟の場であの発言が出来たのだった。








 後の取り調べで犯人の相原が


警察に脾腹が痛いと云うので、


調べて見ると黒いアザになっていた。


 それ程退助の肘鉄砲は


強力な反撃であった。




  一方、退助を詳しく診察すると、


命に別状は無いが、


左胸、右胸に各1ヶ所、


右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、


左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っている。








 その日の夜、


東京の自由党本部に板垣遭難の第一報が入った。


「板垣が殺された!」


それがその内容である。


 一報を受けた大石正巳は、


直ちに象二郎にその事を伝えた。




 唖然とする象二郎。




 激しく狼狽し、


男泣きの涙を拭おうともせず、


退助の許、岐阜に馳せ参じようとした。




 第二報で無事だと知ると、


その場にへたり込む。


 暫く立ち上がることもできないほどであった。


 この第二報を受け自由党総代として


谷重喜が岐阜へ向かう。


 更に大阪の幹部党員十数名、


高知の片岡健吉、植木枝盛、


その他愛知、土佐からも


自由党志士が多数終結した。


 設立したばかりのライバル


立憲改進党総理大隈重信でさえ


使者を岐阜へ送った。




 4月7日、


政府首脳にも板垣受難の報が入る。


政府は直ちに閣議を中止。


山縣有朋が明治天皇に事件を上奏した。


 それに対し明治天皇は、


『板垣は国家の元勲なり。


捨て置くべきにあらず』


との御辞、御見舞金三百円の下賜を命じ、


直ちに勅使を派遣した。




 この日、各地の民権主義者の集結で、


さながら岐阜は革命前夜のようになり、


この状態は明治天皇勅使到着まで続いたという。




 4月15日傷が癒えた退助は、


(ええ!もう??!!)


幹部たち主催の演説会に出席、


演説と懇親会では


群衆3000人が集まった程の盛況で、


その関心と人気の高さを物語っていた。




 その事件の余韻が冷めやらぬ12月、


明治13年12月2日号の朝野新聞には、


唯、余(退助)は死を以て自由を得るの


一事を諸君に誓うべき也。


   板垣退助


との記事が掲載されている。




 相原尚褧は愛知県東海市横須賀の


小学校の教員であり、温和で寡黙な性格、


政治運動には関心が薄かったが、保守主義に傾倒、


自由党を敵視し、退助の殺害を計画していた。




 後に退助は


自ら国事犯の相原尚褧に対する


助命嘆願書を提出した。


 これにより相原は


極刑を免れ無期懲役となった。




 後日、(もちろん数年後のことだが)


東京芝区愛宕町の(当時の)退助の寓居に


刑期を終え、改心した相原が訪れる。




 退助は、


「この度は、つつがなく罪を償はれ


出獄せられたとの由、


退助に於ても恭悦に存じ参らす。」


と、温かい声をかけた。


 相原は畏まり


「あの時の事は


今更申すまでもございませんが、


更にその後も小生の為に幾度も


特赦のことを働きかけて下さった


御厚意につきましては、幾重にも


感謝している次第であります。」


と礼を述べた。








 退助は相原に、  


「併しかしながら若もし此後、


退助が行う事にして


如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば


、その時はこう斬らるゝとも、刺さるゝとも


君が思ふが儘に振舞ひめされよ」








 (もし、この退助が今後、


国家に不忠な行為をしたと思うなら、


私をもう一度刺してくだされ。)




と云っているのだ。




普通自分を刺した相手に


そんなこと言う?






 それが板垣退助という男だった。








 蛇足ながら、


退助が全快し、東京に戻った時の


象二郎のハシャギぶりは尋常ではなかった。






 その喜びようは、


妻の鈴でさえ、嫉妬するほどである。




「ありゃ!退ちゃん!!


ほんまに退ちゃんか?


幽霊とチャうんか?」


「何を云う!こうして生きて帰ったじゃろう?


ワシゃ不死身じゃき。


チャンと足も有るじゃろ?」


「確かに足はあるが・・・・。


足はあっても、


顔に締まりが無か。」


「じゃかましか!


締まりがないのは生まれつきじゃ!


・・・って、


おまんにだけは謂れとうなか!


何が締まりの無い顔じゃ!


こう見えてワシは不死身の


『梅干し食べて酸ッパマン』じゃぞ!


ほれ!!!キリリと引き締まった


正義のヒーローの顔をとくと見よ!」


と、梅干しを食べた後の


酸っぱい顔をしてみせた。


(しかしその顔は、


ポポポポとした時の顔だった。)






一同呆れ、しばし無言。


 気まずい雰囲気が漂い、


その空気に耐えきれず


植木枝盛が口を挟む。




「後藤はんは、第一報で先生が死んだと聞いて


えらく取り乱しておりましたぞ。


百里四方に轟く程、大きな声で


泣き叫んでおりました。」


「こら!枝!!


何、でまかせを云う!


ワシがいつ泣き叫んだ!」




顔を真っ赤にし、


あからさまに狼狽する象二郎であった。




 退助は、そんな我を忘れ


アタフタする象二郎を初めて見た。




 全快祝いを「むろと」で行った時も、


お約束の、有り金全部供出の儀式から始まり、


恥ずかしい話のオンパレードだった。




 しかし、今回の宴会は、


明治天皇から下賜された見舞金三百円がある。




の筈だったが・・・、


そんなものいつまでも後生大事に


懐にいれている退助ではない。


 とっくに党の活動費に消えていた。




ううん、残念!


やはり懲りない面々であったか。




女将のお菊の苦労もいかばかりか・・・。
















    第40話 罠














 明治十四年の政変をきっかけに


大隈重信が下野し、


政府は伊藤博文の専制が固まった。






 その結果、政府部内から


民権運動擁護派は一掃され、


弾圧政策と、懐柔策による内部分裂策動が


同時進行する事となる。






 伊藤はまず、後藤象二郎に食指を伸ばす。




 憲法制定と議院設立を目指すなら


まず、先行した欧州などの実情を視察し


我が国に活かすべきであると、


 欧州視察旅行を勧めた。










 しかしそれは巧妙な罠だった。




 象二郎は退助を誘い、


まんまとその罠にはまった。




 象二郎は伊藤の企てに気づかず、


得意の錬金術で渡航費用を工面した。


(財閥三井を言葉巧みに説得、


資金を供出させたのだった。)




 退助は費用を捻出できたなら、


洋行しても良いと、


誘いに応じただけであった。




 だがその費用は、


実は政府からの拠出であるとの


疑惑の噂が新聞報道で流布される。


意図的に流された誤報。




 当然政府と対峙していた自由党総裁の退助は、


誤報を信じた党員たちから批判に晒され、


外遊反対決議が成された。




 即ち「民権運動の重要な時期に、


政府から金をもらって


海外旅行するとは何事ぞ!」


との批判が噴出したのだ。




 しかし退助は洋行を強行した。




 退助には自負がある。




 自分は維新の立役者であり、


元勲のひとりである。


 故に、自分は下野したからと云って、


決して部外者ではない。




 仮に例えその出資金が


政府からでたものであったとしても


自分にはその資格が有るのだ。




 国家を支えるには、民権運動を熟成させ、


一刻も早く、西欧諸国に負けない社会制度を


作り上げなければならない。




 それができるのは自由主義政党を立ち上げ


推進した自分たちだけである。






(それが国家からの金であったとしても、)


