幕間①(sideチャールズ)
失敗した。
カーク殿下の婚約者、ベアトリス=ローズの純潔を奪い、殿下との婚約を破棄に持ち込むと言う計画が頓挫した。
しかも、人違いと言う間抜けな理由で――
カーク殿下は、十歳の時に婚約して以来、ずっとベアトリスとは反りが合わなかった。国王の信頼する宰相ダンテ=ローズ侯爵の娘で、幼少期からその美しさと聡明さで家族から溺愛され、また王宮の評判も覚えめでたかった。まさに王妃となるために生まれたと言っても過言ではない、とは世話になった神官長の言葉。
カーク殿下は、彼女の「そう言うところ」が嫌いだと言っていた。第二王子とは言え兄君のお体は思わしくなく、実質上の王太子候補。ローズ侯爵令嬢との結婚は一見相応しいようではあったが――
ちなみに私は、カーク殿下が嫌っている者は婚約者であれ誰であれ、総じて敵だ。殿下との婚約前、ベアトリスは微妙な立ち位置の私を空気のように扱ってきたが、婚約してからは何かと殿下と私の関係について干渉したがり、幼くしてウォルト公爵の地位に就いた私の事を何度も詰った。
殿下はその度に不快感を露わにしてきたが、双鷹の儀を大反対してきた時には激怒して彼女を張り飛ばした。
『俺が無為に死にたがっていると、そのようにしか見れないのか! 俺がただ望むのは、チャーリーが生きていられる事だ。何においてもな!』
さすがに私も驚いて殿下をお止めしたが、心は熱いもので満たされた。反逆者の一族として生まれてきた私にとって、命に代えても「生きていていいんだ」とおっしゃって下さった殿下は救いだった。
私は涙を一滴零し、生涯をこの御方に捧げると改めて誓った。
一方、ベアトリスは腫れ上がった片頬を押さえ、激情も悲哀も見せる事なく、
『差し出がましい真似をして、申し訳ありません』
とだけ言うと、私の方を一度も見る事なく引き下がった。
それ以来、顔を合わせれば何かと嫌味の応酬はするものの、膠着状態が続いたまま今に至る。
事態が動き出したのは、殿下が特待生の一人である一年の女生徒リリオルザ=ヴァリーと親密になり、結婚を意識した事から始まる。たった半年ほどで早過ぎやしないかと心配になり、彼女を試すような真似もしてしまったが、互いに真剣なのだと分かり全力で後押しすると決めた。殿下がどのような選択をされようとも、双鷹の従者である私は従うだけだ。
「あの女との婚約を、破棄しようと思う」
ある日ついに、殿下はそうおっしゃった。ずっと考えていた事だ。ただきっかけも理由も、何もなかった。王子の婚姻に愛情など必要ない。むしろ国のためなら「公」に徹する事の出来る令嬢が望ましい。
カーク殿下が王太子となり次期王位に就くのであれば、この選択は愚かとしか言えなかった、が。
「第二王子派筆頭の、ローズ宰相が黙っているでしょうか」
「なに、娘が王太子妃になれなくとも旨みはあるさ。ただそのために、お前には犠牲を強いる事になるが……頼めるか?」
ベアトリスがカーク殿下と結婚しなくとも、宰相が得をする方法。それが、ウォルト公爵家との婚姻による監視。つまり私とベアトリスが結婚する事でローズ侯爵家は反乱分子の危険性を押さえ込み、その役を担った功績で公爵の位を与えられる。
デメリットと言えば孫が望めない事と、娘を人質同然に囲い込まれる事だが、悟られて下手に動かれる前に、彼女には殿下との婚約破棄に足る理由付けが必要になった。
問題は、ベアトリスがまったく隙を見せなかった事だが……
「殿下がお望みであれば、私は如何様にも」
「ああ……あいつとの事は何であれ、双鷹の誓いには触れないと約束しよう」
婚約者に一切の情を見せない殿下に、私は薄く笑った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「珍しいですわね、貴方からのダンスのお誘いなんて」
記念式典の二次パーティーで、私たちはファーストダンスの後に踊っていた。明日は槍でも降るのかしら、などと相変わらずの口を叩いている。
「貴女に、話しておきたい事がありまして。…いや、話を聞いて差し上げたいのです」
「まあ、何かしら?」
「殿下たちの事です」
踊りながら、目線で仲睦まじげに踊る二人を示すと、僅かに嫌な顔をされた。
「わたくしから申し上げたい事など、ございませんわ。もうお二人の好きになさればよろしいじゃありませんの」
すぐに何でもないように振る舞うが、強がっているのはバレバレだ。噴き出したくなるのを堪え、こちらも作り笑顔を返す。
