エピローグ
手に握ったペンを離す。固まった首を回すとクキリと音が鳴る。ふう、とひとつ息を吐く。
紙に書き綴った僕の記憶、僕の思い出を読み返す。
毒の魔女、アダーとの出会いからの一連のこと。狂乱の混迷の真実。
あの頃を振り返りながらようやく書き終えた。ようやくあの頃のことが冷静に思い返せるようになった。書くことで少し整理ができた。
あれから10年過ぎた。僕は23歳になった。
今でもあのときのこと、アダーが魔獣の正体を見せた狂気の森を夢に見て、夜中に叫んで起きることがある。だが、その回数は少なくなってきた。
あの小国の王宮の地下を見た後、僕はローフィンド師に教えを求めた。いろいろなことを知るために。特に古代魔術文明に纏わることを。
世界の裏側にあった真実を知ったことで、知らないことがあることに恐ろしくなった。
貪欲に様々なことを学んだ。ローフィンド師から得た知識は多岐に渡る。僕は知ることで恐怖から逃れようと、必死になって学んだ。
今では僕は大賢者の直弟子として、賢者ローフィンドの後継者として、アブストラ王国で一目置かれるようになった。
それは僕が知識を得て、アブストラ王国の大賢者の役に立つことで、子供たちを少しは助けられるから、というのもあった。
自分だけが無事だったことに、自分だけが助かったことに、罪悪感のようなものを感じてもいた。
あの小国は今では三分の二がアブストラ王国の領土となり、残りの三分の一は別の隣国の領土となっている。
虫の話、僕の話を信じたローフィンド師がアブストラ王国の王に進言した。アブストラ王国は調査隊に軍隊を派遣した。これで他の国が謎の奇病を怖れて様子を見る中で、先んじて領土拡張に成功した。
結果としてアブストラ王国の利となった。僕がローフィンド師に話したことが切っ掛けで。
そのことで流石は大賢者ローフィンド、未知の病さえ見極める王の知恵、と師の名声も上がった。
あの小国で生き残った子供たちは、あの地で暮らしている。アブストラ王国の支援により全滅は免れた。
当時12歳以下の子供ばかり。親を無くし、大人のいなくなった小国。誰もが飢えに痩せ細り、餓死した子供も多かった。アブストラ王国が手を出さなかったら、どれだけ生き残れたのだろうか。
アブストラ王国から派遣された人が子供たちに農業と、林業と、鉱山での採掘などを教えた。アブストラ王国に奴隷制度は無いが、今後は安い賃金で働かせる労働力、という扱いになる。
あの狂乱の混迷を生き延びた子供たちが、これからも生きる為には他に方法は無かった。
あのときのアブストラ王国でも賛否両論あった。僕のいたあの国とはかつて戦争をした歴史があり、あの小国の住人に良い感情が無い者もいた。
支援することでアブストラ国の財政を削ることになる。王国の利にならない。という反対意見に対し、長い目で見ればあの地の子供たちを現地の労働力にもできる。その結果に未来に利を得ることができるとして、アブストラ王国は支援を始めた。
議会がそうなるように仕向けてくれたローフィンド師には感謝するばかりだ。
僕はローフィンド師から様々なことを教えてもらった。家族のいないローフィンド師は僕を孫のように扱ってくれた。
僕を救い、僕の話を信じて、子供たちを助けてくれたローフィンド師になんとか恩を返せないか。そう考えてローフィンド師に仕えている。
今ではようやく、ローフィンド師の研究や仕事の補佐をそれなりにできるようになってきた。
師に一度、訊ねてみたことがある。どうして僕を助けてくれたのか。どうして子供たちを助けてくれたのか。
「どうして、か。私は興味があったのだよ、シール君の会った、毒の魔女に」
「アダーに、ですか?」
「そのアダーは古代魔術文明について、何か知っている。毒の魔女そのものが古代魔術文明の遺産と関係がある。遥かな過去、栄華を極めし魔術師の文明。それが消えた謎。各地に残る遺跡が、かの古代を微かに伝えている。その秘密を知りたいと思うのは学者ならば解るだろう?」
「そうですね。今の魔術とは違う、今よりも優れた筈の文明が何故、滅びたのか。謎ばかりが多く、知れば知るほどに謎が深まります」
「それを知っているのが、かの毒の魔女。直に会い話を聞いたシール君は、貴重な情報源だ」