だから今、


この時期に敢えて視察旅行を挙行するのは


当然である。




 しかしそんな退助の姿勢は、


疑惑を信じる党員たちは理解しようとしない。


当然激しく非難し、対立は深刻化した。




 その結果、政府との癒着疑惑を批判した


馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを追放。


田口卯吉・中江兆民が去ったため、


策士伊藤の自由党内部分裂工作は成功した。




 更に退助らの留守中に、


党内急進派が貧農層を扇動、


様々な事件を起こした。




 退助不在の自由党は弱体化し、


過激化した運動は、徹底的な弾圧を受ける。






 一方、退助は象二郎と共に、


1882年(明治15)11月出発。


ジョルジュ・クレマンソー(政治家)、


ビクトル・ユーゴー(文豪)


ハーバート・スペンサー(学者)


などと会談した。




 特に当時の日本では、


スペンサーの著作が数多く翻訳され、


「スペンサーの時代」と呼ばれ、


もてはやされていた。




 スペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、


日本でも自由民権運動の


思想的支柱として位置付けられ、


数多くの訳書が出版された。


 退助は『社会静学』を


「民権の教科書」と評していた程である。




 しかし退助はスペンサーと会見した時、


「白色人種が言う自由とは、


有色人種を差別し、


奴隷化した上に成り立つ自由であり、


これは(白人にとって)


都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言した。


 これに対しスペンサーは、


「封建制をようやく脱した程度で


憲法さえ持っていない日本ごときが、


我ら白人社会と肩を並べて語るのは傲慢である」


と退け、退助の発言を空理空論となじる。


納得できない退助は尚も反論しようとした。


 しかしスペンサーは発言を制し


「NO、NO、NO!」と席を立った。




 退助は1883年同6月の帰国後、


フランス革命および白人社会の


「自由」の概念に関し、


批判し、持論を展開した。








 フランスという国は


一言でいうならば非常に野蛮な国家である。


 表向きは自由や平等を標榜しながら、


実際には世界中に植民地を有し、


有色人種を使役して平然とし、


世界の貴族階級であるかのように振舞っている。


 彼らが「天は人の上に人を作らず」


と唱える自由と平等は、


白色人種にだけ都合の良い


自由と平等であると言えまいか。




 私はこのようなことであっては


決してならないと考えるのである。


 私が維新改革を憤然決起して行った理由は、


かの国フランスに於ける革命主義の如き


思想に出でたるものに非ずして、


尊皇主義に徹した結果である。


 然るに昨今は、


西洋の主義に幻惑して


これを崇拝するが如くあるは、


最もその間違いの甚しきものと


言わざるを得ず。




 皆これを見誤ること勿れ。






 退助は


「日本の自由民権思想は


こうであってはいけない。」と、


フランスの主義を断罪した。








 しかし、フランスの民権思想を妄信し


かぶれた民権家の中には、


退助の主張に異を唱え、


フランス革命思想を礼讃する一派が存在し、


退助の民権思想の間に亀裂が生じた。




 それに加え、


一部の自由党過激派が


1882年12月1日の福島事件、


1883年3月20日の高田事件などが起こしている。




 帰国した退助は、


分裂と過激化による事件の多発、


及び政府の弾圧により党が弱体化した現状を


深刻に受け止めた。


 そんな先行きに不安を感じ、


解党するか、党再建に


10万円の政治資金を調達するかの


いずれかの選択を提議した。




 だが、松方デフレ


(西南戦争の戦費調達で生じた


インフレを解消しようと行った


デフレーション誘導の財政政策)


が原因で、有力な資金提供者であった


豪農層の脱落が相次いだため、


資金集めに失敗した。




 追い打ちをかけるように、


1884年(明治17)


自由民権運動の激化で


加波山事件が起きる。


その事件がとどめを刺し、


10月29日、自由党は解党した。




 更にその2日後の10月31日、


急進派による最大の蜂起事件である


「秩父事件」が発生した。




 退助が撒いた自由民権運動の種は


分裂し、過激化するなど、


残念な結果となり、裏目にでた。


 しかし、ここで息の音が


止められたわけではない。




 退助の不屈の執念はまだまだ続いた。










 この頃東京の板垣家では、


新たな動きがあった。




 最近体調の優れない


妻のお鈴を心配していた退助は、


あの福岡孝弟(第3話、20話参照)


が申し出た、


家事手伝いの斡旋を受け入れる。




 荒木伊佐次の七女で


名を絹子と云う。




 絹子は明るく闊達で、


鉾太郎はたちまち懐なついた。




 福岡は絹子を花嫁修業のつもりで


板垣家に派遣させたが、


奔放な彼女は周囲の思惑の型には


嵌はまらなかった。




 明るい人柄の分、


お鈴とは気が合ったが、


退助には手厳しい。




「旦那様はお金持ちなのに、


貧乏と聞きます。


 それはどういう事ですか?」


「旦那様は大層女好きと聞きますが、


本当ですか?」


「旦那様の若い頃の武勇伝は


とても面白いと聞きます。


私にも聞かせてくださいな。」






「そんな事、誰から聞いた?


ワシが貧乏なのは本当じゃが、


それ以外は全くの出鱈目じゃ!


 ガセネタにも程がある。」




 背後から鈴の声がする。




「あら、全部本当じゃありませんか。


私の旦那様は多分宇宙一


ヘンテコなお方。


 絹子にも気をつけるように


私がレクチャーしました。」




 鉾太郎までが無言で大きく頷く。




「鉾太郎!この裏切者!!」






鉾太郎とお鈴と絹子が同時に


ウインクし合った。




 またしても孤立する


可哀そうな退助。














   第41話 秩父事件












 1884年(明治17)10月29日


自由党は解党した。


その2日後の10月31日、


秩父事件は起きる。 




 秩父事件とは、


埼玉県秩父の農民が起こした明治一揆である。


 その規模は、近隣諸県


(埼玉県の他、群馬・長野)に及び、


自由民権運動に触発された事件としては、


参加人員数千人規模の、


空前の武装蜂起事件と云えた。




 前話でも少し触れているが、


1881年(明治14)


