ウォルト公爵邸
城下の中でも郊外付近に位置するウォルト公爵邸。領地を持たないチャールズ様にとっては唯一の住まい。そして私とお腹の子のこれからの住居となる予定である。
今までチャールズ様とは関わりのなかった私は、今回初めてその屋敷を目にする事になる。
馬車が公爵邸に到着し、出ようとする私を止めたクララは、先に下りて私に手を差し伸べた。
「まったく、妊娠中のお嬢様を一人で下車させるなんて。このお屋敷の使用人教育はどうなっているのかしら?」
憤慨するクララを宥めつつ、私は立派なお屋敷を見上げて呆けた。
(何て大きい――うちとは比べ物にならないわ)
王都にあるゾーン伯爵邸は先代の頃から特に修復もせずにきたので、結構古びている。一方ウォルト公爵家は一代限りで、歴史上何度か王族の一人に爵位が与えられる度に屋敷の立て直しが行われてきたと言う。チャールズ様が物心つく前から公爵となる事は決められていたから、この建物は二十年弱と言ったところかしら?
「アイシャ=ゾーン様でございますね」
呼ばれて我に返ると、扉の前で執事らしき白髪混じりの男性と、不機嫌さを隠そうともしないふくよかな中年女性が立っていた。
「わたくし公爵邸の一切を任されております、旦那様の秘書兼執事長のロバートと申します」
「……」
「こちらは侍女頭のマーゴット。何かございましたら、彼女に申し付け下さいませ」
ロバートのこちらを探るような視線、そしてマーゴットの射殺さんばかりの
睨みに私は体を縮こまらせた。
使用人たちから、歓迎されていない。
それはきっと、この屋敷の主人からしてそうなのだろう。当たり前だ、チャールズ様にとって私の妊娠は完全に想定外だった。どうして他の貴族ではなく自ら引き受ける事にしたのか、正確な所はまだ聞いていないが、私に好意があるとかお腹の子に絆されたとかそう言うのだけはないと分かる。
仕方がないから。
そうした主人の心情を、ここの使用人は正しく感じ取り、私を厄介者のように扱った。それ自体は実家とそう変わらないのでいいとして。
この、私を見定めようとする不躾な視線は、前の家にはなかった。サラに心酔する者たちは私の事など興味がなかった。ただ愛らしき伯爵令嬢サラ様を虐める意地悪な姉と言うポジションさえあれば、真実などどうでもよかったからだ。
(そうか、これがチャールズ様の仰る「監視」――)
ウォルト公爵夫人でいる限り、逃れられないのだと言っていた。できればほっといて欲しかったのだが、この公爵家の意義から言って許されないのだろう。
本当にどうして、私を引き受けようなんて……
「あの、チャールズ様は今どちらへ…?」
尋ねようとする私に、マーゴットが信じられないと言った表情で噛み付いた。
「アイシャ嬢、学園ではどうだったか知りませんが、ここは公爵家です。そして貴女がたはまだ婚約中。そのような馴れ馴れしい態度は控え、現時点で相応しい呼び方でお願いしますね?」
「は、はい! では、だん…いえ、公爵様は」
旦那様、と言おうとして彼女の殺気が膨れ上がったので、慌てて言い直す。何なのこの人、恐過ぎる。私がチャールズ様に相応しくないのは分かっているけれど、だからってここまで敵視しなくても…
番犬のように威嚇するマーゴットに代わり、ロバートが口を開く。
「旦那様は現在、王城にいらっしゃいます。第二王子殿下の護衛をされていますので、屋敷には帰って来られない日もございます。不都合がありましたら、わたくしかマーゴットにお願いします」
それだけ言うと、ロバートはさっさと玄関を抜け、中央の階段を上り始めたので、私たちは置いて行かれないよう足早に後を追った。
私の部屋は、二階の端にある客室を使わせてもらう事になった。荷物は既に運び入れられていたが、まだ荷解きはされておらず、そのままどんと放置されている。扱いはともかく部屋の様子はそこそこ日当たりは良く、家具も実家に比べれて豪華だった。
バスルームの場所と使い方を簡単に説明した後、ロバートたちは風のように去ってしまった。
呆気に取られていると、それまで黙っていたクララが爆発した。
「何なんですか、あの人たち! 公爵夫人となられるお嬢様に対して!」
「まあ…いいじゃない。実家とそう大して変わらないわよ」
「あれを判断基準にしてはダメです」
クララの主張も大いに同意できるが、これから先、サラに奪われる事はないと言うだけでも僥倖だった。チャールズ様とは成り行きでこうなったのだし、使用人たちには期待していない。クララには面倒をかけてしまうが、お給金はチャールズ様がしっかり払って下さる。
私は、お腹の子だけに集中しておきたいのだ。
クララと二人で荷解きをし、整理を終える頃には、窓から見える空は赤くなり始めていた。
「…そう言えば、ここの夕食っていつ頃なのかしら」
実家では適当な時間にクララが持って来てくれたので、ついいつもの癖で聞いておくのを忘れてしまった。
「厨房で聞いてきましょうか」
「どこにあるか分かるの?」
「大体同じような場所と決まっておりますが……他の使用人に尋ねますから平気ですよ」
安心させるように笑顔を見せて出て行くクララに、つくづく彼女を雇っておいてよかったと思った。もしこの時ついてきたのがサラのシンパだったなら、私の言葉など無視されていただろう。
戻って来たクララからの報告によれば、夕食は準備ができ次第、侍女が報告に来るとの事。厨房は広さも料理人の数も伯爵家の倍はあったらしい。
「でも、かなり適当な人もいましたよ。小麦粉を袋から直接手で掴んで、そのままボールにバッ、って」
「目分量って事? 料理の経験が長ければ、きっちり量らなくても一掴み分がどれくらいか大体把握できるんじゃない? チャ…公爵様が自分が口にする物でいい加減な人を雇うとは思えないわ」
「そうでしょうか……すごく若い料理人だったし、軽薄そうに見えましたけど」
そんな事を話している内に日はすっかり暮れてしまったが、まだお呼びはかからない。こちらから催促に行くのも……と遠慮していたが、手違いがあった可能性もある。
何にしても気疲れもあり、空腹がもう限界だった。
「もう、直接行くわ。案内してクララ」
「はっ、はい!」
廊下に出ると階段は中央の他に、両端それぞれからも下りられたので、手近にある所から一階に向かう。食堂はここから下りて反対側にあるので、玄関近くを通らなければならないと聞いた。
「あ…っ」
と、そこでチャールズ様が帰宅されたらしく、私たちに背を向けて立っているのが見えた。
声をかけようとして、その背に白い腕が絡み付いているのに気付く。見た事もない女性と、がっつりキスしていた。
(うへぁ……)
自分の家で何をしようと自由ですけど、こんな人目がある場所で堂々と……部屋でやって下さいよ。使用人も慣れているのか見て見ぬふりしてるし。
そう言えば式典で私が休憩室に運ばれた時も、メイドたちは何事もないように世話を焼いてくれていた。人に見られた時は死ぬほど恥ずかしかったけど、こうして見る側の立場になっても気まずい事この上ない。本当にどうして、場所を考えないのかしら……
(何にせよ、胎教に悪いわ)
周りの目を気にしないのなら、私も見なかった事にして素通りする事にした。一応足音を立てないよう、顔を顰めているクララを連れてそろそろと食堂を目指す。
そしてちょうど、二人の前を通り過ぎた辺りで――
グウゥ~~…
空気を読まないお腹が自己主張した。
時が、止まった。
チャールズ様もお連れの女性も、こちらを見ている。
終わった……