「そうは言っても、私としてもこのままにはしておけない。平民は逆立ちしても王妃にはなれないのだから」
「まあ、貴方は殿下の味方ではなかったのかしら。それに、ご自身も随分とあの娘を気に入っていたようだし」
探るような目付きに、口元が引き攣りそうになる。
「ご冗談を……串刺しは御免被りますよ。それに、心配だからこそ貴女にこうしてお伝えしている。殿下の今後について、一度真剣に話しておこうと思っていた」
ベアトリスは、目を見開いた。何度か瞬きをして考え込んでいる。私は畳み掛けるように繋いだ手に力を込めた。
「南出口にある広場を取り囲む繁みの奥に、人目に付かないベンチが置いてある。絶対に誰にも聞かれたくない話だから、そこで待っていてくれ」
曲の終わりと共に、もう一度強く手を握ると、するりと彼女から離れる。何事もなかったように次の相手と踊っていると、ベアトリスは誰の手を取るでもなく戸惑ったようにこちらを見ていた。
その後、シャンパンを受け取った彼女が挨拶のため席を離れた頃合いで、殿下たちと合流する。
「お前から貰った薬は、酒に溶かしておいた。さっき口にしたから安心だろう。それで? あの女狐は待ち合わせ場所に来ると思うか」
「普段とは態度の違う私が気にはなっているようです。話くらいは聞く気はあるでしょうね」
まさかお互い憎まれ口しか叩いてこなかった相手に「女」にされるとは、夢にも思わないだろう。
はらはらしながら様子を窺っていたリリオルザ嬢が、私の上着の裾をちょい、と握ってくる。
「あの、チャーリー……乱暴な真似はやめてね。女の子なんだから、絶対に傷付けないで。ちゃんと本気で、愛してあげて……」
アメジストの瞳を潤ませて、懇願する少女。殿下と同じぐらいの大恩はあるけれど、彼女は何て残酷な言葉を吐くのか。
「…あの女狐が『女の子』に分類するかは微妙ですが」
「チャーリー!」
「殿下と貴女のためですからね。約束しますよ、最善と尽くすと」
安心させるように微笑んでみせると、彼女もやっと笑顔を見せた。
ああ、この笑顔のためなら、私は……
「トリスが出て行ったな。しばらく間を置いたら、お前も行け。心配するな……作戦は絶対に成功する」
妙に自信ありげな表情で殿下がグラスを掲げる。私とリリオルザ嬢もそれに続き乾杯した。
そうだ……二人のためなら、私は女狐とだって……
「待たせたね。私の美しい薔薇の君」
むせ返るような、甘ったるい花の香り。暗闇の中で殿下から賜った髪飾りを脇に置き、髪を下ろした彼女は、先程よりも大人しめな印象を受ける。
背後から近付き抱きしめると、驚いて身を固くされたのが分かった。歯の浮くような口説き文句にも、軽口を叩く余裕さえないらしい。いつもと違う私の様子に、呆気に取られているのか。ならば余計な事をベラベラ喋るよりも、行動で押し切った方が早かった。
「…………」
彼女の反応は、意外と言う他なかった。弱々しい力と声で抵抗してくるが、何と言うか、普通の令嬢のようだ。
あの女狐がと思うと、驚きと同時に興味深くもあった。
最初は嫌悪感もあり、最中に違う令嬢との情事でも妄想してやり過ごそうなどと考えていたが。
(本当に普通の、男を知らない少女だな……)
熱く火照った体を持て余してすすり泣く彼女に中てられ、私まで柄にもなく飲まれそうになる。
ほんの一瞬、心の内に宿る紫の輝きを忘れてしまうほど――
本当に彼女は、ベアトリスなのだろうか。それとも男の腕の中では、あの憎たらしい仮面を剥いでしまえばこうなるのか。これではまるで、別人のようだ。
そう思っていたら、本当に別人だった。
笑えない……
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ククッ、情けない顔をするなチャーリー、お前らしくもない……ああ悪かった。俺が余計な真似をしたせいで、失敗したのだったな」
「ベアトリス嬢は、すべて予測済みです。ただ、殿下が何故そのような危ない橋を渡ったのかまでは思い至らなかったようで」
「だろうな……あいつは忌々しい程に正論は口にするが、人の心の機微には疎い。俺はあいつが嫌いだが、あいつだってどうしてここまで嫌われるのかなんて、考えようともしないからお互い様だ。……だが、これで計画は頓挫したな。お前はトリスを物に出来なかったし、あいつは今後警戒して、ますます隙を見せなくなるだろう。婚約破棄によってあの女を正妃の座から引き摺り下ろす機会はなくなった。
……と言うわけだ、残念だったなリリー」