大蔵卿に就任した松方が執った松方財政


(通称:松方デフレ=西南戦争で生じた


インフレを是正するための、


デフレ誘導の経済政策)は、


 脆弱な農業の経済基盤を直撃、


農作物価格の下落を招く。




 決して裕福とは言えない下層農家に


その影響が直撃、深刻な困窮状態に陥った。




 更に生糸の国際市場価格の大暴落が発生、


日本の国内取引価格もつられて暴落する。




 特に養蚕農家が多い地域は


その二重の下落・暴落の犠牲となった。




 特に秩父には養蚕農家が多く、


当時の直接の取引相手である


フランス国際生糸市場が大暴落の震源地であり、


その影響と被害を一番受けた。










 そうした背景の中、


政府は全国で多発・過激化する民権運動に


弾圧強化を以って応える。


 民権派はそれに対抗、


「圧政政府打倒止むなし」


と考える者が多数出た。




 彼ら急進・過激派自由党員は各地で扇動、


群馬事件、加波山事件が発生した。




 特に加波山事件は


「完全なる立憲政体を造出」の実現を目指し、


公然と自由の公敵たる専制政府打倒を宣言した。


 しかし、その武装蜂起は


小規模な政府高官襲撃事件に過ぎない。


 彼らは力で鎮圧された。






 これが風前の灯火の自由党に止めを刺す。




 だがそれで終わりではなかった。




 秩父の地域では自由党員が


増税・借金苦に喘ぐ農民を結集


「困民党」を組織する。




 彼らは当初、政府に対する請願、


高利貸しとの交渉を主な活動としていたが、


全く聞き入れられなかった。


 止む無く彼らは、


政府に訴えるため、


蜂起を困窮農民に提案する。


 その結果、我も我もと


多数が参加した。


 彼らは二日前、


自由党が解党した事実を知らない。




 秩父と周辺農民は、


負債延納、雑税軽減を求め


未曾有の規模の武装蜂起に打って出る。




 蜂起の目的は当初


政府に減税を訴える事にあり、


高利貸しや、当該地域の役所が保管する


帳簿を廃棄させることにあった。




 一種の徳政令発動を求めたのだ。




(徳政令とは、それまで背負ってきた


借金などの負債に対し、


幕府などが無効を宣言する事。


鎌倉時代、困窮した御家人に対し、


救済措置として発令したのが始まり。


以降、一揆をおこした農民は、


徳政令を求めるようになった。)






 10月31日決起集会が行われ、


蜂起が実行に移された。


 翌11月1日、秩父全域を制圧、


役所及び、高利貸しの貸付証書を


処分・廃棄する。




 その報は電信により、


いち早く政府に届く。


政府は鎮圧のため、迷うことなく即座に


警察・憲兵隊を派遣した。


 更にそれだけでは治まらないと見た政府は、


最終的に東京鎮台の兵士も送り、


農民たちの秩父困民党は、


その武力により鎮圧された。




 後日、事件に関わった


1万4千名が処罰され、


うち首謀者7名に


死刑判決が出され終結する。




 江戸時代と変わらぬ、


力による一揆の制圧。






 もちろん、現在でも


武装蜂起や、その容疑のある集団を


許容するわけではない。






 しかし、そうなる前に


救済措置を取るとか、


できる限りの方策を尽くし、


行政として誠意を見せるべきであった。




 困窮し、


行き場を失った民衆に対し、


何の救済策も取らず傍観しておきながら、


イザ不満を爆発させると力で押さえつける。


そんな民衆からの信を奪う権力は、


いつか必ず悲劇を生む。




 そんな国家に明るい未来は無い。
















 自由党を解党し、


秩父事件の顛末を目の当たりにした退助は、


暗澹たる生活の中にあった。






 そこに追い打ちをかけるように、


妻、お鈴の容体が悪化、次第に弱り


ついに1885年(明治18)6月28日に没した。




 死因も病名も公開されていない。






 鈴との最後の別れの時、


退助は鉾太郎に云った。


「いいか、鉾太郎。


男が泣くときは、人生で一度だけだ。


・・・それは愛するひとを失った時ぞ。」


 そう言って退助は妻を安置する部屋の


ふすまを締め、ひとり声を殺して泣いた。




(ただし、退助はもう幾度か女性を失い、


その都度何度も泣いているが。)




 ひとり残された鉾太郎。




 彼の味方は多忙な父と、


犬のクロ、猫のミケだけであった・・・。




 だが今は新たに加わった


手伝いの絹子もいる。


 彼女はいつも鉾太郎に寄り添い、


かけがえのない強い味方となっていた。




 そんな彼女の支えもあり、


母の面影を胸に抱いて、


気丈にも雄々しく生きる鉾太郎。




 絹子はそんな鉾太郎を


我が子のように思い、心から愛した。




 退助に対しては、


「変なおじさん」との


感想しか持たなかったが、


鉾太郎を守りたい。


出来れば母となり、


行く末を見守りたいとの


母性が生じ始めていた。






  実はこの時から次第に、


初めて退助を鉾太郎の父として、


男として見るようになってくる。




 妻を、母を失い、


悲嘆にくれる生活も、


次第に日常を取り戻してくる。




 甲斐甲斐しく板垣家の家事をこなす絹子。


鉾太郎の世話を焼きながらも、


次第に父退助の存在に意識が向く。




 背後に誰かの視線を感じる退助。


常に誰かに見られている気配を感じる。




 ん?鈴の霊か?


いや違う。




 しかし、不意に誰かが背後から


人差し指で背骨を上から下に


スーッと触れる感覚。




 ゾクゾクっとなり、


左右に身体を捩よじる退助。




 誰だろう?


こんな感覚をもたらすのは。






 その正体を知ったのは、


妻を亡くした寂しさから、


退助がお菊のいる「むろと」で


苦い酒を遅くまで飲み、


いつものように女将の菊に冷たくされ、


千鳥足で帰宅した時だった。




 そこに居たのは、母を亡くし


退助以上に打ちひしがれている鉾太郎。




 その鉾太郎が


涙の跡を残しながら眠るその寝顔を、


絹子が添うようにじっと見ていた。




 その様子はまさしく母と子であり、


その時初めて退助は気づいた。




 絹子は手伝いとしてではなく、


母として、家族として接したいのだ。




 退助は絹子を初めて


愛おしいと思った。




 もしかしてその感情は、


恋愛とは言えないかもしれない。




 それでも良い。




 退助は密かに、


絹子を後添えとしようと決めた。




 自分の事を


「変なおじさん」と思っているとも知らずに。




 そして鈴の一周忌を終えた後、


絹子を板垣家に紹介した福岡孝弟に


相談する。














   第42話 叙爵の恩命と三顧の礼












 退助の自由民権運動は


運動の過激化と政府の弾圧により


閉塞感を強め、次第に萎しぼんできた。




 過激派自由党員が起こした主な事件。




1881年(明治14)秋田事件


1882年(明治15)福島事件


1883年(明治16)高田事件


1884年(明治17)群馬事件、加波山事件、


        秩父事件、飯田事件、


        名古屋事件


1885年(明治18)大阪事件


1886年(明治19)静岡事件




 事件は次第に過激化し、


暗殺や爆発物によるテロ、


活動資金集めに銀行強盗を計画するなど、


思想犯としてより、


凶悪な犯罪者の様相を呈してきた。








 退助はそんな状況を


企図した訳ではなかったが、


自分が提唱した自由民権運動の広がりが、


こんな結果になってしまった事に


強い責任を感じる。






 有る日退助は伊藤博文と


会見する機会があった。




(その会見は後述します)




