女の情念
「チャ…チャールズ様、どうしてこの場所が?」
私はチャールズ様に手を引かれて歩きながら、理事長室を目指していた。休学届を提出するためだ。休学と言っても出産後に式を挙げれば、そのまま学校を辞める可能性は高い。
チャールズ様はちらりと私を見て、すぐ前に視線を戻した。
「変な話だが……呼ばれている気がした」
「呼ばれている…」
「急に頭痛がして、君の事が思い浮かんだ。導かれるようにどこかへ向かっていたら、空き教室の前に見張りらしき女生徒がいたんだ。声をかけたらすぐ立ち退いてくれたが。そうしたら、中から言い争う声がして……
自分でもおかしな事を言っていると思うが」
「いいえ、そうは思えません」
私の手がお腹に触れる。あの時、確かに助けを求めたが、チャールズ様が呼ばれたのはもっと前だと言う。その現象に、私は覚えがあった。お腹の子を殺そうとするのを止めた、生きたいと願う声。あれは私が身籠っているからこそだと思っていたが、チャールズ様にも聞こえたと言う事は。
「魔力の共鳴、なのかもしれないな。ハロルドの仮説をすべて信じたわけでもないが、確かに王家の魔力にはまだ解明されていない謎がある。何より、私はその力の一端を双鷹の儀で知っているのだ」
父親であるチャールズ様にも、スティリアム王家の血の力により、危機を察知できたのかもしれない。
と、ここで私は彼に聞きたかった事を思い出した。
「そうだ、チャールズ様! どうして私が貴方の婚約者になっているのですか。結婚相手を探すとお約束頂きましたよね?」
「ああ、それは……事情が変わった」
「はっ!?」
思わず声を荒げた私を振り返り、チャールズ様は両肩を掴んで言い聞かせる。
「君を正式にウォルト公爵夫人とする事で保護する。その子を守るためには、そうするしかない」
保護。
何やら物騒な感じになりそうだが、あの時はそんな話は出なかった。ただウォルト公爵家の血を引く子を産む事は私の不幸になるとだけ。だからこそ私は、別の家に嫁がせてもらうよう頼んでいたのだけれど。
どうしてわざわざ、私の妊娠と婚約を触れ回っているのか。
「一体どのような危険があると言うのですか? この子を誰が狙っていると……」
「利用価値なら、いくらでもある。まず王族と言う時点でだ。例えそれが、反逆者の血筋であろうとも……」
「ウォルト公爵家なら、安全だと?」
「いずれ真実は白日の下晒される。ならば最初から明かしておいた方が牽制になると判断した。私自身、その手の悪意は日常茶飯事だったが、こうして無事に立っていられるのが何よりの証拠だ」
チャールズ様と私とでは事情が違うんじゃないでしょうかね……現についさっき鉄扇でお腹を突かれそうになったんですけど。
私の言いたい事が伝わったのか、チャールズ様は溜息を吐いた。
「君は女の情念と言うものを甘く見ない方がいい。それに比べたら、あの程度まだ可愛いものだ」
いや、ちょっと! 親衛隊のアレを可愛いで済ませないでもらいたい。私からすれば充分怖いし婚約だって白紙にできるならそうしたいわ。こうも何度も破棄されてきたら、無理なんだろうけど。
あと一応、私も女なんですけどね。いくら百戦錬磨のチャールズ様と言えど、さすがに女の事は私の方が分かってると思う……たぶん。
だけどここで私は、ガラン叔父様が言っていた事を思い出す。
『ウォルト公爵家の血ってのは、少なからず権力闘争に巻き込まれる。
そんな子供が他家の養子に入って、お前に守り切れんのか?』
そう言う事だったのだ。血なんて関係ない、私はこの子を守りたい。そんなものは王族やその力を利用する勢力にとってみれば、ただの意地でしかない。私のような戦う力を持たない者は、誰かに縋るほかないのだ。
「まだ納得はできませんが……分かりました。この子を守って下さるのでしたら、チャールズ様にお任せ致します」
「ああ、できる限りの事はする。それとゾーン伯爵家からの監視員なのだが……君からの希望は特にないか? 先の休日中に、君の妹を名乗る令嬢が押しかけてきて立候補したんだが」
げっ、サラ!? 貴女何やってるの!