ローフィンド師はゆっくりと僕が淹れたお茶を飲む。師の好みの茶葉に淹れ方も僕は憶えてきた。
「それにあの時は謎の奇病への対処が最優先だった。シール君が虫の話を教えてくれたおかげで、我が国の混乱も小さく済んだ。アブストラ国の民には伝染しない奇病と解ったのだから」
「ローフィンド師のお役に立てていたなら光栄です」
「子供を助けるのは、まあ、助けられる者を見殺しにするのは気分の悪いことだからね。我が国の利にも繋がる落とし所があったのが幸いだよ」
ローフィンド師は僕にもお茶を勧めて、僕は自分の為の一杯とローフィンド師のお代わりを淹れる。
「それにシール君に見所がある、と言ったのは本音だよ」
「ありがとうございます、ローフィンド師」
「どうだろう? シール君、そろそろ結婚などしては?」
「結婚ですか? 僕はまだ知らねばならないことがあり、ローフィンド師の補佐をせねばなりませんから。結婚はまだする気はありません」
「シール君も23歳だ、機を逃すと私のようになるよ」
「構いません。生涯を知の探求とアブストラ王国に尽くすつもりです」
「それに君に気がある御令嬢も幾人かいる。子供たちの支援の為に尽力するシール君が、優しく気高い、と」
「それは、寄付を募るのに、子供への同情を使うしか思いつかず、そういう話し方になってしまっただけです」
「それでも行いは行いだろう。私はシール君が子を作るべきではないか、と考える」
どうして僕が結婚して子作りを? 疑問に思うとローフィンド師は真面目な顔をする。
「毒の魔女はシール君を、希望、と言ったのだろう?」
「はい、そう、言っていました」
ローフィンド師には全て話した。何があったのかを。アダーのことを。毒の魔女のことを知りたがる師に、憶えていることは全部話した。
「それが何か?」
「そのとき、毒の魔女がなんと言ったか、憶えているかね?」
「あのとき、アダーが言ったのは……」
僕は憶えている。アダーの言ったことを。狂気の森の一部始終を忘れられたことは無い。頭の奥にこびりついたように。
アダーのいつもの無表情の顔が、少しだけ泣きそうに見えた、あの狂気の森で。
「『シールの身体にはあの寄生虫に対する力が育っている。あの村で寄生虫に犯された人間の身体の、抵抗への進化。それがシールの身体に宿る力だ』と」
「うむ、そして毒の魔女はシール君を希望と呼び、生かそうとした。助かることを期待して隣国まで運んだ。これは私の想像になるが」
ローフィンド師が手を組む。僕をじっと見る。
「シール君の身体が虫を拒絶した。そのことを毒の魔女は希望と呼んだ。
あの小国が民衆の支配の為に虫を使い、大人になれば頭に虫を住まわせる。
だが、頭に異形の虫を住まわせても、人の身体はその虫に対抗しようとした。
異物を身体から排除する力を高めて、代を重ねながら、虫から己を取り戻そうとした。それを毒の魔女は抵抗への進化、と呼んだ。その力の結実が、シール君の身体にある」
僕の身体は虫の卵を吐き出した。僕だけがギフトを得られず、それは僕の身体が虫を拒んだからだ。
アダーは言った、僕は希望だと。
ローフィンド師が話を続ける。
「代を重ねて育てた力ならば、虫を拒絶するその力は、シール君の子も身に付けることができるのではないだろうか。受け継ぐことが可能ならば、シール君の子孫には虫を拒絶する力が備わる可能性がある。毒の魔女がシール君を生かそうとしたのは、虫に対抗するシール君の力を人に広めようとしたのではないか、とな」
「それが可能だとしたら、僕の子孫はあの虫に寄生されることは無い、と? そしてその子孫が更に増えたなら、虫が寄生できない人間が増える、ということですか?」
「それならば毒の魔女がシール君を希望と呼んだことも解る。これは試したくも無いことだがね。なので私はシール君は結婚して、我が国に子孫を残してくれると良い、と思うのだよ」
僕が結婚する。僕が子供を作る。そして僕の力を受け継いだ、虫を拒絶する人が増える。
またあの虫を誰かが古代の遺跡から見つけて、支配に使えると利用しようとしても、虫が寄生できない人が増えたならば。
あの虫に支配されない、操れない人が増えたなら、それは希望と呼べるのかもしれない。
僕の身体にある力。それは虫に頭の中を好きにされても、その虫を排除しようという、人の身体の願いなのか?
