襲い来る悪意
廊下に出た私が見たものは、手前の階段の踊り場で倒れているクララの姿だった。
「クララッ!」
「こ…ないで、お嬢様っ!!」
痛みで呻きつつも絞り出された彼女の声に、踏み出そうとしていた足が止まる。
「油…が、塗られています。階段に…」
「え……」
言われて階段のふちを見ればてらてらと光り、そっと足を伸ばして滑らせればつるりと滑った。
ぞわっと背筋が凍る。
「クララ! おい、クララ大丈夫か!」
様子を見に来たジャックが一階から慌てて駆け上ろうとして同じく止められ、手摺りに掴まりながら踊り場まで辿り着く。
「畜生、誰だやったのは!? ションベンぶっかけてやる!!」
「……あんた、それしかできないの?」
苦笑しながらも助け起こされたクララは、無事だと示すために手を振った。
「平気なの、クララ…」
「背中と腰を打ちましたが、大した事はありません。
…でも、私でよかった」
彼女の笑顔が胸に刺さる。
…私の、せいなの?
その時、クスクス笑いと共に小声が耳に届いた。
「あーあ、あっちが転べばよかったのに」
「いい気味。調子乗ってるからよ」
「公爵様も、趣味が悪くなったわね。がっかり」
恐怖と怒りと悔しさがない交ぜになって視界が歪む。
どうしてここまでされないといけないの。
私だってできるなら来たくなかった、こんな家。
「うっせーよ、ドブス」
やたら通る声で、ジャックがぴしゃりと言い放った。
「な…何ですってぇ!?」
「下郎が、公爵様に気に入られてるからって偉そうにするんじゃないわよ」
「ジャ…ジャック!」
メイドが全員解雇された今、掃除をしているのは貴族出身の侍女たちだ。青くなって窘めるが、澄ました顔でクララの背中を擦っている。
「残念、俺を気に入ってくれているのはカーク殿下なんだよなあ。あんたらの次の就職先については、しっかり推薦させてもらうぜ」
そう言って侍女たちの顔を歪めさせると、片手でクララを抱き上げ、もう片方で手摺りに掴まりながら慎重に階段を上り部屋へ連れて行った。
クララを俯せに寝かせた私は背中のファスナーを下ろし、マックウォルト先生に貰った湿布を貼っていく。
「お、お嬢様…それはお嬢様が使う分です。わざわざ…」
「だってこれ、すごくよく効くんだもの。先生には次来られた時に追加を貰うわ。それより……」
入り口に立ってこちらを見ているジャックを睨み付ける。
「出て行って下さらない? クララの服をこれ以上寛げられないわ」
「あ、お構いなく。俺とクララの仲なんで」
「どんな仲よ……出て行かないって言うなら私、もう仕事に戻りますから」
無理して起き上がろうとするクララに、ジャックは溜息を吐き、何かあったら声をかけるよう言ってドアを閉めた。
「……正直、あそこまでするとは予想外でした」
「公爵様は、仲睦まじい婚約者を演じる事で牽制して下さるけれど、逆に令嬢たちの嫉妬を煽ってもいるから…」
必ずこう言う事が起きると忠告しておいたのだが、チャールズ様にできるのは、各家の思惑を読む事だけだ。女心ばかりは本人たちですら予測できない。
ジャックにマックウォルト先生に…少しずつ仲間を増やしてはいるけれど、やはり直近の危機は自己防衛しかない。
「でも、困ったわね。階段が使えなきゃ一階に行けないわ」
侍女たちは反対側の階段を占拠し、手前のツルツル階段しか通れないよう妨害していた。チャールズ様はしょっちゅう家を空けるので、いつでも守ってもらえると期待しない方がいい。
「今はともかく、これからお腹が大きくなれば、なるべく一階で過ごした方がいいですしね」
元々、ここも客室であって私専用と言うわけじゃない。後で使用人部屋のどこかを借りられないか探す事にした。
ジャックにそれを伝えたところ、
「本気か? あんた旦那の婚約者だろ。使用人部屋はかなり狭いぞ」
「寝起きだけで特にする事もないから平気よ。ジャックの部屋は借りられないのかしら」
「悪い……俺は通いでここに住んでるわけじゃないんだ」
朝早くから夜遅くまでいるので、てっきり住み込みかと思ったが、違ったのか。
