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1話:父が、東工大からソニーへ入社1

 父・寺山久夫は、中学卒業と、東京の名門高校、立川高校に入学して、一生懸命に勉強して。成績は常に、クラストッププラスであった。そして、寺山家は、多摩でも旧名主の親戚筋で大きな敷地の農家に住み3百坪を超える広い敷地に4軒の大きな家と離れ、倉庫、納屋がある。 寺山照子の父、寺山久夫は小さい頃から、メカ好きで、高校は立川高校に入りバイクで通い始めた。


 数学、科学の成績は常にトップで、ついに、1947年東京工業大学の電子工学科を受験して、見事合格した。その後、大岡山の近くの学生アパートを探した。そのアパートから、大学へ、徒歩で通った。太平洋戦争が終了して、食糧難の時代だったが、多摩郊外の農家から、何とか、飢えをしのぐだけの食料を手にいれて、友人と共に学生アパートで食いつないで、勉強に励んだ。


 卒業後は、大崎の東京通信工業「ソニーの前身」に1951年入社した。ちょうど、その頃、東京通信工業では、テープレコーダーの試作を始めた。そんな折、NHKにテープレコーダーがあると聞きつけ、木原先輩が、さっそく見に行った。「はあー、機械はこんなものか」。木原先輩には、一目見てすぐにテープレコーダーの何たるかが分かった。


 機械の設計図は、NHKから帰って一晩徹夜し書き上げた。その後、工作の人たちに手伝ってもらって機械本体を1週間で試作機を作り上げた。しかし使用しているゴムの伸び縮みや電源の電圧が不安定で、テープスピードが変わったりして、苦労の連続だった。一番最初に木原先輩が作った試作機は、アメリカで既にに実用化されていた、「マグネコーダー」から原型を取った縦型のテープレコーダーであった。


 そんな苦労が実を結び、1950年4月。発売されるテープレコーダーG型として発売した。1台12万円で、徳川家の関係者である倉橋さんに、50台、600万円で購入してもらった。しかし、G型は、大きく、重い製品で、販売価格も高いので、もっと安価な普及型を作れとの指令がでた。その結果、1951年3月、完成が待たれた普及型の1号機、H型は1951年3月に発売の運びとなった。


 それでも、普及型テープレコーダーI型重さ13kg、木製のトランク型のケースに入っている、なかなかしゃれたデザインだ。それもそのはず、このH型、東京通信工業「としては初めて、社外の工業デザイナーに依頼した作品である。H型の完成により、学校への需要が増していった。これには、倉橋たちのテープレコーダーの使い方の普及・啓蒙活動の努力が実を結んだ。


 その頃、日本では進駐軍の政策の一環として、オーディオ・ビジュアル・エデュケーションということが盛んに言われるようになっていた。オーディオはNHKラジオの教育放送で、ビジュアルのほうは映写機を全国の教育施設に貸し出し、戦前の観念教育から視聴覚教育に切り替えようという試みだった。その波に東京通信工業も乗った。ラジオの放送は不特定多数の人を対象に、一定の時間流される。


 これ、音の缶詰にして学校のカリキュラムに合わせれば、本当の学校教育になる。ちょうどタイミングよく、全国で放送教育研究大会が開かれていた。これは文部省とNHKが中心になって、全国の先生方により良い学校放送の指導をしていこうという趣旨で開かれたもので、東京通信工業では、この大会にH型テープレコーダーを貸し出すことにした。

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