ギスギス 1
9月19日、続けてもう一話投稿します。
新任教師の『田中』は月曜日に赴任してから数日も経たぬうちに鏡一郎と一、二を争う人気者の座にのぼりつめていた。
その二人と親しいという理由で、天音への風当たりは以前よりまして強くなった。
週の終わりの金曜日、弁当を忘れて珍しく購買部にパンを買いに行くことになり、天音はそれを強く実感することとなった。
「天音、行くよ。ぐずぐずしてたら、昼休みがなくなるからね」
毎日購買を利用しているアサは慣れたもので、あっという間にパンを求める生徒の群れの中に消えてしまった。
天音もそれに続こうとするが、どうやっても弾き飛ばされてしまう。要領が悪いせいもあるが、何回目かの肘鉄でそれがわざとだと気がついて、天音は途方に暮れてしまった。
アサが目当てのパンを悠々とゲットしてきても、天音は手ぶらのままだった。
「えっ、まだ買ってないの?」
普段なら、何やってんの、と叱り飛ばされるところだ。
しかし、よほど天音が情けない顔をしていたのか、アサは責めも叱りもしなかった。
「お金、貸しな」
ぶっきらぼうに言われて、天音はきょとんとしてしまう。
「買ってくるよ。何パン?」
天音はアサの顔と伸びてきた手のひらを交互に見つめて「いいの?」と尋ね返す。
「いいから。何パン?」
「えっと、じゃあ、亀パンとチョコパンダパン」
亀パンは亀の形のメロンパンで、丸いパンにチョコでパンダの顔が描いてあるのがチョコパンダパンだ。以前、クラスメートが食べていたのを見て以来、いつか食べてみたいと思っていたのだ。
「飲み物は?」
「えーと、えーと、いちご牛乳!」
アサは自分のパン袋を天音に押しつけると、再びパン争奪戦へと戻っていく。
人ごみをするするとかき分けて、姿が見えなくなるのもあっという間なら、パン袋を手に戻ってくるのもあっという間。
颯爽と戻ってきたアサは、天音の『アサちゃん、すごい』の眼差しをうるさそうに手で払った。
「ほら、戻るよ」
さっさと先に行ってしまうアサを、天音は弾むような足取りで追いかける。
「ありがと、アサちゃん。このパン、食べたかったんだあ。楽しみだなあ」
「いいから。早くしないと食べる時間がなくなるよ」
そう言って天音を急かしたくせに、アサは三階に着いてもまっすぐ教室には向かわない。何故か、まだその先へと階段を上っていってしまう。
「アサちゃーん、どこ行くの? 屋上は開いてないよ」
この間、鏡一郎と階段を上ったから知っている。
この上には何もないし、誰もいない……はずだったのだが、この日は階段の行き止まりに先客がいた。
同じクラスの女子・橋本倫が屋上の扉を背にして座っていた。膝に広げたランチョンマットの上には、手のひらサイズの可愛らしい弁当箱が乗っている。
ここに自分以外の生徒が来るとは思っていなかった様子で、「なんで……?」と倫がつぶやく。
それはこっちのセリフだよ、と天音が言うより早くアサが答えた。
「パン買いに行くとき、倫が一人でこの階段を上がっていくのがちらっと見えたから」
――えぇっ、全然気づかなかった!
一緒に歩いていたのに、と天音は目を丸くする。
他人に関心ありません、という顔をしている割に、アサは周囲をよく見ている。きょろきょろしているくせに、何も見てない天音とは対照的だ。
「それに、今朝からずっと千秋と一緒にいないから。それも気になってた」
――えぇっ、そうだった?
これにも天音はポカンと口を開けて驚くが、クラスで気づいていなかったのは多分天音だけだろう。
橋本倫と志村千秋は、この日は朝から別々に登校してきた。
いつでも何をするにも一緒の二人が、一緒にいない。それだけで、二年六組のクラスメートには事件だった。
そのうえ、一時間目終わりの休み時間、倫が近づいて話しかけようとするのを無視して、千秋が他の女子のグループに「ねえ、ねえ」と話しかけにいったものだから、教室は静かにざわついた。
話しかけられた女子グループも平静を装っていたが、内心びっくりしていたに違いない。
なになに、あの二人、ケンカしたの?
