婚約者の行方②
ウォルト公爵邸は、蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
ジャックが言うには、メイド服を着た何者かが気を失ったアイシャを抱え上げ、大雨の中を止めてあった馬車に乗り込むところを、使用人の一人が見ていたらしい。後を追うためにすぐさま同志たちに連絡を取っている内に、連鎖的に他の者たちも起き出してきたという訳だ。
「見間違いではないのか? 撹乱させるためにアイシャの服を使った可能性がある。何より、あの魔法の鍵の部屋に、害意を持つ者が入れるはずがない。アイシャだって簡単に招き入れたりは――」
早足で歩きながら、私はアイシャの部屋を開ける。外から入ろうとしても、中にあるのは物置部屋だ。マックウォルト先生に言われてから、さすがに大掃除して埃やカビはなくなったものの、やはり薄暗くてひんやりしている。一度閉めると、やや乱暴にドアをノックする。
「アイシャ、私だ。起きているか?」
「わたくしも何度も呼びかけたのですが、何も反応がなく……もしも中で全員倒れて動けない状態だったらと思うと」
「滅多な事を言うな!」
疲れもあり、つい声を荒げたところに、リバージュ嬢子飼いのメイド、ドナが駆け込んでくる。
「旦那様、お帰りになられたのですか!? エルシィが、奥様が産気づいたと旦那様に伝えに行ったエルシィがまだ戻ってきてないんです!」
「何ですって!?」
私よりも先に反応したのは、マミーだ。聞けばエルシィを送り出したのは、マミーであるという。私が彼女とは会っていないと聞き、真っ青になっている。
「どういう事なの……だってそんな、本来ならとっくに」
「どうやらエルシィは、ルージュ侯爵家の敵対勢力から送り込まれたスパイだったようですな」
そこへ、ロバートが五人のメイドたちを伴って歩いてきた。こちらはアイシャが警戒すべきだと言っていた、ネメシス先代侯爵夫人の息がかかった者たちだ。
「……スパイとは?」
「リバージュお嬢様は、大奥様の影響から逃れるために、新たにメイドを公募し、自ら選定を行われたようです。しかし、詰めが甘かった。結果、大奥様と反目し合う者たちが、これ幸いと入り込む余地を与えてしまったのでしょう。
全く、このような面倒事になるのは分かり切っていたでしょう? 最初から堕ろしていれば、アイシャ様の命にまで係わるような事には」
「アイシャは死んでいない! まだ何も分からない内から、決め付けるな!!」
無表情で諭すロバートにカッとなって胸倉を掴み、周りのメイドたちを睨み付ける。ニヤニヤと愉快そうに様子を眺める者、青褪めた顔で涙ぐむ者……態度の違いで、どちらの勢力かはっきり表れている。
「こんな所で立ち話していても無駄だ、アイシャを助けなくては」
「どちらへ行かれるのです!? 外はどしゃ降りですよ!?」
「それでも、目撃者の証言だけでも集めなくては! こうしている間にも、アイシャは!」
ジャックに羽交い絞めにされ、抵抗するが、その腕が震えている事にはっとする。彼もクララの事が心配なのだ。
「今は闇雲に探し回っても、体力を無駄に消耗するだけです。情報収集ならば殿下も動かれているはずですから。まずは休まれて下さい。目の下の隈も酷いし、ろくに食事だって取っていなかったでしょう!? ここで倒れられたら、アイシャ様を助けるどころじゃありませんよ」
「……すまない」
自分の至らなさに悔しくて唇を噛みしめたが、それで事態が好転する訳でもない。私は体の力を抜いて項垂れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
雨は数日間降り続き、アイシャを連れ去った者が向かった方角が特定できたのは、半月後の事だった。郊外の森で、犯人の足取りをなぞるかのように、何人もの死体が転がっていたのだ。破損した馬車も何台か見つかり、どうやら銃撃戦が行われていた様子がうかがえる。
その中に、エルシィと思われるメイド服を着た遺体もあった。この大雨と森の中に放置された事で腐食が進み、半ば白骨化していたが、頭を撃ち抜かれて馬車から落ちたらしい事までは分かった。
その馬車に、アイシャが乗っていたのだろうか。
そして半月遅れの追跡は、衝撃の展開を迎える。谷を挟んでかけられた橋が落とされていたのだ。その向こうはフェイス公爵領に入るが、馬の持久力から考えて、一番近い場所にある村で聞き込みをしても、雨が降り始めてから立ち寄った者はいないとの事だった。
(だとすると……まさか)
私は殿下の許可を取り、護衛を伴って自ら谷底の調査に同行した。下の川は少し前まで水かさが増して危険だったと聞く。落下のダメージ自体は軽減されるかもしれないが、激流に飲まれれば命はない。
「馬の死体が発見されました!」
「馬車の破片らしき板切れもいくつか見つかっています!」
兵士たちの声に、嫌な予感が膨らんでいく。だいぶ下流まで歩いた場所に、それらは引き上げられていた。その中に、半月型に曲げられた金属が混ざっていた。
「これは、何でしょうね?」
「鍵穴が付いているだろう、きっと宝箱だよ」
「この大きさからすると、相当大きそうだが」
「人は、入れるだろうか?」
私の呟きに、きょとんとした兵士たちは顔を見合わせると苦笑いを返す。
「それは、さすがに……せいぜい頭を突っ込める程度でしょう」
それがどうかしたか、と言いたげな視線から逃れるように、私は緩やかになった川の流れを見つめていた。
アイシャは、魔法の鍵を使って逃げたのだろうか。遺体は見つかっていない、無事でいればいいのだが。
(……いや待て。運よく向こうの空間に逃れたとしても、帰る場所は鍵穴を使った『扉』のはずだ。馬車はドアも窓も何もかもバラバラになってしまった。じゃあ……アイシャはどうやってこちらに戻ってくるんだ? 大体、あそこはどこなんだ!?)
