悪役令嬢、らしい
「はあ……悪役令嬢、ですか」
ベアトリス様の告白に、思わず間抜けな声が出てしまう。
悪役令嬢と言うのは、小説等(主に恋愛もの)で悪役のポジションにいる令嬢の事だ。敵と言う形で主人公の恋を成就に導く、作者としては使い勝手の良い駒とも言える。
確かサラもその手の小説が大好きだった。ちなみに私は、そんな軽い読み物などは全てサラの部屋に持って行かれてしまうので、図書館で読み切る事にしている。家にあるのは専らお堅い書物ばかりである。
さて、ベアトリス様はそんな悪役令嬢らしいのだが。
「だとすればベアトリス様は、誰を主人公にした物語の悪役なのでしょう?」
どうやら誰かにそうだと言われたから悩んでいたようではあるが。
「貴女も見ていたのでしょうけれど、先程わたくしの次に殿下と踊っていた方よ。スティリアム王立学園の特待生、リリオルザ=ヴァリーさんと言うのだけれど」
特待生……とすると、庶民の出なのか。確かに大きな瞳がくりくりしていてかなり可愛らしい子だった。美しさはベアトリス様の比ではないが、そもそもタイプが違うのでどちらの方が上とも言えない。単に好みの問題だろう。
「そのリリオルザ嬢が、ベアトリス様を悪役令嬢だと言ったのですか? 彼女はその、現実と虚構の区別がつかない残念なお嬢さんなのですか」
現実には「悪役」なんてものは存在しない。虚構の舞台において、明確な主役が決まっている時にのみ「悪役」は成立する。と言うか、殿下の婚約者であり侯爵令嬢のベアトリス様を悪役令嬢など、庶民が口にするのは無礼極まりない。
「いえ、わたくしを悪役令嬢と呼んでいたのは殿下で……
学園に入学してからリリオルザ嬢と知り合い、身分を越えたお付き合いをされていたと噂があったもので、良くない評判が立ってはと釘を刺したのです。王家の者としてあまり感心できない振る舞いはお控え下さいと。
そうしたら、殿下はおっしゃったわ。
『さすがは悪役令嬢だな。俺とリリーの仲に嫉妬するとは』
と……もしかしたら、リリオルザ嬢の影響もあるのかもしれませんけれど」
なんと、現実と虚構の区別がついていないのは、まさかのカーク殿下だった。ベアトリス様の予想通り、男性である殿下よりも、どちらかと言えばロマンス小説の好きそうなリリオルザ嬢由来の発想なのだろう。
「そんなとんでもない事になっていただなんて、ちっとも知りませんでしたわ。お恥ずかしながら、人の噂にはあまり頓着しない性質でして……
それにしても、自分の婚約者を悪役などと、殿下は何をお考えなのかしら」
「さあ……もしもこれがリリオルザ嬢を主役にした物語であるならば、わたくしは彼女を虐め抜き、卒業式のタイミングで婚約破棄。晴れて殿下は彼女を新たな婚約者に……なんて筋書きになるのかしら」
いやいやいや、そんな事をすればカーク殿下は王太子候補から引き摺り下ろされますよ。ルーカスじゃあるまいし、そこまで色ボケではないと信じたい。
…あら私ったら、ルーカスに婚約破棄された時に何ともないつもりだったけれど、実は彼の事色ボケだなんて思っていたのね。まあ仮にも婚約者だったのだし付き合いも浅くないから、恋愛とまではいかなくても思うところぐらいはあったのよね。
「ベアトリス様には、リリオルザ嬢を虐めた覚えが? それこそ、婚約を破棄されるに値するような」
「受け取り手によるから何とも言えないわ……殿下にも彼女にも、軽率な行動は慎むよう何度か進言しましたし。けれど、彼女の持ち物を破損させたり数に物を言わせて威圧すると言った類はしていませんわ。逆にわたくし以外の令嬢が企んでいた事があったのを出向いて止めさせたくらいですから」
ベアトリス様の卒のなさに、私は感嘆の息を漏らした。恋敵のために、何て健気な! 私なら自分の事で精一杯で、サラが虐められていても見て見ぬふりしかできないと言うのに。
「平気なのですか? 意中のお相手が別の女性と親しくなさっているのに」
そんなもの、とても悪役令嬢とは言えない。私がそう言うと、ベアトリス様がニヤッと悪戯っぽく(それがまた絵になる!)笑ってみせた。
「あら、カーク殿下はただの意中のお相手ではなくてよ。将来この国の王となる御方なのです。庶民の娘を囲い込む事もあるでしょう。
ならばわたくしは後宮をまとめ上げるリハーサルだと思って、殿下の分までしっかり守って差し上げるまでの事」
おお……さすがスケールが違う。確かに王ともなれば側妃が何人もいたりする。今まで愛妾を持ったお父様をどこか汚らわしく見ていたけれど、立場が違えばこのような事もザラなのだわ。…私とは悩みのレベルが違ったわね。
「さすが、ベアトリス様は大きい御方でいらっしゃる。私ではとてもお力になれそうにありません」
「いいえ、話を聞いて頂けただけで、気が楽になりました。わたくしにもプライドがございますから、そう易々と悪役令嬢にはならないつもりですわ」
私の手を握り、にっこり微笑むベアトリス様。透き通るような白い容貌に、体がポカポカしてくる。ああ、こんな素敵な方を悪役令嬢だなんて、殿下は本当に愚かだわ。面と向かっては言わないけれど。
「…ところで、何か妙な匂いが漂っておりませんこと? わたくし、先程から気分が優れないのです」
ハンカチで口を覆いながら、ベアトリス様は辺りをきょろきょろしていた。暗がりでよく見えなかったが、顔が白く見えていたのは実際には体調を崩したせいで青ざめているのかもしれない。私の方は、今まで全く自覚がなかった。強いて言えば、さっきよりも少し体温が上がっているくらいか。
「どうやら先程頂いたシャンパンのせいか、酔いで鼻が利かなくなっていたようです。匂いなら近くにたくさん花が咲いておりますので、それだと思うのですが」
話している間にも気分が悪そうにしていたベアトリス様は、髪留めを外して髪を下ろすなど楽になる工夫をされていたが、ついに立ち上がると私に言伝を頼む。
「これ以上この匂いに耐えられそうもありません。申し訳ありませんが、ここに連れが来た時には、わたくしは休憩所にいると伝えてもらえますか?」
「わ、分かりました。お大事に…」
ベアトリス様が戻ってしまうと、辺りは静寂に包まれる。酔いは醒めるどころかますます体が火照り、もしかするとずっと外にいたせいで風邪でも引いてしまったかもしれない。それなら鼻が利かないのも頷けるけれど、香り自体は感じているのだ。
私は近くの花を一本手折り、そっと嗅いでみる。
(……? 違う、この匂いじゃない)
さっきから感じているのは、この花よりもずっと甘く、頭がぼーっとして、夢の中にいるようなふわふわした気分にさせる匂いだ。ひょっとしたら私はずっと勘違いしていたのかもしれない。ふらふらするのも熱くなるのも、てっきりシャンパンを飲んだせいだと思い込んでいた。でもベアトリス様のご気分が悪くなるほどの……この香りのせいだとしたら。
私がベンチから立ち上がりかけた時、後ろでガサガサ繁みが鳴った。
誰かが来る。ベアトリス様のお連れの方だろうか。
振り向こうとした私は、いきなり後ろから抱きしめられた。
「待たせたね。私の美しい薔薇の君」