 冒頭、伊藤は退助に謝罪している。


「私が後藤殿(象二郎)に


洋行を勧めた結果、


疑惑を招き、


自由党解党を招いた事を謝罪したい。」




「いいや、謝罪は結構。


 貴殿のせいで解党したのではないきに。


自由党を解党したのは、


全くの自滅が理由じゃき。


 逆にワシの方こそ謝罪したい。


ワシは多くの若者たちをあおり過ぎ、


過激行動に走らせてしまった。


 焚きつけておきながら、


暴発を制する事ができなかった事を、


貴殿と政府に謝罪する。」






 退助は伊藤の分裂工作には気づいていた。




 然し、伊藤は国家の屋台骨を背負い、


国民が持つ様々な不満を、


限られた財政条件と


未整備な仕組みの中で、


懸命に治めてゆかなければならなかった。




 伊藤は民権運動を


完全否定しているのではなく、


あくまで時期尚早とし、


国をまとめながら


緩やかに移行せよといっているのだ。




 自由も人権も、その真意を


廣く国民に浸透させなければならない。


 自由や民権の主張を『徳政令』と同一視し、


過激化した行動に


明け暮れている現状では、


簡単に(不用意に)


権利の付与はできない。




 国民が真に自由、平等、人権に目覚め、


その権利を正当に


行使できるようになるためには、


まだまだ教育による理解と、


権利を持った者の責任と自覚が必要である。




 また、成熟した民主主義を


確立するためには、


国民の大半を占める中間層を


主流として育てなければならない。




 貧困層ばかりでは、


どうしても生活の安定と


自分たちへの税負担軽減しか関心を持たない。




 生活にある程度のゆとりを持たせ、


過激な思想や行動に走りにくく


穏健な考えを持った


市民階級の育成が急務である。




 伊藤の考えと目指す立憲政治とは、


そうした仕組みを持つ国家体制。




 だから彼は殖産興業に、


とりわけ民業の育成と強化に


一番力を入れているのだ。




 伊藤と退助の考え方の違いが


そこにある。


 伊藤の富民を増やし、


国民全体を底上げするやり方に対し、


退助は弱者を救済し、


国家と社会に等しく


自由、平等、人権を浸透させる


理想社会を目指す姿勢を貫くのだ。






 そんな考え方の違いと


国家経営の責任ある立場を、


(同じ政府部内にいた退助は)


痛い程理解していた。




 


 故に伊藤を責める気にはなれない。




 但し、だからと云って、


お互いが慣れあいに染まり、


異なる主義主張に対し、


決して忖度はしない。




 退助は何処まで行っても


頑固に主張を曲げない


明治の元勲であった。








 そんなスーパー頑固オヤジ


退助のエピソード。






 1887年(明治20)5月9日


戊辰戦争と明治維新の功労者に対し、


叙勲の恩命が下される。




 退助は伯爵に叙せられた。




(※ 爵位には五段階あり、


公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵


となっている。)




 だが退助は、勿体なくも叙勲を辞した。


その理由は、退助の主義、主張にある。




 彼は常に一君万民、四民平等を唱えている。




 しかし爵位を受けると云う事は、


自ら特権を受け入れ、


平等主義に矛盾した行為になると


考えたのだった。










 辭爵表じしゃくひょう       




 臣退助、


伏して五月九日の勅を奉ず。


陛下特に 臣を伯爵に叙し華族に列せしむ。


 天恩の優渥なる 


臣誠に感愧激切の至りに任たへず、


直ちに闕下に趨はしりて寵命を拝すべき也。


 而しかして 臣退しりぞきて


窃ひそかに平生を回顧するに 


臣、素もと南海一介の士。




(中略)




 而して、


陛下 臣を賞するに厚禄を以てし、


並に物を賜ふ事若干、


次て参議に任じ正四位に叙せらる。


 陛下に咫尺しせきし以て 


臣が説を進むるを得ば、


臣の願既に足れり。


 尚なほ何ぞ伯爵に叙し、


華族に列するの特典を拝するを須もちひんや。


 且かつ 臣、平生衷に感ずる所あり、


高爵を拝し貴族に班するは、


臣に於て自みづから


安やすんずる能あたはず


縦令たとえ、


陛下の仁愛なる、


臣が舊功を録し重ねて


特典の寵命を下さるるも、


臣にして敢あえて天恩に狃なれ


一身の顯榮を


叨みだりにする事あらば則ち 


臣復また何の面目を以て


天下後世の清議に對せんや。


 因よって 臣茲ここに


表を上たてまつり


謹つつしんで伯爵並に華族に


叙列するの特典を辭す。


 伏して願くば、


陛下 臣が區區おりおりの衷情を憫み、


其狂愚を咎めず、


以て 臣が乞ふ所を聽ゆるされん事を。


 慚懼懇款の至りに任たへず、


臣退助誠惶誠恐頓首頓首。




 明治二十年六月四日     




  正四位  板垣退助








 想定外の退助の反応に


政府は慌あわてふためいた。




 6月11日宮内次官が天命を奉じ


退助に「陛下(明治天皇)は


貴下の『辞爵表』を奏聞されるや、


御嘉納あらせられず、


深く叡慮を煩わせれておられる。


 よって速やかに前志を翻して


受爵されるように」と諭す。




 一方内閣は秘密会議を開催、


「板垣辞爵問題」を討議し、


あくまで退助を受爵させると再確認する。




(わざわざ国家の閣僚たちが


頑固な退助の問題を討議したんだ!




 驚き!!)






 それを受け退助は


主な旧自由党党員140名を集め、


その場で説明を行う。






 「『再辞爵表』を上書し


「自分が今、叙爵の寵命を固辞する理由は、


封建門閥の弊習を取り除き、


四民平等を宣した


維新の精神を守ろうとするものである」


と訴え、辞爵を再請願した。




 しかしその請願も宮内省書記官に


「陛下の叡慮は前日と変わらない」


旨を告げられ


またしても差し戻される。




 頑固で困ったチャンの退助を


説得することに周囲が混迷の度を深め、


思い余って伊藤博文が


「三度の拝辞は不敬にあたる」


という三顧の礼の故事をひいて諭し、


ようやく退助の心を動かすことが出来た。


 7月15日、退助は参内し『叙爵拝受書』


を奉呈する。






 その三顧の礼の説諭の会談が、


あの前述した伊藤と退助の


謝罪と和解の場でもあったのだ。












 頑固オヤジ退助は、


公私共に波乱を巻き起こす。




 絹子の事で話があると云い、


絹子を斡旋した福岡孝弟を呼び出した。




「やあ、伯爵閣下、


暫く会わないうちに、


一層精悍で脂ぎった土佐男になったのぉ!」


「何を言うか!会って草々、皮肉はよか!


