五◇成人の眠り、目覚め
寺院の奥の寝所。司祭様に案内された部屋は一人に一部屋ずつ。
「次に会うときは大人だな」
フィズが明るく笑う。そうだね、と僕は返す。リィスとノーラとも、おやすみ、と言って手を振る。
寝所は窓の無い白い部屋。真ん中にベッドがひとつあるだけの、眠るためだけの部屋。壁に白の女神様の絵があって、女神様はベッドを見下ろすように見守るように飾られている。
僕はベッドに腰を下ろす。白いシーツにふかふかの布団。今日の一日を思い出す。白の女神様の話を聞き、いつもより長く深く祈りを捧げて、聖餐というごちそうをみんなで食べて。
同じ村の中なのに、この一日はまるで司祭様になったような日だった。今までの自分と違う変わった一日の過ごし方をした。
大人に変わる、というのもこういう変化なのかもしれない。ここで眠り、目が覚めたら僕は大人になる。
子供の僕から大人の僕に変わる。これまでの自分が変わる。
そのことに少し不安はあっても、成人の儀はこの村の大人たちみんながしてきたことのひとつ。
ベッドの上で横になる。このまま眠れば三日後にはギフトを賜る。眠りの夢の中で白の女神様に会えるのだろうか?
そんなことを考えていた。お腹いっぱいになり眠くなるかと思っていたけれど、目が冴える。食べ過ぎたのか胸焼けがする。
横になっていれば胸焼けが治まるかとそのまま休んでいたけれど、治まるどころか胸のむかつきが酷くなる。
「うぷ……」
なんだか吐き気を感じる。身を起こして治まるのを待っても、吐き気はどんどん酷くなる。腹の中から何か込み上げてくる。
珍しい料理を食べたから? あのごちそうを吐くなんてもったいない。だけど吐き気は酷くなるばかり。口の中に苦いものが込み上げてくる。
この部屋を汚すわけにはいかない。僕は片手で口を抑えて、慌てて寝所を出る。寺院の中のトイレへと走る。
ヨロヨロと走ってトイレの中へ、なんとか間に合って便器の中へと吐く。寺院の中を汚すのは避けられた。しゃがんでげえげえと吐く。えずいて涙が出る。なんでいきなりこんなに気持ち悪く?
少し治まったかと思えば、また込み上げて来る。聖餐で食べたものが全部、腹から出てしまったみたいだ。もったいない。ごちそうだからってがっつき過ぎたのだろうか?
「はぁ……、はぁ……」
口を拭って立つ。口の中が胃液で苦い。服の袖で涙を拭う。吐くだけ吐いたら気分の悪さは少し落ち着いた。
他のみんなは大丈夫だろうか? フィズは僕より食べてた筈だけれど。
トイレから出る。僕みたいにトイレに駆け込む人は他にいない。せっかくの聖餐を無駄にしたような気分は、用意してくれた司祭様に申し訳無いと、僕は罪悪感を感じていた。
寝所に戻る。他のみんなの部屋の扉は閉ざされていて、開いているのは僕の部屋だけ。
中に入ると司祭様がいた。
「おぉ、シール、どうしたのかね?」
「あの、司祭様、トイレに行っていました」
「そうか」
「司祭様はどうしてここに?」
「一部屋ずつ順に見ておるのだよ。慣れないベッドで寝つけないという子もいるのでな」
「そうですか」
「さ、シールもベッドに」
司祭様に促されてベッドに入る。
「子が眠りに入ったの見て、ランプを片付けるのも司祭の役割なのだよ」
白い髭を揺らして、司祭様は僕を安心させるように微笑んで、布団を僕にかけてくれる。
「枕が変わって眠れない、という子もいる。だが何も不安に感じることは無い。成人の眠りの間はワシがしっかり守っておるからの」
「司祭様は、毎年、そうしているんですか?」
「それが司祭の役目というもの。しかし、ワシも歳だからの。そろそろ大寺院から若い司祭に来て欲しいところだよ」
司祭様が手を伸ばす。僕の目を覆う。
「おやすみ、シール。よい眠りを」
「お休みなさい、司祭様」
司祭様が祈りの聖句を呟くと、ゆっくりと眠くなっていく。まぶたが下りて、暗闇の中へと落ちていく。
眠っているときに魂が旅をするというが、眠りの中のことは憶えていない。夢を見た憶えも無い。白の女神様の姿を見た記憶も無い。
三日という深い眠り、成人の眠り。
眠りの中で夢を見ることは無かったが、代わりに目が覚めてからは、悪夢が始まった。悪夢のような僕の現実が。
目覚めたとき、寝ぼけた頭で自分の身体をあちこち触る。特に何か変わった感じもしない。
思い返せば姉さんも兄さんも、成人の儀の前も後も、見た目に変わるところは無かった。
ベッドを下りると足がふらついた。すごくお腹が減っている。成人の眠りは時間の経過もあやふやで、目が覚めたときは一晩眠っていたのと変わりはしなかった。本当に三日も眠っていたのだろうか。
