神の試練
私が取り出した診断書を前に、二人は固まってしまっている。沈黙の中、柱時計の振り子の音だけが部屋に響き、チャールズ様は先が折れてしまったペンを紙にぐりぐり押し付けている。あ、真冬なのに凄い汗……手を滑らせてペンが床に落ちたし。
「……どうして」
ん、今どうしてって言った? この公爵。
それは、あれだけ爛れた生活していれば、いつか狙いを外す時もあるんじゃないでしょうかね。問題は何故それが、恋人でも何でもない、赤の他人である私の時だったのかって事なんだけど。
「アイシャ嬢…あの時の薬は、どうなさったの? とても良い笑顔で受け取ってらしたから、てっきり後でお飲みになったのかと」
ベアトリス様が扇子で口元を隠し、言いにくそうに聞いてきた。薬…と言うと媚薬の事かと思ったが、状況から察するに、あの場でチャールズ様から貰った物だと思い当たる。…喜んでたのは直後の扇子ビンタのための前振りですよ。
「あ、もしかして白い包み紙のキャンディーですか? はい、帰ってから妹にあげたら甘くないって言ってましたが……あれ薬だったん」
「妹!?」
ガタッとチャールズ様が立ち上がった。この人、あの場でも冷静さを失わなかったのに、どうしたんだろう。
「はい、妹がおります。腹違いで名前はサラ…」
「アイシャ嬢、チャールズ様が驚いているのは、妹さんの事ではなくて、何故貴女がキャンディーを口にしなかったのかと言う事よ」
ああ、そっち……確かにあの時は水も飲まずに喉がカラカラだったし、すぐに食べてもおかしくなかったはずではある。どうだったっけ……
「お恥ずかしい話ですが、野次馬根性は良くないと思いつつも、ベアトリス様の件で頭がいっぱいで……忘れておりました」
「まあ…それは喜んでもいいものかしら……。アイシャ嬢、不躾になるけれど避妊についてはご存じ?」
彼女の麗しい唇から出るには憚られる言葉に、顔が赤くなる。と言うか私、ベアトリス様と同い年で一応婚約者もいたんですが。
現在、避妊具と言えば動物の腸が使用される。叩いて薄く伸ばしたのを……製作過程はどうでもよろしい。人によっては体との相性が良くないとか情緒がないとかで着けたがらないと聞くが、着けたからって絶対安心とも言い切れない。
だけど私は、あの何だかよく分からない体験でパニックになっている間に、チャールズ様がスマートに対処してくれていたものだと、勝手に謎の信頼を発揮していた。だって女性経験が豊富とは、そう言う事じゃないのか……ああ、だからあの時に。
「あれが避妊薬だったのですか? ですがそれって、事前に飲んでおく物ですよね。状況が状況でしたし、後から飲んでも効果はないのでは」
「貴女、ご存じなかったのね。事後に服用する薬は半年前に開発されたのよ。その被験者として、このク……ゴホン、チャールズ様も参加していたわ」
被験者と言っても、男性のチャールズ様が飲んだと言うわけではないのだろう。つまり、きちんと避妊されているかどうかの実験……
「そう言えば、チャールズ様が女性研究員と薬でどうこう言う話を聞いた事が……てっきり、いつもの噂だとばかり」
「それで貴女、魔法薬を見てすぐに媚薬に思い至ったのね。まあ新薬ですし、まだ価格も手を出しにくいから、知らない方も多いのでしょう」
実験の話でどんな妄想していたのかを本人の前で暴露され、羞恥で消え入りたくなる。年頃の暇な令嬢とは、案外下世話な勘繰りをしてしまうものだ。
一方、当のチャールズ様は、ご自分の噂どころではないようで、さっきから同じポーズのまま固まっている。
「それなら下さった時におっしゃって頂けたら、私もすぐに飲みましたよ」
アクシデントなのだし、情緒だの余計な演出は要らない。粛々と処理、これ大事。責めるような私の視線から逃れるように、チャールズ様は力なく頭を垂れた。
「…最初は私も事前に説明して、薬を渡していた。そうしたら、飲むふりをして捨てる女が出てきた。挙句に身籠ったからと結婚を迫ってきたので、以後はこう言う形を取る事にしている」
何でそう言う怖い令嬢まで相手にしてるの、この人? そして同類だと思われていたのか私は。失礼な……チャールズ様と結婚するよりも、ベアトリス様の下僕になりたいわ。決してそっちの趣味はないけれど。
「そう言う駆け引きは未経験なもので……野暮で申し訳ありません」
知るかと言外に込めて皮肉れば、こう言う反応は初めてだったのか、向こうも狼狽えて頭を下げてきた。
「いや、私も冷静なつもりで、イレギュラーな事態に動転していた。殿下がいなければ本当に何も出来ない人間で……すまなかった」
あの計画は殿下が仕組んだ事でしょう。チャールズ様も何でもかんでも殿下任せにしていないで、もっと人を見る目を養わないと、厄介なのにばかり引っかかるのでは……。あれ、私もその内の一人なのかしら?
