新任教師
「はあっ、間に合った」
天音が正門に着いたのは、遅刻ギリギリの時間だった。
起きたら髪が大爆発していて、朝からシャンプーしなおさなければならなかったのだ。ドライヤーをかけて、どうにかこうにかボリュームダウンさせて……気づいたら、こんな時間になっていた。
昨夜、鏡一郎に忠告されたにもかかわらず、ろくに髪を乾かさずに寝たせいだ。おかげで、朝から全力で走る羽目になってしまった。
しかし、門を通過したら安心というわけではない。
このまま教室に直行すれば朝のホームルームに間に合うだろうが、今朝は旧校舎にカバンを取りに行かねばならないのだ。
息を整えて、天音は再び走りだした。
グラウンド側に出るためには昇降口を突っ切ることになる。そこで、天音は大移動する生徒の列に出くわした。廊下にぞろぞろと続く列の中には、親友のアサの姿もあった。
「アサちゃーん、どこ行くの? 授業じゃないの?」
天音が呼ぶと、アサはびっくり眼で立ち止まった。
「え、天音? 今日は休みなのかと思った……っていうか、今来たの? カバンは?」
「えへへ、昨日、部室に忘れちゃって。これから取りに行くところ」
「もしかして、手ぶらで来たの?」
アサは腰に手を当て、仁王立ちになった。さも呆れたという顔だ。
「もう、なにしてんの。朝のホームルームがつぶれて朝礼になったんだよ。カバンなんて後でいいから、早く上履きに履き替えてきな」
「えー、月曜でもないのに朝礼?」
天音はそう言うが、月曜日以外にも朝礼はあるにはある。文武両道を謳うこの学校では文化部も運動部も優秀で、全国大会に出場する部が多い。その壮行会やら、結果の報告会やらで、ことあるごとに朝礼が開かれるのだ。
「いいから。早くしないと朝礼に遅刻するよ。全校生徒が集まった体育館に遅れて入ってくる度胸あんの?」
「ないです!」
アサを鬼軍曹に見たてて、天音は敬礼をしてみせた。
とはいえ、下駄箱へと走ったのは、なにもアサが怖いからではない。鏡一郎の前で遅刻したくない、というのが一番の理由だ。
朝礼のとき、生徒会役員は教師側の、生徒を見渡せる位置に整列する。つまり、ここで遅刻をしたら、生徒会長の鏡一郎にばっちり見られてしまうこととなるのだ。これ以上、鏡一郎にダメなところを見せられない。
――昨日の今日だし。
天音の脳裏に、昨夜の自分のみっともない姿が浮かぶ。
――わあ、わあ、わあ、思い出したくないのにー!
上履きに手をかけたまま一人で赤面していると、「あーまーねー」と地を這うような低い声に急かされた。
「待って待って。今行く!」
天音は急いで上履きに履き替えた。
朝礼は退屈なものと、相場が決まっている。今朝も校長の話は冗長で、大半の生徒が欠伸をかみ殺していた。
でも、他の生徒とは違い、天音は朝礼の時間が好きだった。生徒会長として斜め前方で立っている鏡一郎を、堂々と見ていられるからだ。
ときどき鏡一郎と目が合って、ちゃんと先生の話を聞けとばかりに顎で指図されたりするのも楽しかった。誰にやっかまれることなく、アイコンタクトできるのはこんなときだけだったから。といっても、アサには大抵バレていたが。
しかし、今朝は鏡一郎と目が合わない。そうなると、途端にこの時間は退屈になる。
天音は体育館の床の木目をただひたすら数えながら、眠気と戦うしかなかった。そのため、一部の生徒から歓声が上がってもなにが起きたのか、わからなかった。
こんなときは、アサに聞くに限る。幸い出席番号順の列で、アサは天音の前にいる。天音は背伸びして、アサの肩に顎を乗せた。
「アサちゃん、なんで皆、騒いでるの?」
「美術の山村先生が急に辞めたんだって。で、新しい先生が来るみたいね」
アサは前を向いたまま教えてくれた。
「へえ、新しい先生かあ」
俄然興味が湧いてきた。
季節外れの新任教師という響きに、好奇心をくすぐられない者はいないだろう。
体育館全体がざわめきだし、校長は新任教師を紹介するために声を張りあげなければならなかった。
「えー、では、新しい美術の先生を紹介します。田中先生」
しかし、誰も舞台に上がっていかない。
「田中先生、田中先生?」
教師陣もきょろきょろと辺りを見回している。どうやら新任教師が体育館にいないらしい。
「おい、新人はどこ行ったんだ?」
「一緒に来たはずなのに」
教師たちが慌てふためいている。
そんな中、「校舎を見てきます」と申し出たのは、若い男性体育教師だった。学生時代、サッカーをやっていたというだけあり、フットワークの軽い彼は言うや否や走りだしていた。その勢いのまま体育館の出入り口のドアを開けたかに見えた。
しかし、両開きのドアはタッチの差で外側から開かれて、体育教師は危うく転ぶところだった。
「わっ! 田中先生、どこ行ってたんですか」
体育教師の非難がましい声を無視して、新任教師は涼しい顔で体育館に入ってくる。
列の最後尾にいた天音は、とっさにアサを盾にして、その身を隠した。
――うそ、うそ、なんで?