別にワシャ脂ぎっておらんし。


ほら、このウルサラのきれいなお肌をみよ!」


と云って自らの顔を突き出して見せた。






「・・・・・・・・。」




 思わずふたりは目を合わせ、


暫く気まずい空気が流れる。








 そんな雰囲気に後悔した退助が


耐えきれず、


「ウォッホン!・・・。


今日はうちの絹子の事で話がある。」


「うちの?


もうそこまでの関係になったとか?


やはり退助閣下の


女子おなごに対する手の速さは


早打ちマックや、


ビリー・ザ・キッドなみじゃのぉ。」


「何でワシが彼女に


手を出したと決めつける?


ワシャまだ出しておらんぞ!


大体、ビリーとか、マックとかは何じゃ?




 ハンバーガーか?」




 孝弟はその質問を無視し、


「まだ出していない?


じゃぁ、これから出すつもりね?」




「だから!ちゃんと聞かんか!


妻の鈴が亡うなって早一年になるが、


我が息子の鉾太郎が心配なんじゃ。


 でも息子は健気に


カラ元気を装って居るきに。


 そんな鉾太郎を


絹子が懸命に支えておる姿が


ワシの胸に堪こたえるんじゃ。




 そこでワシは考えた。


絹子が我が板垣家に馴染み、


鉾太郎の母代わりに


なろうとしているのなら、


 いっそのこと、


本当の母になってはどうかとの。 


 だから、絹子にその考えを伝える前に、


斡旋業者のおまんに


一言云っておこうと思っての。」


「誰が斡旋業者じゃ!


ワシャ悪徳人身売買の『人買い』か!


 じゃが、退助閣下が本気でそう思うなら


ワシも考えてやっても良いきに。」


「それは有難い!


では早速話を進めよう。


 神様仏様、


(福岡)孝弟子爵閣下殿。」


「まつり上げんでよか。


でも、このまま祝言をあげるとなると、


世間体が悪いの・・・。


爵位あるお方が女中に手を出して


我が物にしたとの噂が経つと


閣下にとっても都合が悪かろ。」


「もう閣下は止やめんかい。


おまんとワシの仲じゃろが。」


そんな退助の言葉をまたも無視し、


「そうだ!絹子殿を養子として、


ワシの家から嫁がせると云うのはどうかな?


それならきっと


絹子殿の父親の荒木殿も納得するじゃろ?」




「そうかな?


・・・そうじゃな。




 そうしてくれると


ワシとしても有難い。


孝弟殿、引き受けてくれるか?


 お礼にワシが発行する


『何でもお手伝い券』をあげるきに。」


「『何でもお手伝い券』?


何じゃ?そりゃ?


子供か?ワシは?




(何か企みを思いたように、気を取り直し)




 でも本当じゃな?


本当にくれるんじゃな?」




 孝弟がワザと含みのある


悪そうな顔をして念を押す。




「その反応、何だか恐ろしいな。


 何か恐ろしい頼み事をぶつけてきそうじゃ。


やっぱりやめようかな?」


「土佐の男に二言は無しじゃ!


お手伝い券を貰うのを


楽しみにしておるぞ!」






 何だか悪魔に


魂を売ってしまったかのような不安を胸に、


孝弟との話をつけた。




 そしてついに、満を持して


退助は絹子にプロポーズした。








絹子の答えは一言。




「嫌だ。」














   第43話  結婚攻防戦












 「・・・・なんで?」


予想外の答えに唖然とし、


呆けた顔の退助が聞く。




 「だって、旦那様は伯爵様ではないですか。


旦那様と結婚すると云う事は、


私は『伯爵夫人』になると云う事ですよ。


 私が伯爵夫人?


 恐れ多いでしょ?


 可笑しいでしょ?




 私を知る者は皆、


『臍で茶を沸かす』と云って笑うでしょ!


 私を笑うと云う事は、


私を妻にする旦那様も笑われると云う事。


 貴族の作法も知らぬ私が、


どうして伯爵夫人になれるでしょうか?」






 「何ぁ~んだ、そんな理由か?


それなら・・・」


退助が言い終わらない間に


絹子が口を挟む。


 「それだけではありませぬ。


旦那様は変なオジサンだし、


(象二郎たち家に来てバカ騒ぎする)


お仲間も変だし、


お金持ちなはずなのに、


いつもピーピー言ってるし、


女癖が悪そうだし、


オナラが臭いし、


時々「クソ!クソ!クソ!」って


地団駄踏んでるし・・・」


「ああ、分かった、分かった。


もういい。」


得意の気まずい顔の退助が遮る。


「でもな、絹さん、


鉾太郎の事はどう思ってる?


今のままで良いと申すか?」


「鉾太郎お坊ちゃまを引き合いに出すなんて、


旦那様は卑怯でございます。」


「卑怯?


卑怯とは何んだ!


自分の分が悪いとなったら、


相手の弱点を突くのは定石ぞ!」




 「旦那様・・・ハァ、 (*´Д`)


それって、男としてと云うより、


人間として如何なものかと思いますよ。」




 「そうか?」


 「そうです!


 確かに私は鉾太郎お坊ちゃまが大好きです。


 でもその事と私と旦那様が結婚するのは


別の問題でしょう?


 え?違いますか?」


 「いや、違わぬ。


 お絹さんがワシの息子が好きと云うなら、


その父であるワシも


好きと云う事じゃないか?」


 「その論理の飛躍は、


何処からきたのです?


 鉾太郎お坊ちゃまと旦那様は


別人格でございましょう?」




 頑として退助の誘いを断る絹子であった。




 どうやら退助は絹子の想いを


勘違いしていたようだ。




 ワシャ、自意識過剰だったか?




 でも粘り腰部門では百戦錬磨の退助。


 決して諦めず、日々の生活の中、


波状攻撃に打って出る。




 「なあ、絹さん、


鉾太郎もあなたに


母親代わりになって欲しいと


云うとるぞ。」


 「なあ、お絹さん、


伯爵夫人になると


ソフィアローレンのようになれるぞ。」




(『伯爵夫人』1967年


チャップリン最後の映画。


女優ソフィアローレンが主人公。


伯爵夫人を演じた)




「なあ、お絹さん、


今度文明堂のカステラを買ぉてやるか?」




「旦那様は私をお菓子で釣るのですか?


情けない。」


「じゃぁ、ルイヴィトンのバッグも


付けてやるぞ。」


「ルイヴィトン?


・・・・・。」


少し心が動いた絹子。


ブルブルブルと冠かむりを振り、


「だから・・・、物で釣るのですか?


