謝って下さい!
カーク殿下が休憩室から立ち去られるのを、私は釈然としない思いで見送っていた。
チャールズ様が殿下を裏切っていない? 婚約者とは一線を越えなかったから? ……それは相手を間違えたからで、計画自体は遂行されてますよね?
それに、毒牙にかけられるところだったベアトリス様のお気持ちは? 殿下は私へのフォローをしろとおっしゃったけれど、ご自分の婚約者に謝れとはおっしゃらなかった、一言も。
「ごめんなさい」
はっと視線をドアから剥がす。
言葉を発したのは、ベアトリス様だった。
「わたくしのせいで、貴女を巻き込んでしまって。彼は女性関係が派手ではあるけれど、決して無理強いはしない人だと思っていたの。少なくとも、つい先程までは。
だからこれは、彼を信用してしまったわたくしの責任です」
「そんな」
ベアトリス様が謝られる事なんてない。彼女も被害者なのだ。
…それはそうと、お二人の弁解にはどこか不自然さがある。
先程も感じていた、殿下のベアトリス様に対する冷たさ。今回はたまたま貞操は守られたけれど、チャールズ様が不義を働いたところで別に構わないと言いたげな……まさかまさか、いくらリリオルザ嬢との逢瀬に邪魔だからって、婚約者が信頼していた部下に寝取られてもいいだなんて、そんな。
ベアトリス様にしても、そうだ。チャールズ様が女性に優しいのは分かる。だけど、それ以上に……この御方のカーク殿下への裏切りは、あり得ない。そんな事、私以上にベアトリス様はご存じのはず。なのに今、敢えて明言を避けているのは――実際に裏切られたから? それとも……
「ところで、そこでぼーっと突っ立っている木偶の坊さん? こんな事態になって、彼女に一言もないのかしら。まさか今更、殿下の命令は聞けないなんておっしゃらないでしょうね、貴方ともあろう者が」
そう声を張り上げるとベアトリス様は、扇子でチャールズ様のお顔をペシペシ叩いた。…楽しそうですね? その人、殿下への忠誠心を棚上げしてまで貴女に懸想してたんですよ?
だんだん目に生気が戻ってきたチャールズ様は、扇子を手で受け止め、大きく息を吐いて髪をかき上げた。
……な、何かめんどくさそうな。本懐を遂げたと思ったら別人だったんだから気持ちは分からなくもないけれど。
一度目をぎゅっと瞑って仕切り直すと、彼は私ににっこり笑顔を向けた。
「ああ、君……本当悪かったね。アイシャ嬢…だっけ?
こっちも性急になるあまり、焦って相手を確認しなかった。何故か媚薬が足元に置かれていたのにも気付けなかったし……本当迂闊だったよ。
だけど君には、できる限りの事はさせてもらうから、安心してくれ」
あまり反省の見えない謝罪で済ませようとするのは、もう何度も繰り返してきた事だからなのだろう。彼の女性遍歴は噂ですごい事になっていたので、別に期待はしていなかったけれど。その他大勢の一人で、明日には埋もれて忘れられてしまうと、その程度なんだと思い知る内に、私の中で沸々と湧き上がる何かが…
「それ、私を傷物にした責任を取って頂けるって事でよろしいので?」
「ああ……と言っても処女を返せとか、結婚しろとかは無理だけど」
そんなめんどくさい女に見えるのか。私だってウォルト公爵家の複雑なお家事情は弁えている。来る者拒まずと言われているチャールズ様だが、さすがに本気で玉の輿を狙ってくるような令嬢は避けているらしい。
だけど、私が望むのはそんなものじゃない。
「そうですか、ならば手始めに……
まずは、ベアトリス様への謝罪をお願いできますか」
「え?」
私からの嘆願に、チャールズ様もベアトリス様も目を丸くする。そりゃあ私だって女だ、面識もない殿方に初めてを奪われれば人並みに傷付くし、責任が取りたいのなら拒む理由もない。
だけどそれはそれとして、ベアトリス様への仕打ちに対して言っておきたい。同じ女として。
「謝罪? 私が彼女にか?」
「そうです。本来ならば貴方に無体な事をされていたのはベアトリス様だったはず。ならば彼女にも頭を下げるのが道理ではないですか?」
「だけど結局、私はベアトリス嬢に何もできなかった。君と彼女を間違えたせいでね……それに、殿下も彼女に関しては何もおっしゃっていない」
何だと?
何もなかったから、殿下も責めなかったから謝らなくていい?
そんな理屈が通ってたまるか!
「貴方がベアトリス様の純潔を散らそうと計画したのは事実ですよね。だからこそ私は巻き添えになった……違いますか?
いいえ、そんな事はどうでもよいのです……それよりも私、ベアトリス様への不誠実な態度に腹を立てておりますの。貴方も殿下も、女と言うものをあまりにも馬鹿にしています!」
仮にも身分がずっと上の公爵様に対し、私がここまで強気なのはベアトリス様のためだからだ。他人の事だからだ。私一人が被害に遭っていたならば、きっと殿下に威圧された時点で身が竦んで言いなりになっていた。
ああ、私は何と臆病なんだろう。一矢報いてやりたいのに、怒る事さえ自力でできないなんて。こんな他人を隠れ蓑にした糾弾、きっとチャールズ様には偽善だと思われてる。
悔しい……食い縛った唇に、塩辛い涙が流れてきた。
「どうしてそこまで……君とベアトリス嬢は赤の他人だろう」
「あら、わたくしたちはもう他人ではありませんわよ。
他ならぬ貴方が、アイシャ嬢とわたくしを間違えたのでしょう?」
ベアトリス様が参戦してくると、チャールズ様は上手く反論できず、悔しげに唇を噛む。…その表情はとても想い人に向けるものとは思えないんだけど。こんな口論は日常茶飯事なのかしら?
だとしても、ベアトリス様だけにお任せしてしまってはダメだ。
「チャールズ様、お願いします。ベアトリス様にも謝罪を」
「だが……」
そこで躊躇する理由が分からない。まさか、自分は間違ってないとか言いませんよね…? 好きなら何してもいいんだとか……暴君はカーク殿下だけでお腹いっぱいですよ!
煮え切らないチャールズ様に、私は思わず苛立ちを零していた。
「貴方なんかに好かれた……ベアトリス様がかわいそう」
「!!」
涙で真っ赤になった目で精一杯睨み付ければ、彼は驚愕で息を飲んでいた。
その時、
「ふふっ、あははははははっ!」
いきなりベアトリス様が笑い出したので、ぎょっとして涙が引っ込んだ。対してチャールズ様は何故か冷めた目で彼女を見ている。
ベアトリス様はおかしそうに体をくねらせ、扇子で口を隠していたけれど、笑いが治まると私の肩に手を置いた。
「失礼……あまりにもおかしかったもので。いえ、この茶番自体が失笑ものだったのですが、もう限界で……ごめんなさいね」
「おかしかったって……私、そんなに変な事を言ったのですか?」
「貴女が言い出した事ではなくてよ。だけど、そうね……まず言っておきたいのは、わたくしには謝罪も同情も必要ないと言う事よ。
だってこの人、わたくしの事を好きでも何でもないんだもの」