不意に思い出した。幼い頃、おじいちゃんに頭を撫でられたことを。父さんが、母さんが、僕を抱きしめてくれたことを。その身体の温もりを。
代を重ね、虫を拒絶しようとした人の身体。成人の儀の前の、優しく暖かな家族。
おじいちゃんも、父さんも、母さんも、虫が頭の中に巣食っても、自覚が無くとも、意思を誘導されても、その身体は、人の身体は僕の知らないところであの虫と戦っていたのだろうか。
僕の身体にその力があるのは、人の身体が代を重ねて願ったからだろうか。虫に抗う為に。虫から人の尊厳を取り戻すために。
今は亡き家族から受け継いだ僕の身体。アダーが僕を生かした理由。
ローフィンド師は、自分の言ったことに気がついたように苦笑する。十年前より少しシワが増えた顔で。
「いや、こんな理由で結婚と子作りを薦めては、色恋の歌を讃える者には不愉快か」
「そう、ですね。貴族の御令嬢にはウケは悪そうです」
僕もつられて笑う。新たな家族のようになった師と共に。
ローフィンド師の補佐をするようになり、アブストラ王国の国王が、師と話をする場にも同席した。大賢者の弟子として。
国王は相談することがあると師を呼び、人払いをして師と話す。小さな部屋で国王と師と僕の三人だけで。
大賢者の知恵を借りるときもあるが、国王がローフィンド師と話をするときは、愚痴を溢すことも多い。ローフィンド師は国王の相談役であり、王が唯一、不満と底意を吐ける友人でもあった。
支配者の苦悩、王の重圧というのも少し理解した。善き王として立たねばならない、という王だからこそ悩み苦しむことがある。
国王の愚痴からあの虫が支配者にとって有用、というのも理解できた。けっして同意してはならない理解だが。
古代魔術文明でも同じ理由であの虫が産み出されたのだろう。民衆を誘導し管理するには役に立つ。
だが、それは人がしてはならぬ禁忌だ。
僕はまだまだ知らないことが多い。わからないことばかりだ。だから知らなければならない。この世にある未知の為に、人が狂わされないために。
あの狂乱の混迷を生き延びた者として、同じ災禍を繰り返さないために。
机の上の紙のインクが乾いた。持ち上げて目を通す。重ねて箱に入れる。
これは僕が見たアダーの記録。
毒の魔女と狂乱の混迷。
虫の女王と古代の遺産。
恐怖の半人半獣と狂気の森。
虫に頼って生きた愚者の王国の末路。
何も知らぬままに過ごした子供の日々。
隠された闇の喪失を、役目と口にした青爪の毒師。
あってはならない真実。
無かったことにされた事実。
存在してはいけない記録。
隠される不明の歴史のひとつ。
書き残すことは許されない。誰にも見せる訳にはいかない。
狂乱の混迷のあったあの地、小国の名前も、僕のいた村の名前も、忌まわしきものとされて伝えることは許されない。人の正気を奪い、ひとつの国を滅ぼした奇病として伝わる狂乱の混迷。
その影にあった虫の存在は隠蔽されなければならない。知って人が混乱することが無いように。知って利用しようとする者が現れないように。
誰にも知られてはならない、僕の過去だ。
それでも書き残したのは、覚悟を持って真実を知ろうとする者には、伝えなければならないから。
人に見られぬように机の中、二重の底になった仕掛けの引き出しの中へと仕舞う。
この世界には人に知られていない秘密がある。
人に知られてはならない真実がある。
知ることは毒と同じだ。新たな知識が過去の自分の観念を殺す。常識を殺す。
知らぬままに見ていた景色が裏返る。もはや過去のように見ることはできない。かつての自分に戻れはしない。
代わりに新たな叡知に目覚めた自分が生まれる。恐怖を知り、対処を憶えて、新たな解決を探る。
僕はもう一度、アダーに会う。会ってアダーの役目と目的を聞き出す。
それまで、僕はアダーを赦さない。
アダーを赦さないまま生きていく。
再びアダーと会うそのときに、毒の魔女の言葉を理解するために、僕は知識を求めて学ぶ。
毒に対処するには毒のことを知らなければならない。二度と知らないままに破滅に向かうことが無いように。
蝕まれたことに気付き対処するには、毒を持って毒を制すには。人の叡知で持って危険な古代の遺産を見極めねばならない。
無知なる平穏は狂気の破滅へと。
故に、滅びし古代の文明の遺産に妄想を抱く狂人と呼ばれても、人が人として生きる世界を守る為に。知識を求めて未知を解き明かす。
古代魔術文明、生物因子研究の実験体。
赤い髪、青い爪の毒の魔女。
静かな声と、僕に優しく触れた手の持ち主。
同じ古代の遺産という虫の女王を回収した半人半獣の魔獣。人が古代と同じ滅日を辿らぬようにと。
僕は知りたい。アダーの役目を、どうしてアダーがそんな役目を負わねばならないのかを。過去に何があったのかを。何故、僕に触れたのかを。
赤い髪の魔女から聞きたい。
古代の遺産を回収する毒の魔女。
彼女のことを知る為に。
古代の遺産を求める者は覚悟せよ。
毒の魔女が古き闇を落としに来る。
いつか再会するそのときの為に。
僕は知識という名の毒に触る。
蜘蛛の意吐 外伝
毒の魔女の旅路
読了感謝
スペシャルサンクス
毒の魔女
十二姉 アダーゲルダラムラーダ=ハオス
キャラクター原案 デザイン
K John・Smith様




