受け取って
ベアトリス様は、口元に微笑みさえ浮かべていた。けれどその眼差しの色は、あまりにも見覚えがあった。
(ああ、この人は私と同じ……諦めているんだ)
こちらに視線を向けたベアトリス様の目が、大きく見開かれる。
「…貴女ってお優しいのね。他人のために涙を流せるなんて」
「違います……私はそんな、殊勝な人間じゃありません」
言われて、また頬が濡れていた事に気付いた。
サラに奪われ続けて、いつしか泣く事すら面倒になってしまっていたのに、直前までチャールズ様に泣かされていたものだから、涙腺が緩くなっているだけだ。
悲しい…悔しい……それ以上に、腹立たしい。チャールズ様よりも殿下よりも、話を聞いている事しか出来ない自分が。
「ほら、お洟が出ていますからこれをお使いになって。淑女は身嗜みに気を配らないと」
「あ゛、あ゛り゛がどう゛ござい゛ま゛ず……グスッ」
自分のハンカチを探すが、カーク殿下に小瓶を包むために持って行かれたのを思い出し、ベアトリス様が差し出したのをありがたくお借りする。ハンカチには真っ赤な薔薇の刺繍がしてあった。持ち物まで高貴な彼女らしいな。
「それ、わたくしが初めて完成させた時の物なの。出来はまだ拙いから恥ずかしいけれど、よかったらもらって下さる?」
なんと、この出来で初めて? 私とは雲泥の差だ。これは絶対サラに盗られないようにしないと。
ベアトリス様の心遣いに感激していると、呆れた声がせっかくの空気をぶち壊してきた。
「お涙頂戴は、もう済んだかな? 私が言うのも何だけど…君、他人の事情に首を突っ込んでいる場合じゃないだろう。ただでさえ面倒事に巻き込まれているんだから」
「…………」
「巻き込んだ張本人が言えた事じゃありませんわね」
私は半目でじとっと声の主を見遣る。ベアトリス様のおっしゃる通り。私が言うのも何だけどって、本当にあんたが言うなって話だ。
…今なら一発くらい殴っても許してもらえるかしら? 女性関係の数だけ修羅場も潜ってそうだし、穏便に済ますためにビンタを喰らうのにも慣れているだろう。生憎な事に私は非力で、思いっきり振りかぶっても「ペチッ」が関の山だけど。
「女の子を泣かせて、このままごめんの一言で済ますおつもり?」
「まさか、後日ちゃんとした分は用意するさ。
さっきは本当に悪かったよ。でも、君だっていい思いしただろ? 今日のところはこれしか出来ないけど、受け取ってくれ」
良い笑顔でぎゅっと手を握りしめてきたので、広げてみれば。
――キャンディーが一個。
…舐められてるなあ。
「これは素敵なプレゼントを。ぜひお返しをさせて下さい」
普段は苦手な愛想笑いが、自然に出た。背後からベアトリス様の視線を感じたので、ダメ元で手を後ろに回して合図を送ってみる。
「いいよ、そんな気を使……ぐべっ!!」
バキャッ!!
チャールズ様の美しいお顔に、ベアトリス様からお借りした扇子がヒットする。さすがに歯を折るなんて芸当は無理だが、金具が掠ったのか唇から血を流していた。
「愛しのベアトリス様との(間接)キスです。お受け取りになって」
「……どうも」
予想外だったのか、無理矢理笑みを取り繕うが、引き攣ってしまっている。
あー、ほんの少しだけ溜飲が下がった。
扇子の方は、パッキリ折れていた。私はそれを、ベアトリス様にお返しする……これ一本で一体いくらするんだろう。
「弁償致しますわ」
「面白いものが見れましたので、見物料としてそれも差し上げます」
扇子を失ったベアトリス様は、代わりに手で口を覆って含み笑いしている。楽しんで頂けて何より。
「それでは、部外者はこの辺で去りますので。ごきげんよう」
ぺこりとお辞儀してドアに手をかけると、彼女は見送りについてきた。
「貴女には借りが出来たわね」
「そんな、私は何も……結局、ベアトリス様への謝罪も引き出せませんでしたし」
殴ってやったけど、あれだって私個人の鬱憤晴らしでしかない。カーク殿下に捨てられ、婚約が破棄される未来が見えてしまったベアトリス様は、これからどうするのだろう。気になって仕方がないが、悔しい事にチャールズ様の言う通り、私は他人でしかない。
「心配は無用よ。代わりに泣いてくれる方がいたから、わたくしは平気……
言ったでしょう? このまま大人しく『悪役令嬢』は引き受けないと。まったく……大体、わたくしなしでどうやって王太子候補でいるおつもりかしら」
そう、カーク殿下は第二王子。王太子候補として有力なのは、第一王子が病弱なのとローズ侯爵家の後ろ盾があるからだ。娘を穢されれば侯爵だって黙っていないだろうし、一体何を考えているのか……まあ、私には関係がない。