ここは王族以外の者は入る事が許されない、学園内のサロン。誰がどう許さないのかと言えば、扉には鍵穴がなく、小さな鏡が嵌め込まれている。その扉が開くのは、鏡に『ある物』が映った時だけ――そう、王家の証……黄金眼球が記録されている、魔法の鏡が使われているのだった。
私の前でゆったりとソファで寛ぐ殿下の隣には、婚約者ですら入室許可が出ないはずのサロンに当たり前のようにいるのは、リリオルザ=ヴァリーだった。
「もうっ! だから言ったじゃないですか。やるなら本気で愛してあげてって。性急に事を運ぼうとするから、相手を間違えるなんて事が起きるんですよ」
「酷な事を言うな、リリー。愛してもいない女を引き受けろと無茶を言ったのは俺だ。それに、トリスを抱けと言ったのはお前だろう?」
「それはぁっ! 殿下がおっしゃった最初の計画がもっと鬼畜だったからでしょ!」
リリオルザ嬢がぷくっと頬を膨らませて憤ると、殿下はクスクス笑いながら、彼女の髪を手で梳いてやる。こんな穏やかな表情は、あの女狐では絶対に引き出せない。
「私、見損ないました! 殿下とチャーリーがこんな酷い人たちだったなんて。ベアトリス様がかわいそう」
「嫌いになったか?」
「うっ、そ、それは……スキ、ですけど」
殿下に覗き込まれると、真っ赤になって俯くリリオルザ嬢。
一瞬、私が人違いしたあの少女と同じセリフに、その表情が涙を零しながら睨み付けているような錯覚を覚える。
思わず、目を擦った。リリオルザ嬢は、彼女と全然違うのに。
「チャーリーも、ちゃんと反省しなさいね」
「はい、申し訳ありませんリリオルザ様」
「もうっ! 平民の私に公爵様が畏まらないでよ。チャーリーも、リリーって呼んでって言ったじゃない」
「しかし……」
私は、殿下の方を窺う。確かにリリオルザ嬢と親交を深めるにつれ、私もリリーと呼んだ時期があった。けれど、殿下が本気でリリオルザ嬢を娶る気があるのなら、私は距離を置かなくてはならない。
殿下はそんな私を、面白そうな目で見遣る。
「呼んでやれ。どうやらそうしないと許してくれないらしいぞ」
「では……リリー様」
「ダメッ、呼び捨てで!」
「リリー、もう勘弁してやれ。…それより、トリスとの婚約破棄が難しくなった以上、あの薬の開発を早めなくてはならなくなった。そっちの研究は大丈夫なのか?」
「ん…頑張る。せっかくハロルド先生もこっち陣営に入ってくれたんだもんね。キリング様にも元気になって欲しいし」
彼女の口から意外な名前が出てきた事に驚く。リリオルザ…リリー嬢が殿下とどんな話をしているのかは知らなかったが、ひょっとするとかなり踏み込んだ所にいるのかもしれない。
「よし、ハロルドには俺から言っておくから、今日から研究室に籠れ。寂しい思いをさせるが、出来るだけ顔を出すようにするから」
「はい、殿下……っん」
退室しようとしたリリー嬢を殿下が捉え、唇が重なる。私はそれを、無表情で見つめていた……見つめていられただろうか。
「そんな恐い顔をするなチャーリー」
「何の事でしょうか。私はいつもの私です」
「お前に黄色い悲鳴を上げて騒ぎ立てる令嬢ですら、裸足で逃げ出しそうな顔だったぞ。…あと今は誰もいない」
言われて大きく息を吐き、私は手で顔を覆った。部屋の中には、仄かな残り香が漂っていた。あの甘ったるい媚薬とは違い、清らかで芳醇な、百合の香り。
「嫌な役目ばかり押し付けてしまったな。だが、リリーとの事はお遊びじゃないんだ。お前には悪いが本当に…」
「カーク、何度も言わせるな。私を串刺しにするつもりか」
「……すまない」
口元には笑みが浮かんでいたが、珍しく落ち込んでいる様子だった。良かれと思ってした事が原因で失敗した事を気にしているようだ。
私は殿下の肩を宥めるように叩く。
「私にとっては二人共大事だし、愛しているんだ。元々ウォルト公爵になったからには、幸福な人生は許されない。だったらせめて、愛している二人には結ばれて欲しいじゃないか」
嘘じゃない。暗闇にいた私に生きる意味を与えてくれたのは、照らしてくれたのは殿下とリリー嬢だ。彼等さえ幸せになってくれるのなら、私に宛がわれるのが女狐だろうと誰だろうとどうでもいい。
計画さえ成功していれば……いや、言うまい。
「ところで、事前に渡した酒は結局飲まれなかったんだよな……お前、あれからちゃんと渡したんだろうな」
思考を打ち破る殿下の言葉に、私はわざと冗談めかして肩を竦めた。
「当たり前だろう。自慢じゃないが、これに関して忘れた事はないさ……
でないと、大変な事になる」