「ところで身籠ったと言う御令嬢のその後は?」
「手切れ金を払って、独身の貴族の紹介状を送っておいた」
手切れ金? 賠償ではないのか……。ともあれ今回もそのケースだろう。
「では私にも、同じ対処をして頂けると」
「いや、彼女にはこう伝えたら引き下がったんだ。
『生まれた子は必ず金色の瞳をしているはずだから、カーク殿下にご確認頂こう』と」
いくら肉食系令嬢でも、あの帝王に逆らえる蛮勇の持ち主がいるだろうか。結局、妊娠も嘘だったらしく、大人しく示談に応じたそうだ。いや、私もそれでいいんだけど。
「とにかくこの件は、一度殿下の耳に入れておかねばなるまい。君は気が進まないだろうが……事情が特殊なんだ。三日後に連絡するから、また談話室に……いや、王族専用のサロンの方に来て欲しい」
うえぇーやっぱりあのおっかない御方にお会いしなきゃならないのか……。激しく気が進まないけど、チャールズ様が手筈を整えてくれる前に、父にバレて家を追い出されるのもな……
顔に出ていたのか、ベアトリス様には苦笑いされてしまった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「また気分が優れないようだけど、一人で戻れる? 貴女に関してはお祖母様に睨まれているから、表立っては動けないけれど……この件には私にも責任があるから、力になれる事があればおっしゃって? とりあえずリブには口止めをお願いしておいたわ」
談話室を出た後、ベアトリス様がそう声をかけて下さった。
「お手数おかけして申し訳ありません。次回からは私一人で行きますから」
もしもカーク殿下が出張ってくるのなら一緒にいて欲しかったが、私を置いてきぼりにして余計拗れそうな気もする。
それにベアトリス様の言う「お祖母様」……お母様や叔父様から聞いた事のある、あの御方。目を付けられないために、お母様はお父様と結婚したのだと。そんな御方に、ベアトリス様が変に疑われるようなら、避けた方がいい。
「それはそうと貴女、早まった決断をしていない? あのクズの血を引く子なのよ?」
ついにベアトリス様がチャールズ様をクズ呼ばわりした。ここは廊下だから名前が出せないとは言え、カーク殿下に知られたらベアトリス様も無事では済まないだろうに……
「クズの子と言われると私もそれに当たりますので、立つ瀬がないのですが」
「あ……ごめんなさい。でも、手違いとは言え彼は貴女にとって加害者なのだから、辛いのではなくて?」
ベアトリス様の気遣いに苦笑が漏れる。別に彼女やチャールズ様を笑ったのではないが、訝しげな顔をされた。
「違ったら気を悪くしないで欲しいのだけれど……貴女が成り行きとは言え受け入れているのは、チャールズ様を想ってらっしゃるから、なんて事は」
「まさか! あのような美しい御方など、私なんかにはとても――」
とても、めんどくさい。親衛隊の嫉妬の業火に消し炭にされるとか勘弁である。
「チャールズ様とは住む世界が違い過ぎて、普通ならすれ違っても気付かれません。あの時もたまたま、お互いちょっと躓いてぶつかっただけなんです。特に何が始まったわけでもない、交わらない物語の登場人物同士……」
ベアトリス様が「悪役令嬢」と呼ばれている華やかな恋物語と、冴えない伯爵令嬢が妹に婚約者を奪われた、いつもの話。それが偶然重なった、語られない一幕。それだけの事。
「アイシャ嬢……」
「でもまあ、出来てしまったものはしょうがないですよね。だから責任を取って、結婚相手はちゃんと紹介して頂きますよ。
――ところでベアトリス様は、聖マリエール教の経典は全てお読みになられていますよね」
いきなり話題を切り替えてきたので、唐突な印象を与えたのだろう。ベアトリス様は意表を突かれたように私を見たが、こくりと頷いて肯定の意を示す。
「もちろん。王妃教育の一環でしたわ。すべて暗記していてよ」
「天使ガヴリロの章『神が乙女と会った時、乙女は光に包まれ聖女となった。天使は告知す。汝が受け取りしは祝福あるいは試練なり』」
「あ…貴女まさか、自分の子を持ち上げて将来クーデターを起こそうなんて画策していないでしょうね? 確かにあの二人にとっては復讐になるけれど」
「……なんて恐ろしい解釈するんですか、違いますよ」
聖マリエール教は隣国が由来の宗教で、今の一節は建国にまつわる神話だ。神と聖女の血を引くのが隣国王家の始祖ですよと言う話なので、私が何かこの国にやばい事を引き起こそうとしていると言う見方も、ギリギリできなくはない……が、それとはまったく関係なく、単に不測の事態も神の試練なんだと言う意味だったのだけど。
『試練』
そう思わないとやっていられない出来事は、もう数えるのも馬鹿らしくなるくらいあった。そんな中、妹が興味を示さないものの一つである経典の一節は、大いに慰めとなった。
これは、神の試練。その本質は、乗り越える事にある。
けれど私は、何か乗り越えてきたのだろうか? 違う、私は何もしてこなかった。諦めて、流されていた。食い物にされ続ける自身を俯瞰的にただ眺めるだけで、終いには何も感じなくなって、言われるままの従順な人形になっていた。
だから、お尻に火を点けられたのだろう。
お前は、このままでいいのか。父に、妹に奪われ続けて。不幸のぬるま湯に揺蕩って、いずれは腐り落ちて。最後には、何も残らない。
そうなってもお前は、まあいいか、で済ませてしまうのか。
そう言われている気がした。
決められた道を外れる事には、今でも足の震えは止まらない。それでも、叔父様の馬車を通じて訪れた魔界の城にいるような、昂揚感もまたあるのだ。
(これは、きっかけ。絶対に…絶対に今の状況から抜け出してみせる!
…うっ、でもそのためにチャールズ様やお腹の子を利用するのは……やっぱり例の御令嬢と同類になるのかしら)
踏み出したはずの一歩は、生まれたての雛のように覚束なかった。