ともあれ一階に降りたかったので再び廊下に出れば、反対側の階段に固まっていた侍女たちがこちらを見てニヤニヤしていた。
「それにしても、公爵様に何と言われるか考えないのかしら」
「責任者は侍女頭のマーゴットだが、あのババア贔屓にしている家の侍女がやらかしても知らぬ存ぜぬで押し通すからな……それにこのツルツルだって蝋だ。熱心に仕事してましたで済んじまうよ」
チャールズ様なら分からないはずもないが、下手に庇い立てすればまた惑わされているとか糾弾されそうだ。結局は、口を噤むしかないのだろうか。
(冗談…私はこの子のために戦うって決めたんだから)
そっちがその気なら、どこまでだって抜け道を探し当てて抗ってやる。
階段を睨み付けていた私は、ふと子供の頃にサラが行った悪戯を思い出した。
「ねえジャック、私を抱き上げてこの手摺りから滑り降りる事ってできる?」
「はあ!?」
「お嬢様、危ないですよ!」
子供の頃のサラは今以上にお転婆で、階段の手摺りを滑り台代わりにして遊んでいた。そして危ないと怒られれば、私に無理矢理させられたと嘘吐いてたっけ……まさか昔の嫌な思い出が役に立つとは。
「お願い。ねっ、一回だけ!」
「はあ……仕方ねえなあ。旦那には内緒にしといて下さいよ。あとバランス取るため片手は使えませんから、首に手を回して下さい」
呆れた口調のジャックにお礼を言うと、心配そうなクララに後からゆっくり下りるよう告げる。荷物は…鏡台は無理そうだ。時間がある時にでも持ってきてもらおう。
手摺りに腰かけたジャックにしがみ付くと、膝裏だけ抱えられ、シャーッと下まで滑り降りた。遠くから悲鳴が上がる。
ストン、と床に降ろされると、足に力が入っていなかったようで、崩れ落ちかけた。思ったよりスリルはあったようだ。これはサラが面白がるわけだわ。
「はあ、はは……楽しかった」
「無理すんな、もうやらねえからな」
そのままジャックを食堂まで見送り、使用人部屋まで行こうとすると、マーゴットが話しかけてきた。
「アイシャ様、そこは貴女様のような御方が入っていい場所ではありません。部屋にお戻り下さい」
「戻れないのよ、階段に蝋をべったり塗りたくられていて。一階に部屋を替えたいの。空いている場所はないかしら?」
「一部屋たりともございません。あったとしても使用人部屋などに旦那様の婚約者を押し込んだとなれば、わたくしの責任問題になります。すぐにお戻り下さい、いいですね」
いっそ清々しいまでの敵意を向けて、マーゴットは行ってしまった。
さてどうするか……広い屋敷なんだし、使用人部屋じゃなくてもどこか空いている部屋があるはずだ。一つ一つチェックしていくか。
そう考えていると、一人の侍女が話しかけてきた。
「あの、アイシャ様。一階の使っていない部屋をお探しとの事ですが」
「そう…なんです。どこかにありませんか?」
私は伯爵家なので、もしかしたら彼女の家よりも爵位は下かもしれない。気を遣いながらも頷くと、侍女は階段の裏を指差した。
「私は子爵家ですから、敬語は不要です。それと空き部屋ですが、あの奥の一番端なら誰も近付きませんよ」
「そうなの? ありがとう」
教えてもらったドアに手をかけると、鍵はかかっていなかった。そっと開けて中を覗こうとして……直後に閉めた。
「ゲッホ、コホコホ…」
ハンカチを口に押し当て、改めてドアを開ける。
物置なのは予想していたが、それにしてもすごい埃だ。蜘蛛の巣も張ってるし、よく見たら廊下の時点でドア付近の壁にカビが生えていた。
使うにしても荷物を運び出して大掃除しなきゃならないし、一朝一夕には使えないだろう。振り返ると、さっきの侍女は姿を消していた。
(私一人、チャールズ様一人なら何とかなる。でも、この子は……?)
抱き抱えられて手摺りを滑った時の、クララの青褪めた顔を思い出す。危険を回避するにしても、無茶をすれば心配をかけてしまう。
(この子を守れる、力があったら――!)
ドアを閉め、何気なくノブを弄っていると、胸元が熱くなった。