気付いた瞬間、血の気がサーッと引いた。どうやって屋敷に戻ったのかも定かではない。殿下に報告した時、眉根を寄せて「しばらく城に来なくていいから、養生しろ」と言われた記憶はあるが。
フラフラと階段を上り、使用人の薄っぺらい慰めの言葉を聞き流しながら部屋に戻ろうとしたその時。
「旦那様! 旦那様、これを!!」
マミーが同じ階の客室から大慌てで持ってきた革表紙の本を、私に手渡してきた。そこでその客室は、最初に案内させたアイシャの部屋だった事を思い出す。
「これは……?」
「奥様の日記帳でございます。一階の物置の場所に移る際、持ち運べないからと鏡台などはそのまま置いて行かれたのですが、先ほど本棚を整理していましたら、これが……てっきり他と同じ百科事典の類かと思ったのですが」
確認するために、読んだのか。言われてみれば、ぱっと見は事典と同じ革を貼り付けてあるが、所々細かい箇所は素人っぽさが出ている。どうやらアイシャは他人に読まれるのを防ぐために、こうした細工を施したようだ。それなら鍵でも付けておけばいいとも思うが、彼女がここに来た当初に乗り込んできた妹の剣幕を思うと、対策をすればするほど執着して壊されそうだ。
「もう、それを読んでわたくしは、あの方が不憫で不憫で……今回の事態も、どこかでわたくしたちは止められたのではないかと思うと、無念でならないのです」
マミーはわっと泣き出すと、エプロンで鼻をかんだ。私への伝令にエルシィを指名してしまった事を、彼女はあれからずっと悔やんでいる。
そのエルシィだが、私はアイシャに危害を加える目的ではなかったのではないかと予想していた。何故なら、魔法の鍵の部屋に入室できたからだ。リバージュ嬢のメイドという事でアイシャから信頼を得ているだけではなく、あの鍵は赤ん坊にとっての敵を見間違えない。少なくとも、命を奪うために攫ったのではないのだろう。結果としてはエルシィは死亡し、アイシャたちは生死不明なのだが。
最初のページを捲ると、そこにはこの日記帳が、アイシャ十歳の誕生日プレゼントとして母親から贈られたものである事が書かれていた。その時からずっと続けているとすれば、この分厚さはあり得ないのだが、それこそが魔法である事の証なのだろう。
部屋に戻り、パラパラと流し読みをしていく内に、だんだん眉間に皺が寄っていくのが分かる。まだ我々が出会った辺りにまでは辿り着けていないのだが、アイシャの家庭環境、そして現在の彼女を作り上げた状況が、そこにはあった。たまに見せる、不可解な言動の謎も。
それは、アイシャの深い深い闇だった――
バサリと、日記帳が床に落ちた。遅れてポタポタと水滴が降り、革表紙を濡らす。決して同情した訳じゃない、ただ無性にアイシャに会いたくて、抱きしめたくて、それが叶わない事に絶望したのだ。
「アイシャ……アイシャ……! ぁあああああああッ!!」
湧き上がってくる感情に、叫ぶしか術がなかった。幸せにすると、今度こそ守ると誓ったのに。自分は何も彼女の事を分かっていなかった。分かろうともしなかった。
それをアイシャ自身もよく理解していたのだろう。彼女の望みは、いつだって胎の子に関する事ばかりだった。自分はどうなっても、子供だけはと。
その姿は、生まれてすぐに処刑台に上ったはずの母を思い出させた。
私はまた自分のせいで、無力なせいで、大切な存在を失ってしまったのだ。
※2月中はアルファポリスの小説大賞に集中したいので、また期間が空きます。




