どうでもよかった
式典の翌日の休日を挟み、私は登校するため馬車に揺られていた。
学園には学生寮があり、遠方出身者や特待生などの庶民は寮住まいだが、領地とは別に王都に屋敷を構える貴族の多くは馬車で通学している。
私も当初は厄介払いがしたい父により寮に押し込められそうになったが、妹がついて行きたいと駄々をこねたので今の形になった。両親は妹の我儘を寂しがり屋だから程度に考えているが、実際はただ自由気儘な独り暮らしが羨ましかっただけだろう。
廊下を歩いている時、向こうからやってくるチャールズ様とすれ違い、はっとなる。相も変わらず綺麗どころを取り巻きに引き連れ、嫌味なくらいの愛想を振り撒いていた。
目が合って、周りに気付かれたらどうしよう、と焦り端っこに寄ってやり過ごそうとしたが、こちらを一瞥もしなかった。気遣っているとかではなく、その辺の石ころ同然の対応だった。
(――その程度、なんだ…)
思えばベアトリス様と間違えられた時も気付かれなかった。暗がりで見えていなかったとは言え、あれだけ見事な凹凸の持ち主と比べて怪しいと思われなかったのが不可解だったのだが。
彼女の事を本気でどうでもいいと思っていたのなら、違和感があっても気にならなかったのだろう。
「ん……?」
でも、ふと思う。
ベアトリス様の事は好きではないと、殿下の命令で穢そうとしたのだと言われて納得してしまったけれど、そして実際仲の悪いお二人を目にしたのだけれど。
チャールズ様に、ベアトリス様だと思われていたあの時、とても彼女を傷付けようとする意図は感じられなかった。強引ではあったが、あれは全力で口説き落とそうとしていた。ひょっとして殿下は穢すのではなく、惚れさせろと命じられた……?
私に異性の経験はないので断言は出来ないし、あれも演技だと言われればそうなのかもしれないが、殿下に疎まれているベアトリス様を力で持って押さえ付け、婚約者の資格を奪いたいだけにしては、随分と配慮されていたようにも思える。
だってあの手は、それぐらい優しかった――
「……っ、ん…」
闇の中で体を這う感覚を思い出し、かあっと体温が上がる。疲労困憊だった当日を過ぎ、じっくり考える余裕が出来たせいで、油断してしまうとこれだ。
仕方がない、私には初めてだったのだ。人違いだろうが行きずりだろうが、私は殿方に……
(ダメ、もう忘れろ…忘れるのよ……)
覚えてたって、いい事なんてない。噂で一夜を共に過ごしたとか、お情けを貰ったと自称する令嬢はいたけれど、真実の程はいずれも明らかになっていない。あれだけ女性を虜にしてしまう御方なのだ。当然やっかみも物凄い事になる。噂が長く続かないのもそう言う事だろう。嘘であれ真であれ、もうなかった事にしてくれと。
悶えそうになるのを堪えている内に、チャールズ様の一行が遠くなり、離れた場所から色めき立ちながら歩いてくる彼の親衛隊と思われる令嬢たちが通りかかる。近付くにつれ、その会話内容が耳に飛び込んできた。
「式典の日、チャールズ様を外でお誘いした女がいるらしいわ」
「まあ、なんてはしたない! その野蛮さは特待生じゃないでしょうね」
「いいえ、それが誰か分からないけれど、ベアトリス様のふりをしてチャールズ様を騙していたとか……」
ひぃっ!
誘ってません、騙してませんから!!