部屋の扉を開けて廊下に出ると、隣の部屋の扉が開く。フィズが出てくる。
「おう、おはようシール」
「おはようフィズ。どんな感じ?」
「腹減ったな」
リィスにノーラも部屋から出てくる。おはよう、と挨拶を交わす。廊下の向こうから司祭様が来る。
「おはよう、今日から新たな大人となる者よ」
司祭様がいつものように柔らかく微笑んで言う。
「お腹が空いたろう。食事の用意ができているよ」
司祭様の後に続いて食堂へ。温かなシチューがある。
「ゆっくり食べなさい。三日と断食していたようなものだから、急いで食べるとお腹が驚く」
リィスがスプーンを手に司祭様に尋ねる。
「司祭様、わたしはどんなギフトを賜れたんですか?」
「朝食を終えたら白の女神様に聞いてみよう」
どんなギフトか早く知りたい。けれど急いで食べてはいけないと司祭様は言う。温かなシチューをふうふうと息をかけて冷ましながら口に運ぶ。
慌てたフィズが、あちっ、と言って水を飲む。
朝食のシチューを終えて白の女神様の祭壇へと。見下ろす白の女神様の像の前、祭壇の上に白い水晶玉がある。人の頭くらいある大きな水晶玉だ。
司祭様が白の女神様の像に祈りを捧げて、僕たちも手を組んで祈る。
「では、誰から見ようかね?」
司祭様が言うとフィズが勢いよく手を上げる。
「じゃ、俺一番!」
「では、フィズ、両手をこの白球にあてなさい」
司祭様とフィズが白い水晶玉を挟むようにして、フィズがおそるおそると手を伸ばす。フィズが手を触れ、司祭様が反対側から手を伸ばし聖句を唱える。
「お、おお?」
フィズが驚いた声を出す。白い水晶玉からは柔らかな光が溢れ出す。司祭様は目を細めて光る水晶玉の中を見ている。
「フィズは白の女神様の加護を得て、耳が良くなり足が速くなった。フィズが賜ったギフトは、猟師の才能だよ」
「えー、猟師?」
「剣士では無くて残念かもしれないが、猟師もまたこの村に必要なのだよフィズ。それに猟師とは身体が丈夫で素早く動けて、森の知識に獣の知識が無ければ務まらない」
「まぁ、うん、畑をするより猟師の方が俺に向いてるかもしれないけど」
「猟師のデルンも歳だからね。フィズはデルンの後継者として、これからはデルンを師として猟師の技を学ぶのだよ」
剣士になりたい、と言ってたフィズが猟師に。フィズは落ち込むかと思ったけれど、意外とすっきりとした顔で司祭様に応える。
「わかった。じゃなくて、わかりました。俺はデルンみたいな猟師になります。それに腕のいい猟師になれば、うまい肉が食えるってことだし」
「その通りだよフィズ。そして村の者にもうまい肉を分けておくれ」
次はリィス。魔術師になりたいと言っていたリィスのギフトは。
「リィスは、指先が器用になり鼻が効くようになって、賜ったギフトは料理に農業だね」
「お母さんとおんなじだ」
「そうだね。ん? もうひとつあるようだ。これは織物、裁縫か」
「織物?」
「リィスはオード婆さんから布の織り方を教えてもらいなさい。家族と畑をしながら天気の悪い日には服を作るのだよ。リィスがどんな服を作るか楽しみだね」
「はい、司祭様。わたしがんばります」
リィスは魔術師にはなれなかったけれど、服を作るということにやる気が出たみたいだ。
次は、学者になっていろんな本を読みたいと言っていたノーラ。
「ノーラは、少し目が良くなって、……おぉ、ノーラには治癒術の才能が賜れた」
「え……」
ノーラが驚いて目を見開く。
「私が、治癒術師に?」
「そうだよ。ふむ、ノーラは明日からこの寺院に通いなさい。ワシが治癒術の基礎をノーラに伝えよう。村の者が病や怪我で苦しむときは、ノーラが癒してあげなさい」
「は、はい、司祭様」
呆然としているノーラに、フィズがすげえじゃんノーラ、と言い、リィスは、ノーラが治癒術師、すてき、と祝福する。僕もノーラにおめでとうと言う。
「ノーラ、これで寺院にある貴重な本も見せて貰えるんじゃない?」
「そうかも、あぁ、女神様、ありがとうございます」
「俺が怪我したときも頼むぜ」
「うん、フィズ、私、治癒術師がんばる」
いよいよ僕の番だ。僕は女神様からどんなギフトを賜るのだろう? ワクワクしながら白い水晶玉に向かう。両手の平を水晶玉にあてる。
「……む?」
司祭様が訝しげな声を出す。みんなが水晶玉に触れるとしばらくしてから、水晶玉の中から滲むように白い光が現れた。
だけど、僕が触れても白い水晶玉はシンとしたまま、白い光が出て来ない。
「シール、女神様に祈りを」
「はい、司祭様」
司祭様と一緒に聖句を唱える。白の女神様、僕のギフトはなんですか? 剣士ですか? 魔術師ですか? それとも旅の薬師ですか?