もう一度頭を下げて部屋を出る直前、ベアトリス様はそっと耳打ちする。
「お祖母様には貴女たちに関わるなと言われてきたけれど……困った事があれば力になるわ。だってわたくしたちは……」
ボソボソと告げられた事実に、思わず彼女を凝視する。
「ご存じだったんですか」
「まあ、これでも王妃候補ですし、身内の事くらいは…ね? では機会があれば、また」
パタン、とドアが閉められ、私は衛兵に馬車まで案内された。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お帰りなさいませ、お嬢様」
屋敷に戻ると、メイドのクララが玄関口で待っていた。使用人はほぼすべてがサラの味方で私は無視されているので、出迎えも彼女一人だ。
私にもちゃんと護衛か、エスコートがついていれば今頃……いや、考えても無駄だ。今は無事帰って来れた事だけ喜んでおこう。
「すぐに入浴の支度を――そのドレスはどうされました?」
「ああこれ? 汚してしまったから借りたのよ。洗濯しておいて」
ドレスが替わっている事に気付いたクララから目を逸らしながら、汚れ物の袋を差し出す。出来れば父に見つかる前に部屋に戻りたい。
「お帰りなさい、お姉様!」
そこへバタバタとサラが階段を駆け下りてきた。…よりによって面倒な。
「パーティーは楽しかった? いいなぁ、私も行きたかったわ。ルーカスにエスコートしてもらって、ダンスを踊るの……あら? お姉様、ドレス…」
「そう言えば、お土産があるの!」
サラに突っ込まれる前に言葉を遮ると、私はポケットからベアトリス様に戴いた物を取り出す。
「なぁに、それ? 折れた扇子に使用済みハンカチって……ゴミじゃない。
あと一つは……飴玉?」
「それは、チャールズ様から」
「えっ! チャールズ様って、カーク殿下の双鷹の従者! 超絶美形って噂の!? どうしてお姉様なんかに!」
お姉様『なんか』で悪かったわね。あと婚約者がいるのに目、キラキラさせて……少しは自重してほしい。
「ねえねえ! チャールズ様ってどんな御方?」
「噂に聞いていた通りよ」
色んな意味で。
サラは白い包みのキャンディーを色んな角度から眺めている。市販のキャンディーはもっとカラフルなイメージあったんだけど、これ、どこのメーカーかしら?
「お姉様、チャールズ様にお声をかけていただいたの! 一体どうゆう経緯で? ひょっとして、エスコート役がいないのを同情して踊ってくださったのかしら」
「踊ってないわ」
あれが躍りだなんて下品なジョークを言うつもりはない。
「ざっくり言えば、犬に噛まれたお詫びとでも言うか……」
「パーティー会場に犬がいたの!? それでお姉様、ドレスが……まあいいわ。これ、もらっていい?」
あんな説明で納得してくれたらしい。まあ私とチャールズ様にロマンスが始まるなんて、天地が引っ繰り返ってもないでしょうからね。犬に噛まれた、それ以上でもそれ以下でもない。
「こんなのが良いの? 私は別に要らないけど」
「ゴミなんかより、チャールズ様からの愛が欲しいの」
飴玉一個って、安い愛だな。そしてルーカスの立場は……
突っ込みたい所は多かったが、私はもう疲労が限界に来ていて、一刻も早く部屋に戻りたかった。
「じゃあ、あげるわ。私はもう休むから……おやすみ、サラ」
後ろで「うえっ、何これ甘くない!」と漏らしている妹をその場に残し、私はクララにお風呂に入れてもらった。
ネグリジェに着替えた後、習慣にしている日記帳を開く。生きていた頃の母から譲り受けた物だ。新しいページにペンを走らせるが……極度の眠気で頭がろくに働かない。
あまりにも衝撃的な事が次から次に起きるものだから、呆気に取られるばかりで、状況に流される以外何も出来なかった。
慎ましく暮らしていれば遭遇し得ない出来事で、これらに比べればルーカスに婚約破棄されてエスコートもなしで壁の花になっていた事なんて、どうでもよくなってしまう。
(…まあ、出来れば彼等には二度と関わりたくないわね)
双鷹の儀において美しい主従愛を見せた二人がクズだった事には、少なからずショックを受けた。五年前の私の感動を返してほしい。唯一僥倖と呼べるのはベアトリス様と思わぬ縁が出来た事だが、今はただ何も考えず、泥のように眠りたい。今日はひたすら疲れた。疲れてしまった。
私は書き進めるのを諦め、パタンと日記帳を閉じた。
(ベアトリス様のご厚意は嬉しいけれど、お言葉だけありがたく頂戴します。
さようなら、王子様御一行。私はトラブルとは無縁にひっそり生きていきます)
私は毛布の中で祈ると、意識が闇に沈んでいった。
けれど、そんな私を嘲笑うかのように、事態は急展開していくのだった。