やはりあの取り巻きたちから話が漏れてしまったのかと焦ったが、私の身元は割れていなかったようで、真横で本人が固まっているのに気付かれもしなかった。
「まあ、カーク殿下の婚約者ではありませんの…双鷹の誓いは平気なのかしら?」
「本人でさえなければいいんじゃない? 殿下もお許しになったそうだし」
「ただでさえあの特待生が周りをうろちょろしている時に、許せないわね。見つけ出して八つ裂きにしてやりたいわ」
怖っ!! 皆さん、目が肉食獣の如くぎらついてらっしゃる! これは死んでもバレないようにしなくては……私だって次の婚約を控えている身なのだし。
そうして私はいつ親衛隊に呼び出されるか怯えながら、授業をやり過ごした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ゾーン伯爵邸に帰ってきた私を待っていたのは、チャールズ様からの贈り物だった。花束と、ドレスが収められているらしき箱。
添えられたカードにはただ一言。
【摘んでしまった花のお詫びに。――チャールズ=ウォルト公爵】
…ヒヤヒヤするから周りに怪しまれるような事はやめて欲しい。
クララは花束を見て怪訝な顔をしている。
「カモミールの花束なんて、珍しいですね。可愛いですけれど」
「あら、マーガレットじゃないの? よく似ているのね」
「これはカモミールですよ。ほら、ハーブティーにもある」
何のつもりなのか、反応に困る。クララによれば、花言葉は「仲直り」と言うのも含まれるが、それこそマーガレットにした方が謝罪の意味合いは強いのだとか。有名なのは「逆境、苦難に耐える力」…皮肉かこれは。
まあ花に罪はないのだし、後でおいしく頂きましょう。問題はドレスだ。
「……何、これ」
酷い、酷過ぎる。いや可愛くはあるのだ、文句なしに。ふんわり広がった花の妖精を思わせるピンクのドレスは、リボンやレースがふんだんに使われ、乙女の夢がこれでもかと詰め込まれていた。はっきり言えばお人形の装いのようで私にはまったく似合わない。
何となく、カーク殿下と踊っていたリリオルザ嬢が思い起こされる。着こなせるとすれば、ああ言うタイプよね。
…それにしても、私にこれを贈るなんてどう言う神経してるのかしら。女の子はピンク好きだろうからとりあえず贈っておけばご機嫌が取れるとでも? そりゃあチャールズ様からプレゼントされれば、普通ならお姫様気分にもなるでしょうよ。
「はあ……ベアトリス様でさえどうでもいいのなら、私なんて言わずもがな、か」
困ったわ、こんな(無駄に)豪華なドレス、クローゼットの奥で肥やしにしてしまうのは絶対もったいない。だからって売ってしまうのも……お借りした方と一緒に送り返そうかしら。
そこへ、バターンと部屋のドアが無遠慮に開き、サラがずかずか入ってきた。
……頼むから、せめてノックして。
「お姉様っ! 聞いて聞いて……わぁ、すごいドレス!!」
飛び込んできたサラは、お喋りのために開きかけた口をぽかんとさせた。その隙に、私はサッとカードを隠す。彼女の眼差しは真っ直ぐドレスに向けられ、キラキラ輝いている。…あ、これおねだりの前兆だ。
「お姉様、このドレスどうなさったの?」
「先日言ったでしょう。ドレスが汚れてしまったから、その件でのお詫びよ」
「ほんとに素敵なドレスよね。いいなぁ~、お姫様みたい」
うっとりと頬を染めてドレスを手に取る。きっと頭の中では、自分が着たところを想像しているのだろう。今取り返そうとしても、握りしめて離さないに違いない。
「……よかったらサラ、貴女にあげるわ」
「えっ本当に? いいの? いつもはもっと仕方なさそうなのに」
自覚があるのなら遠慮してよ。
「貴女の方が似合うだろうし。裾を直すの忘れちゃダメよ」
サラも十四の割には発育が良いので、数年前のような悲劇にはならないだろうけど。ちなみに胸のサイズもさほど変わらないのが、十七の私としてはちょっと情けな……いや私は標準だ、たぶん。
「そう言えば、何か用事があって来たんじゃなかったの?」
「あっそうだ、忘れてたわ……エヘヘヘ」
サラは思い出して恥じらうように身をくねらせる。
「昨日ね、ルーカスとデートしたのだけれど……帰りに、あのね……
彼とキスしちゃったの! キャッ」
「へえー、よかったじゃない」
「もうすっごくロマンチックで……でもね、お姉様としては複雑かなって。今まで婚約者だったわけだし」
じゃあ何でいちいち報告しに来るかな? 勝手にして頂戴よ。
「今は違うんだから好きにしたら? 私は気にしないわ」
「ううん、傷付いてないわけがない。だってお姉様を差し置いて、妹の私がキスをしてしまったんだもの。私もね、ちょっと気が引けるなってルーカスに言ったの。そしたら彼……姉想いの優しい子だねって抱きしめてくれたの。羨ましいでしょ?」
いや、まったく。ルーカスも最早、清々しいほどサラしか見えてないな。
でも妹が期待するほど私にダメージがないのは、もしかしたらもっとすごい経験をしたからなのかもしれない。最早キスの一つや二つどうでもいいと言うか……はっ!
(いけない、また……)
思い出しかけて赤面する私を、サラは勘違いしたらしい。
「ほらやっぱり、お姉様は私たちが羨ましいのね! 自分はあの子爵と結婚するしかないものだから。無理しないで素直に言えばいいのよ」
「もう、いいから……サラ、ドレスを持って部屋に戻りなさい」
火照る顔を見られないよう、まだ自慢し足りない様子のサラの背中を押して部屋から追い出すと、廊下には普段声もかけてこない執事が立っていた。
「アイシャお嬢様、旦那様が書斎でお待ちです」