僕の祈りに応える声は何も無く、白い水晶玉に何も変化は無く。そのまま時間が過ぎていく。
何かおかしい。僕だけがフィズともリィスともノーラとも違う。なんだか薄ら寒い、嫌な予感がしてくる。
沈黙した司祭様が眉間に皺を寄せた険しい顔をする。
「シールは、女神様のギフトを、賜れなかったようだ」
司祭様の言ったことが、よくわからなかった。女神様のギフトを賜れ無かった。少しずつ理解したくない言葉の意味が解ると、グラリと世界が傾いたような目眩を感じた。
「加護無し……」
静かな寺院の中で、ノーラの小さな呟きがはっきりと聞こえた。加護無し。
フィズが慌てた顔をする。
「加護無し、だって? シールが?」
「うそ? シールが罪の子?」
「でも、女神様のギフトを得られないのは、罪を犯した子だけって」
「加護無しなんて、この村に出たこと無かったろ? シール、お前何をしたんだ?」
何をした?って、僕が何かした憶えは無い。白の女神様に罰を受けるような罪を犯した憶えは無い。
なのに僕が加護無し、だなんて。僕がギフトを得られない罪の子。そんな、僕が何をしたっていうんだ? 白の女神様、僕が罰を受けるようなどんな罪を犯したというのですか?
白い水晶玉に手をあてて必死に祈る。女神様、白の女神様、どうか僕にギフトを。僕に罪があるんですか? あるなら教えて下さい。悔い改めます。謝ります。だから、どうか僕に加護を与えて下さい。
だけど僕の祈りも空しく、白い水晶玉が光を放つことは無い。
司祭様がフィズとリィスとノーラに言う。
「三人とも、これで成人の儀は終わりだよ。寺院の外に家族が迎えに来ているだろう。無事に加護を得られたことを伝えに行こう」
フィズもリィスもノーラも僕を見ている。その目はこれまで僕が見たことも無いような、冷たい目だった。まるで人殺しの罪人を見るような嫌悪の目。
司祭様は三人を促して祭壇から離れていく。
「シールはここで待っていなさい。すぐに戻る」
司祭様が三人を連れていく。寺院の前に迎えに来た三人の家族のところへと。
僕も兄さんが成人の儀を終えるとき、父さんと母さんと迎えに行った憶えがある。あのとき、兄さんは司祭様と一緒に誇らしげな顔をして寺院から出てきた。
フィズも、リィスも、ノーラも、きっとそうなんだろう。これから家族にどんなギフトを賜ったか、自分がどんな大人になるか、自慢気に語るのだろう。
僕だけが、そうなれない。村の大人になれない。
悪い子は女神様の加護を得られず大人になれない。村の大人はそう言う。だけどギフトを得られなかった大人なんて村にはいない。噂話で聞くことがあるだけだ。
女神様に見離された罪の子。大人になれない罪悪の子。どうして僕が?
「女神様、白の女神様……」
両手を水晶に当てて祈る。聖句を唱えて必死に祈る。だけど何も起きはしない。白い水晶玉には涙を浮かべる僕の顔が映っているだけ。
「どうして? 女神様……」
女神像を見上げる。石で作られた白の女神様の像は、優しく微笑む顔を変えることもなく、何も言わずに僕を見下ろしているだけだった。
ギフトを賜れ無いまま、未来が砂のように崩れて消える、寒い絶望を感じて身体の震えが止まらなかった。