クラスメートがささやき合う中で、のんきに「何パン買おうかなあ」と昼ごはんのことを考えていたのは天音くらいのものだった。
二時間目、三時間目と授業が進み、その合間の休み時間を倫は教室の真ん中の席でポツンと座って過ごしていて、それをクラス中が遠巻きにしていたというのに。
倫と千秋は、中学の頃からのつき合いだという。朝は一緒に登校し、休み時間は常に一緒、トイレも仲良く二人で行き、揃って下校していた。
そんな彼女たちを、双子のようだと誰もが口を揃えて言う。
よく見れば顔は全然違う。ただ、雰囲気がよく似ていて、遠目から見たらそっくりなのだ。
セミロングの髪の微妙な長さ。微妙なスカート丈。どれも、ぴったり揃っていた。
好きなアイドルも一緒で、ミーハー具合も一緒だった。
同じところで同じように手を叩いて笑い、同じものを見て同時に「かわいい」と叫ぶ。
あまりにも二人の声がぴったり揃うので、いつだったか、天音はアサに、あの二人は本当に双子なんじゃないかと思うと言ったことがある。アサには「そんなのどっちかが合わせてるに決まってるじゃん」と、鼻で笑われてしまったが。
だから、天音には二人がケンカしたと言われても、どうもピンと来ない。
「後から千秋ちゃんも来て、ここでご飯を食べるんでしょ?」
天音が聞くと、倫は下を向いてしまった。
「千秋は……、他のグループにまぜてもらったみたい。私、教室に居づらくなって、ここに逃げてきたの……」
倫の声は小さく、掠れていた。いつも楽しそうで、教室に響き渡るような笑い声をあげていた彼女とは別人のようだ。
天音はアサと顔を見合わせた。二人とも聞きたいことは同じだった。そういう場合、大抵アサが代表して聞くことになっている。
「ケンカの理由、聞いてもいい?」
倫の肩が小さく震えた。うつむいているので表情がわからなかったが、小さな弁当箱のご飯の上に涙が一粒こぼれて落ちた。
「あっ」
ご飯が涙でしょっぱくなっちゃうよ、と言いかけた天音の口は、アサの手のひらでふさがれてしまった。
横目で見れば、アサが怖い顔で睨んでいる。アサが怒っている理由はすぐにわかった。今まさに、倫が声を振り絞って、話し始めようとしているところだった。
「朝礼で田中先生がいつでも会いに来なさいって言ってたでしょ。その日の放課後、千秋に行ってみようって誘われて……、それからは昼休みも放課後も旧校舎に通うようになったの」
そういえば、クラスで最も熱心に田中の話を天音にせがんだのは、この二人だった。
「旧校舎は他にもいっぱい生徒が来てて、先生とはほとんど直接話せないんだけど、私たちは戸口の方で先生の話が聞けるだけでよかったの。それが昨日、突然、先生から話しかけられて……。しかも、私たちのことを橋本倫、志村千秋って、ちゃんと名前で呼んでくれて……。そりゃあ、最初のときにクラスと名前を言ったけど、まさか覚えていてくれたなんて思わないし、それに私たちは似てるって言われるのによく区別できたなって、感激してたら……」
田中はこともなげに言ったのだという。
「たしかにきみらは似ているが、よく見れば違いがあるからな。たとえば……、志村千秋、きみの方が目が細い」と。
「えー、あいつ、そんなこと言ったの?」
天音は鼻にしわを寄せた。
「うん。その場では千秋も『そうですよね~』とか言って、気にしてないみたいだったのに……。帰り道は全然口きいてくれないし、夜に『今、何してる?』って送っても返信ないし。朝は一人で先に行っちゃって、教室でも無視されて……」
――悪魔にはデリカシーってもんがないの?
またしくしくと泣き始めた倫を見て、天音は激しく憤っていた。
嘘でも教師になったからには、教師らしく振舞ってもらわなければ困る。
――後で行って、文句言ってやらなくちゃ。
鼻息の荒い天音の横で、アサは「ふーん」と冷静に話を聞いていた。
「明日もそうだったら、私らと一緒にいればいいんじゃない?」
「アサちゃん、それ、ナイスアイデアだよ!」
アサの提案に、天音も力強く同意する。
「倫ちゃん。お昼、一緒に食べようよ! 明日はちゃんと教室で!」
天音が大いに盛り上がる一方、アサはクールだった。
「じゃあさ、とりあえずお昼食べようよ」
本当にお腹がペコペコだったのだろう。アサは少し乱暴に、パン袋の中身を床にぶちまけた。
ジャンボ焼きそばパンとカツサンドとビッグコロッケバーガー。それと、パック牛乳がひんやりとした床にゴロリと転がる。
それを見て、倫はまだ涙のあとの残る顔でプッと吹きだした。
「アサって、そんなに食べるの? しかも、そのパンのチョイス、体育会系の男子みたい」
「そうなの。アサちゃんって、こう見えて大食いなんだよ。意外でしょ~」
倫と天音にからかうように言われて、アサは逆に天音のちんまりとした丸いパンと、倫の小ぶりな弁当箱に文句をつけてくる。
「私から言わせれば、そっちの方こそおかしいんだけど。そんな小鳥のエサみたいな量で食べた気になるわけ?」
アサの言い草がツボにはまったのか、倫が「アハハ」と笑った。さっきよりも口を大きく開けて。
天音も大きな声で笑った。いつもより大げさな笑い声には、倫を元気づけたいという気持ちがにじんでいた。