バカにしないでくだされ!」


と険悪な顔になり睨む。




(ルイヴィトン=退助洋行時、


当人が買ったカバン。現存する製品で、


日本人が所有する最古の現物。)




 絹子の剣幕に怯み


項垂うなだれる退助。


 流石に背中にオヤジの哀愁を漂わせ、


自分の部屋に引きこもる。




(『よろしく哀愁』郷ひろみの歌が流れる。


 ・・・知らない人は要検索)




 そんなある日のこと、


絹子はさりげない日常に


弱者に対する退助のやさしさと、


『徳』を見た。




 会津戦争で罹災した


農民の代表と称する者たちが


数十年ぶりに退助邸を訪れる。




 彼らはあの時退助が示した温情に感謝し、


今の力強く生きている姿を見て欲しいと


陳情のため上京した折に


ワザワザ訪ねたのだ。


 その中には、幼い子を連れた者もいる。




 彼らは民権運動では


大した活躍はできなかったが、


皆応援していると云う。




 退助は絹子の前では


一度も見せた事がない優しい笑顔で


ひとりひとりの手を取り何度も頷く。


「あの時は、いくさに巻き込み


誠に済まぬ事をした。


 それなのに、こうして来てくれた事、


とても嬉しく思うぞ。


 だから感謝したいのはこっちの方じゃ。


 ワシはいつも皆の幸せを願っちょるぞ。


そのために今後も頑張るけん、


待っちょってくれ。」


 そう云って幼子の手をとり


頬ずりした。




 でも退助の髭が痛痒いと


その子は親の後ろに隠れた。




 その時見せた、


いつもの気まずい退助の顔。




 絹子は何故か、その姿と表情に、


親近感と愛おしさを覚えた。


 そしてとうとう


退助の波状攻撃の前に屈する。






「仕方ありませんねえ。」




 小躍りする退助。




 内輪だけの婚礼の日、


福岡孝弟はまた皮肉を言う。






 「随分待たされましたな。


あの時の口ぶりでは


すぐに式を挙げるのかと思いましたぞ。


絹子の承諾の確信も根拠もなく、


よくワシから先に申し出ましたな。


その自信は何処にあった?」




 「済まなかったな。


ちと同意を得るのに手こずっての。


 子爵の養子を引き受けてくれ、


数々の手配り、痛み要る。


 おかげで子爵令嬢として嫁すことに


絹子も喜んでおる。」






 ところで『お手伝い券』の事だけど・・・」


退助は恐る恐る聞いた。


「ああ、その件なら無事クリアじゃ。


 退助殿がグズグズしちょる間に


妻との喧嘩は治まっちまった。


 次の機会に使うけん、


大事に仕舞っとく。


 だから券は有難くいただくが、


使うのは後の話じゃ。


 その時まで待っちょってくれ。」


「何じゃ!夫婦喧嘩の仲裁か?


そんな事にワシを


巻き込もうとしておったのか?


 ワシャまた、


政争の裏工作の手伝いにでも


使うつもりかと思ったぞ。」


「ワシを見くびるでない。


ソチの手を借りんでも


道は自分で切り開くつもりぞ。


ワシを誰だと思っちょるか!」


「・・って、夫婦喧嘩の仲裁の方が


情けないと思うが?」


 「まあ、まあ、ここは祝いの席。


細かい事は気にせず、


絹子の事を祝おうぞ、


なあ、婿殿。」




(ゲッ!そうであった。


絹子を福岡家に養子に出したと云う事は、


孝弟は親になり、舅殿になると云う事。


それを失念しておった。)








 そんな基本的な立場の変化にも


思いが及ばない


信じられないほど何処か抜けた退助である。






 多分これ以降、


退助は孝弟に頭が上がらないかもしれない。




「父上、旦那様、


何をゴチャゴチャと話しているのです?


早うお席におつきください。


 鉾太郎(坊ちゃま)が


待ちくたびれていますよ。」




「そうだぞ、父上。」


と、鉾太郎。




 どうやら我が家には


新連合が形成されているようだ。












 板垣家の波乱とは別に、


世間でも大きな波乱があった。




 自由民権運動が政府の弾圧と


過激化による自滅から


組織がバラバラになった状況を立て直すため、


帝国議会開設を控え民権派が再び結集、


大同団結運動が始動した。


 しかしその運動も


路線と思惑の違いから再び分裂、


やむを得ず退助は初心に帰ることにし、


出発点であり強固な活動の拠点、


土佐に戻る。


 そして再び愛国公党を組織し直し


第一回衆議院議員選挙を迎えた。






 1890年(明治23)帝国議会開設。




後に退助は河野広中らと旧自由党各派


(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)


を統合し、立憲自由党を興す。


 翌91年、自由党に改称、


党総理(党首)に就任した。




 注:退助は伯爵になったため、


華族の立場では衆議院議員にはなれない。


 それ故、意外なことに


生涯一度も衆議院議員の経験はない。


 また、貴族院議員にもなっていない。


 それは爵位を辞し、


明治天皇の詔勅を受け入れた手前、


華族の特権である貴族院議員にも


立候補する事は無かった。






 議員にならず、(なれず?)


常に党首として君臨する退助。








 この後、私生活で絹子との間に


出産ラッシュが続き、鉾太郎を含み、


合計10人の子だくさん家族を形成する。






 政党も子供も、


産むのが大好きな退助であった。














   第44話 大隈重信卿












 1884年退助の自由党は解党し、


同年末、立憲改進党党首大隈らが脱党、


こちらも事実上分解した。




 これにより自由民権運動は一時衰退したが、


1887年(明治20)10月、片岡健吉


(元迅衝隊左半大隊司令、退助の右腕)


が元老院に建白書を提出。




 この建白書をきっかけに起きた政治運動を


三大事件建白運動と云いう。




 この建白は


「外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減」


を要求し、民権運動は再び激しさを増した。




 この社会のうねりを見て


象二郎が動いた。


 象二郎は自由民権運動各派が再結集、


大同団結運動を興し、来るべき帝国議会


第一回衆議院議員総選挙に臨む。


帝国議会を舞台に議会政治を打ち立て


条約改正、地租改革・財政問題


にあたるべきと唱え、


旧自由党・立憲改進党の


主だった人々に呼びかけた。






 だが、この時自由党元総裁の退助は


自分が疎外された事に


へそを曲げ、いじける。




 しかしその疎外の理由は、


何かと行動に不正疑惑が多く、


退助とは性格の合わない


運動のもう一人のメンバー、


星亨の存在にあった。




 また私事乍ながら、妻の逝去、


及び再婚問題に翻弄されていた


最中での事もあり、余裕がない。


そうした事由により、


運動からは距離を置いていた。




 それとは別に、ライバルだった


立憲改進党の領袖、


大隈重信も懐疑的であった。




 それを見た政府は、12月26日、


安保条例を制定、活動家を弾圧した。




 弾圧する一方、


政府は『飴と鞭』政策も同時進行で実行する。


1887年(明治20)5月、


退助と同じく伯爵の爵位を象二郎に授け、


懐柔作戦に出た。






 象二郎は人が良い。




懐柔作戦などどこ吹く風の顔で


ニコニコして受け入れた。




 後藤象二郎伯爵の誕生である。






 更に政府の分裂工作は続き、


1888年(明治21)2月


大隈重信を第一次伊藤内閣の


外務大臣として入閣させ、


 運動の盟主の象二郎も


1889年(明治22)2月


黒田内閣の逓信大臣として入閣させる。


 そして象二郎は、


運動からの撤退を表明した。




 これにより運動は


その後の方針の違いから、


河野広中の大同倶楽部と、


大井健太郎の大同協和会に分裂、


事実上崩壊した。




 だが実際に帝国議会が開催すると


民権派系の民党と政府の対立が激化する。


 そうした情勢の中、大同団結運動と


距離を置く退助を擁立する声が高まった。


 これを契機に


旧自由党系の再集結論が盛り上がる。


 その結果、第二次愛国公党、


大井が結成した自由党、


大同倶楽部らが結集、


改めて退助を擁した


立憲自由党(翌年自由党に改名)