頭痛を覚える私に追い打ちをかけるように、チャールズ様は詳細を続ける。
「見覚えのあるドレスで着飾った彼女は、君が私を誘惑した事の責任を取り、共に公爵家へ嫁ぐのだと喚いていた。私が望むなら手を付けても良いなどと品のない事も言っていたな。これは、伯爵や君の意向も…」
「あっ、有り得ません! サラはまだ十四ですよ!? あの子はちょっと昔からああで……ご迷惑をおかけしました」
顔から火が出る思いだった。子供の頃から、サラの我儘は私一人が我慢すればいいと思っていた。けれど嫁ぐ身になって改めて思い知る。我が家での常識は恥ずべきもので、外へ出してはならなかったと。
そして私は監視員兼世話係としてクララを推薦しておいた。私にとって伯爵家で信用できる者は、彼女一人だけだったのだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
手続きを終えると、私は帰宅するために校舎を出た。本当なら最後の授業や挨拶もするべきなのだが、今朝のような事が起こる危険もある。
チャールズ様は馬車を用意すると仰ったので、ここはありがたく乗る事にした。
と、ここで私は意外な人影を見る。
「ルーカス…?」
「やあ」
アディン伯爵家の馬車を前に、ルーカスは私に力のない笑顔を向けた。こうして話をするのも随分久々な気がする。最後に会ったのは、部屋に押しかけて私の貞操観念のなさを詰った時だったかしら。
「貴方、こんな時間にどうしたの」
「母上から、君を迎えに行くよう言われた。一緒に家まで来てくれるか? 渡したい物があるそうだ」
ティアラ伯母様から……彼女は母の幼馴染みであり、私とルーカスの婚約を決めた張本人だったので、何かと気にかけてもらっていた。チャールズ様と婚約を結ぶにあたり、挨拶と報告に行かねばと思っていたところだ。
ウォルト公爵家の馬車には既に伝えたと言うので、私はルーカスと共にアディン伯爵邸へと向かう。
馬車の中で揺られながら、私たちは無言だった。
そう言えば、チャールズ様が仰っていたサラの暴挙の事、ルーカスはどう思っているのかしら。私からすればいつもの事ではあるが、婚約者の自分を差し置いてチャールズ様にあからさまな秋波を送られれば、さすがに彼女の本性に気付いてもよさそうなのだけど。
「いつか、言っていた……」
やがて、ルーカスが口を開く。
「関係を持った相手がウォルト公爵と言うのは、本当だったんだな……」
まだ疑われていたらしい。まあチャールズ様はその手の言い訳に使われやすいし、まさか本当に私が相手にされるなど思いもよらないのは無理もない。ここまで信じてもらえないのは、従妹として元婚約者として寂しくはあるが。
「君は公爵を、愛しているのか」
「そう言うわけではないのだけど」
「サラが言うには、公爵の真の恋人は自分で、アイシャは公爵を誘惑して寝取り、自分から奪ったのだと。だから仕方なくアイシャの婚約者を引き受ける事になったのだそうだ」
「はあ…っ」
あの子の頭の中、本当どうなってんの。ひょっとして私から奪うための嘘を、自分で本気で思い込んでいるんじゃないかしら。
「ルーカス、これも何度も言った事なんだけど、サラのいつもの癖よ。私のものは何でも欲しがるの。そして手に入れば飽きる。貴方の事もチャールズ様の事も……あの子にとってはただ、それだけの事」
「…だろうな」
吐き出した愚痴に思いもよらず同意され、私は目を丸くしてルーカスを見た。今までサラを妄信し、私の言う事なんて聞こうともしなかったのが、どう言う風の吹き回しか。
「母や兄はカトリーヌ叔母様との約束があるから、アイシャを庇うのだと思っていた。サラがそんな悪い娘には、どうしても思えなくて……
だが今回ばかりは……いや、前兆はあった。サラは僕といる時、いつも君の事を気にしていた。姉を気遣っているのだと思い込んでいたが、君が僕たちに興味を示さないので、だんだんつまらなそうにしてきたんだ。その内、言う事が二転三転するようになって……そんな時、君の言葉を思い返すようになった」
思った通り、二人の関係はサラの自滅で終わったようだ。だからと言って婚約がなかった事にはならないだろう。このまま再び婚約破棄なんて事になれば、ゾーン家としてもアディン家としても醜聞もいいところだ。
その後はずっと、私たちは何の言葉を発する事もなかった。