2話:テープレコーダー普及とトランジスタ
東京通信工業は金のない会社だが、上層部がこれには理解があり喜んで何十台も貸し出した。入社したばかりの、父・寺山久夫は、H型テープレコーダーを教育現場に普及させるために、日本全国を学校や裕福な家庭を訪問して歩いた。ある日、東京通信工業の森田社長が、はおかしなことに気が付いた。九州地区に限ってテープレコーダーがよく売れるのだ。
そのため、詳しく調べてみると、九州は炭鉱ブームで非常に景気が良く、そのため九州全域で金回りが大変良かったということが分かった。これはありがたいことではあったが、それが突然バッタリと売れなくなってしまった。国内炭の需要が減って経済状態が悪くなってきたのだ。その後、真空管ラジオ製作用キットが1960年代に入ると4000円程度で手に入った。
その後、東京通信工業の井深先輩がアメリカに渡り、テープレコーダーの次の商品を何にするか、情報収集の旅に出た。そんなある日、井深にアメリカの友人が訪ねてきて、「今度、ウエスタン・エレクトリック社がトランジスタの特許を望む会社にその特許を公開しても良いと言っているが、興味はないか」という話をした。
トランジスタは、1948年、ベル研究所の研究者のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3人によって発明された。このトランジスタ製造特許を、ベル研究所の親会社であるウエスタン・エレクトリック社が持っている。特許使用料を支払えば、その特許を公開してくれるという情報だった。ところで、その頃、井深は、アメリカに来て以来、忙しい毎日を過ごしているにもかかわらず眠れない夜が続いた。
そんな折、いつも井深が思うのは遠く日本にいる仲間たちや、会社の事であった。東京通信工業はその頃、テープの製造をするためにいろいろな分野から人を集めてきたため、社員数が急激に増えた。テープの仕事に一応目鼻が立った今、何とかしてこれらの人たちを有効に生かすことはできないか、興味を持って活躍できる仕事はないものか……井深が考えるのは、いつもそのことだ。
突然ひらめきがあった。「トランジスタをやってみよう。これには、技術屋がたくさんいるに違いない。研究者も必要になるだろう。それに、あの連中も新しいことに首を突っ込むのが大好きだ。これは打って付けじゃないか」。しかし、特許料が2万5000ドル「約900万円」というのも、東通工にとっては、大き過ぎる金額である。
しかし、今や、やってみるだけのことはありそうだという気持ちのほうが強くなってきていた。トランジスタも発明されてから4年が経ち、当初、井深が考えていたような鉱石検波器とは違うということも分かっていたし、何よりもトランジスタ自体も初期の点接触型から接合型へと進歩を見せていた。さっそく、山田に頼み込んだ。「トランジスタの話を、よく聞いて帰りたいんだ」。
山田は、ウエスタン・エレクトリック社の特許を担当しているマネージャーに会えるようにと、何度もコンタクトを取ってくれた。しかし、なかなか面会の約束が取れない。心残りではあったが、事後のことを山田に託し、井深は帰国の途に就いた。さて、この時の井深のアメリカ土産は、ゲルマニウム・ダイオードと、当時日本にはまだなかった、ビニールのテーブルクロスであった。