が結成された。




 その結果、第1回帝国議会では


130名を占めて第1党となる。




 そして立憲改進党と


民力休養(市民階級の育成)を掲げ、


政党内閣の確立を目指した。






 同1891年(明治24)、


退助は立憲改進党、大隈重信と会談、


民党連合による連携に合意する。






 その日は雨だった。


梅雨の初めは肌寒い。




 退助は会談を始める前から


あまり気乗りしない。




 民党連合に反対なのではない。




 正直言って大隈とは、


そりが合わないのだ。




 大隈は饒舌で、


こちらから討論を仕掛けても、


いつの間にか相手のペースにはまり、


丸め込まれてしまう。




 それが大隈の長所でもあり、


短所でもある。




 しかも大隈の記憶力は超人レベルにある。


 あまり人の話を聞かず、


話の途中で割り込み


自説を展開する癖に、


相手が何を話したか


ちゃんと覚えている。




 しかも大隈は金持ち。


 退助と違い、


投資などで莫大な財を成している。


(某有名大学まで経営しているし)




 退助があばら家に住み、


生活にヒーヒー言っているのに、


彼は別邸を何件も持ち、


毎月1500円も浪費できるほどの


セレブな生活を謳歌している。






 日本を背負う政治家とは、


我が身の一身を賭してでも


捧げるべきものと考える武人退助に対し、


 大蔵官僚出身の大隈は


損得の理にさとい。




 退助は大隈を、大蔵大臣の職から


辞任を要求した過去がある。


 退助のみに非ず、大隈を嫌う者は多い。


 明治天皇や木戸孝允、


西郷隆盛らも嫌っていた。




 でも、その強烈な個性と能力から、


慕う者もそれ以上に多い。




 どことなく鈍臭い所がある退助は、


その愛嬌と人柄で人を引き付けてきたが、


大隈には通用しない。




 案の定、会見は大隈のペースで終始した。




 先に到着していた大隈は、


「やあ、板垣卿、久しぶり!


元気だったか?


滋賀の襲撃から


すっかり回復しようですな。」


「大隈卿(大隈は外務卿を辞職し


枢密顧問官になっていた)


もあの時は大変でしたな。


杖をついての移動は大変じゃろ?」




 (大隈は1888年(明治21)10月18日、


国粋主義者に爆弾による襲撃


を受け、(大隈重信遭難事件)


一命はとりとめたものの、


右脚大腿下三分の一を切断している。)




 「お互いテロには


気をつけんといけませんな!


ハハハハハ!」


 「そうですな。」




 退助も大隈も襲撃犯に対し、


非常に同情的で、


むしろその憎むべき犯罪行為を 


高く評価するような言動を残している。


 その豪放無比な性格は


似ているのかもしれない。






 「ところで板垣卿の自由党は


随分迷走しているようですな。


 私の所(立憲改進党)も大変ですが、


お宅は大丈夫ですか?」


「それが全然大丈夫じゃないんじゃ。


 どいつもこいつもあっちこっち


向いてるもんじゃけ、


纏まとまるものも纏まらん。


 おかげで毎日ヒーヒー云うとる。」


「お互い苦労しますな。


それに加え板垣卿の場合、


家が子だくさんと聞きます。


 そっちの方の苦労も


あるんじゃないですかな?」


「それが・・・そうなんじゃ。


 細君は日に日に強くなるし、


子供らは昼夜を問わずビービー泣くし、


寝ているワシの上をでんぐり返しするし、


おちおち寝てられんぞ。


ワシに同情してくれるか」




(笑いを必死で噛み絞める大隈卿)




「深く深く同情します。


大体、板垣卿は清貧過ぎますぞ。


 もう少し我が身と家族を顧みんと。


 私が投資の方法を教授しましょうか。


板垣卿が政府に戻ったら、


私も戻って全力でサポートするので、


是非一緒にやりましょか。


 それにしても現在の政治状況は・・・・」




 そこから長々と講義が続いた。




  退助は窓の外の霧のような雨を見る。




  冷たい雨。


 まだ梅雨の入りじゃけ、


暫くつづくの。




 まるで解党した今の自由党みたいじゃ。




 今日も我が家は


子供らで戦争状態なんじゃろな。










 その時その時の情勢により、


目まぐるしく集合・離散を繰り返す政争に


疲れを感じていた退助。




 しかも家では毎年出産が繰り返され、


鉾太郎兄ちゃんには、


3人の妹と、ひとりの弟ができていた。




 母として、逞しく家を切り盛りする絹子。






 「とても伯爵夫人には見えない」






・・・とは、


口が裂けても言えない退助パパであった。








 母乳を飲ませるのは母、


おしめを替えるのは鉾太郎。


(ただし、学校から帰ってきてからの話。)


犬の散歩と猫の餌やり、


それからおしめの洗濯は


(家事担当の女中さんと)


