9話:長女、照子の成長
その後、1965年には日本におけるオーディオの幕明となった。当時のオーディオメーカーはサンスイ、ヤマハ、ダイアトーン「三菱」のスピーカー、トリオのチューナー、パイオニアのアンプ、テクニクス「パナソニック」、デンオン「日本コロンビア」から選び出した。もちろんソニーのオーディオ用テープデッキを購入したのは言うまでもない。
その頃、寺山照子は、父のオーディオセットで、モンキーズ、ビートルズ、サイモンとガーファンクル、サンタナなどの音楽を楽しんでいた。実家が多摩に先祖が古くから住んでいて広い土地を持っていて、東京まで近いと言うこともあり、次々とアパートやマンションを建てて、家賃で建築費を家賃収入で支払っていた。10年もすると建築費を回収し、黙っていても、家賃収入が入り、豊かな子供時代を過ごすことができた。
寺山照子も幼い頃から、お金に不自由することもなく、オモチャも可愛い人形、自転車を買ってもらい、自然豊かな土地で、育った。父の聞いていた洋楽も大好きで、ビートルズの曲を自然と覚えて口ずさむ用意なり、英語も好きになった。そして英語はFENを聞き、近所の教会の無料英会話教室に参加し勉強した。更に、父の影響か理系が得意だった。
そのため立川の中学での成績もトップクラスで、何の迷いもなく、1968年立川高校に合格した。寺山照子が、高校生になると、中央線に乗って、池袋に出かけ、銀座、日本橋、新宿、渋谷に行く日が増えて、都会への憧れが増していった。英語と数学、科学に特に興味があり、この頃、既に、父が株投資をしており興味を持った。やがて、高校3年生になり、目標を一橋大学か、中央大学経済学部をめざした。
1971年受験で一橋大学と中央大学経済学部に合格し、一橋大学に入学し、家から通学した。大学に行くと同好会や運動部の募集があり投資研究会で夕食をおごるというので、ついていき、1年生6人がいたが、最終的に2人が投資研究会が入会し、全学年で6人となった。投資研究会の顔ぶれは、サークルの部長の3年生の早乙女淳と副部長の池田雅人、岩居秀和、会計の志賀博文さんの合計4人だった。
そこに、新入生として、金子鈴子と寺山照子が加入した。照子は計算係で銘柄選びには余り興味はなく確率の高いと思った時以外は、売買する気は、なかった。やがて1970年12月、岩居が父に200万円借りて、伊藤忠商事株を71円で25000株を177.5万円で買い残金が22.5万円となった。寺山照子が1972年10月、20歳になり、N証券に口座を開いた。
そして投資資金として、子供時から貯めた30万円を振り込んだ。そしてコンパの日程と場所探しをかってでた。1973年3月、岩居が伊藤忠商事株を全部、620円で売り、税引き後1207万円となり、残金合計が1230万円となった。1972年12月13日、昼過ぎに、銀座のレストランへ行った。そこで昼食を食べた。その後13時、近くのカラオケへ行き、5人部屋に入った。
そこで株の話を始めた。しかし、実際に株を売買した人はいなかった。夜22時に会合を終えて各自が帰って行った。その後、4年生は2人は就職活動で忙しくなり、顔を見せなくなった。そのため株投資サークル全員で総勢5人で活動し1974年となった。その会合で、これから成長する産業として電気、電子、通信が取り上げられた。寺山先輩が寺山照子に、そっと大手商社に入社したいと言った。