時々退助伯爵の役目。








 さて、その伯爵邸であるが、


こんな証言が残されている。








 市島健吉(明治のジャーナリスト)の証言






「常用で板垣伯を訪ねたことがある。


当時の伯の住所は芝公園内の


第何号地という様な分り悪い所にあった。


 辛うじて番号を尋ね当てたが、


さてその家が如何にもみすぼらしいので、


自由党総理の家とは思えぬ。


 そこで念の為


その家に就いて問うて見ると、


矢張り伯の家であった。


下駄の三足も並ぶと一杯になる


入口に障子が二枚ある。


 どうしても下等の判任官の


住居としか見えぬ。


 下駄脱から御免というて取次を頼むと、


中でお上りという声がする。


 戸を開けると、


直ぐそこに伯が客と対談中で、


今上れと言われたのが


主人の伯であったのに一驚を喫した。


 伯は無造作に応接されて、


用は立ちどころに弁じたが、


一方改進党総理大隈伯の殿様振りと


板垣伯の生活振りが


余りに懸隔あるので案外に感じた。」




とある。








 退助卿の家の近くに近づくと


いつも子供の声がする。


 貧しいが家庭的な幸せの匂い。




政治の場では波乱続きだったが、


 私生活では


一番幸せな時だったのかもしれない。














   第45話 最終回














 同1891年(明治24)、


 退助は立憲改進党、大隈重信と会談、


民党連合を形成、連携した。




 その後の民党連合と政府の官吏党は、


議会運営で対立を深める。




 第二議会に於いて自由・改進両党は


多数派を形成した。


 そして政府提出議案を悉ことごとく否決、


対抗する政府は直ちに議会を解散する。




 そして品川内務大臣が政府系機関を動員、


民党に対する選挙干渉を行う。




 買収、暴漢を使った警察官による脅迫、


政府と関係する銀行、商社員、


取引ある商工業者への投票妨害、


選挙投票所前での暴漢奔走の威嚇行為。




 この結果、多数の有力民党議員が落選した。


 それでも妨害にめげず、


依然として多数派を形成する。




 その後も民党への干渉は続き、


自由党のみならず、立憲改進党も深手を負う。




 結果立憲改進党は求心力を得るため


立憲革新党・大手倶楽部や国権派と合同し


進歩党を結成した。




 進歩党は政府に近づき、次第に自由党は


孤立化する。






 1896年(明治29)自由党はついに


第二次伊藤内閣に協力する道を選んだ。




 退助は内務大臣として入閣する。






 そのことが世間の批判を浴びた。


内務省とは、警察など治安維持を含む


統制を職務とする部署でもあり、


自由党などの民党は


その弾圧を受ける立場だった。




 当然退助の入閣は


裏切り行為にしか見えない。




 但し、退助のその選択は


決して裏切りを企図したものではない。


むしろその逆であった。




 思い出して欲しい。


 退助は土佐藩時代、


当時失脚中だったが、


弾圧を受け、逮捕された


土佐勤王党の武市瑞山を助けるため、


ワザワザ審理する役目の


大監察 (大目付)に復帰しているのだ。




 退助は決して土佐勤王党の過激な行為を


支持してはいなかった。


だが同じ尊王攘夷思想を持ち


命がけで戦った彼らを


何としても守ってやりたい。




 彼らを国の宝として考えた。




 だから自分が失脚した身であろうが


藩の方針に逆らおうが、


守るべき者たちは何としても守る。




 それが退助の生涯を通じての


姿勢であり、人柄である。






 だから今回も自由民権運動を守るため、


自ら取り締まりの本丸に飛び込み、


彼らを守る。




 それは退助にとって当然の行為。




 だが、そんな退助の本心を


見抜けない世間は、


退助を批判、攻撃した。






 『板垣退助は政府が施す


内務大臣という飴に喰らいつき、


自由を奉ずる者たちを売った。』






 曰く、


「自由死すとも、板垣死せず」と。






 当時の新聞等での退助は、


伊藤博文、大隈重信と共に


風刺界の大スターであった。




 無責任な風刺に晒された退助。








 けれども、


一切の言い訳をしていない。




 真意を自らの行動で証明する。




 余計な言い訳は見苦しい。




 内務大臣として退助は善戦した。


だがアウェーでのその努力は、


所詮「独り相撲」に過ぎない。




 第二次松方内閣でも留任したが、


その辺が限界だった。


 次第に立場を失い内務大臣を辞任、


真意を理解されないまま、


1897年(明治30)無念にも


自由党総理も辞任した。






 だが退助はそれだけでは終わらない。


信念を持ち、命がけで行動してきた者とは


そんな軽い存在ではない。


 彼の存在はあまりにも大きく


抜けた穴は誰も埋められないのだ。






 1898年(明治31)


今度はそれまで対立していた


進歩党と合同し、


憲政党を立ち上げた。




 この時退助は、


総理大臣就任を打診されている。


しかし、彼は


「それはワシの柄じゃない。」


と云って断っていた。






 何とも勿体ない話である。


政治家の誰もが目指す


総理大臣の地位を蹴るなんて。




 しかし退助にとって


そんな名誉の地位に興味はない。




 自分の主義を通すための立場を確保し、


道具として利用する。


 何としても彼らを守る。


 その目的を果たすために


またしても内務大臣に就任。


弾圧阻止に執念を燃やした。




 この時の内閣を有名な


『隈板内閣』(わいはんないかく)と呼ぶ。




 日本初の政党内閣であった。




 (それまでの内閣は、表向き政党を装うが


藩閥組織の域を出ていない。)




 しかし、所詮水と油。


国権派が牛耳る旧進歩党と


旧自由党は内紛に明け暮れ、


たった4か月で崩壊、総辞職した。




 そして1900年(明治33)


立憲政友会設立を見届け、


退助は政界を引退する。




 引退後は機関紙を発行したり、


華族の世襲禁止の活動に従事するなど、


最後まで自由と平等と人権の確立のため


戦い続けた。






そして1919年(大正8)7月16日


肺炎のため薨去。


享年83(満82歳)であった。






 ここであるエピソードを。




 退助は一切の財産を投げ打ち、


自由民権のために供じたため


次第に追い詰められ生活苦に陥る。




 1911年(明治44)


維新の功により拝領した


備前長船盛重の名刀を


人を介して密かに売ろうとした。


「これはどこで手に入れたのか?」


とその刀を持ち込んだ人に問うと、


最初はためらったものの


その者は、


「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、


『買い取ってもらうように』


と頼まれて持参した」と打ち明けた。


  驚いた杉山茂丸は、


「この刀は伯が維新の際にその功により、


拝領したものだと聞いているが…」


と嘆息する。




 この後、


「板垣ほどの者が


これほど困窮しているのだから」


と山縣有朋に説いて、天皇や元老から


救援金が出るようはからった。






何処までも頑固で決して信念を曲げない男。


 弱い者に慈愛の心をみせ、


強い者を決して恐れない。


(ただし、女性には弱かったが。)




 生涯、この国に自由と平等と人権を


確立させるため、戦い続けた。












 国会議事堂中央広間には、


議会政治の功労者である板垣退助、


大隈重信、伊藤博文の銅像が鎮座する。




 だが、台座はその3つだけではない。












 銅像がおかれていない


台座がひとつ存在する。




 空席の台座。




 それは、退助や重信、博文の


志を継ぐ者のためにある。




 志を持ったあなたを待っているのだ。




 「こりゃ!〇〇!!」




 幼い頃、そうやって叱られまくったあなた。




 そして私。




 銅像を建てて貰うという


地位や名誉のためではなく、


自分の戦いに志と信念を持つ。


その生き様に誰もが共感する。




 そんなあなたの行動を待っている。




 空席の銅像には、


そうした願いが込められていると思う。










 最後に退助が受けた


『自由死すとも板垣死せず』


の風刺を、自分流にこう理解している。




 即ち、


『今、そして今後に於いて、


自由を圧殺する者が出てきても


ワシ(退助)が撒いた種により


意思を継いだ者が必ず現れる。


自由が何度死んでも、


必ず不屈の意思で復活させる。


ワシが死んでも


ワシの意思は死なん。』






 天国で先に逝った象二郎たちと、


あの世のお菊の店から見ています。








   おわり

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