昨日、うっかり召喚してしまった悪魔が新任教師として現れたのだ。これが驚かずにいられるだろうか。
天音の心臓は、バクバクと脈打ち始めた。
旧校舎を飛びだしていったときと同じく、彼はうまく人間に化けていた。
角と尻尾を消し、黒く尖った爪を丸くして、毛皮をまとっていた獣の脚を人間のそれにとって代え、まるで人間のようにふるまっている。
その足取りは実に堂々としたもので、歩くたび、後ろで緩く結んだ黒髪がさらさらと揺れる。
ふと周囲を見渡せば、女子生徒の多くがうっとりとした目でダンタリオンを追っていた。
天音は改めて、悪魔の恐ろしさを見せつけられた思いがした。
――ダメだよ、皆。騙されないで。その先生は悪魔だよ。
叫びたいのに叫べない。だから、余計にじれったい。
とはいえ、忠告できたとしても、きっと無駄だったろう。悪魔というものは人間を魅了するようにできているのだから。
天音の心配をよそに、「やだ、すごいイケメン」という囁き声が後を絶たない。
校長も最初は「きみ、困るよ。時間が押してしまうじゃないか」と怒っていたが、ダンタリオンに「それは失礼した」と謝られた途端、「い、いや、次から注意してくれれば……」とすぐに態度を軟化させてしまった。
校長でさえ手懐けてしまうのだ。マイク片手にダンタリオンが自己紹介を始めると、体育館は彼の独壇場となった。
「やあ、諸君。私の名は、田中太郎。今日からきみたちに美術を教えることとなった」
――タナカタロウ? なに、その適当な偽名!
アサにしがみついていた天音は、その肩に知らず知らず爪を立てていた。
「ちょっと! 痛いんだけど」
アサが文句を言ってきたが、天音はそれどころではない。周囲から聞こえてくる女子のおしゃべりが、天音の胃をキリキリさせていた。
「美術を選択しといてよかったあ!」
「えー、いいなあ。私、なんで音楽なんか選択しちゃったんだろう」
芸術教科は選択制だ。音楽、美術、演劇、書道の中から選ぶことになっているため、美術を選択しているか、いないかで、一、二年の女子たちは大騒ぎだ。
そもそも芸術系の科目のない三年生は、そんな後輩たちを恨めしそうな顔で見ていた。
一喜一憂している女子生徒に、ダンタリオンは話のわかる教師のような顔で呼びかける。
「私の授業がなくとも遠慮せず会いに来てくれたまえ。私はいつでも旧校舎にいる」
わあっ、と歓声が上がる中、校長が「ちょっとちょっと」と口を挟んだ。
「そんな話は聞いてませんよ」
食ってかかる校長を、ダンタリオンは片手で制した。
「私が旧校舎を使うということで、話はついたはずだ」
すると、校長は催眠術にでもかかったかのようにカクカクと首を二回、縦に振った。
「そうでした、そうでした」
この返答にダンタリオンは満足そうに微笑んで、また生徒たちに向き直った。
「扉は絶えず開放しておこう」
女子生徒は「どうする、昼休みに行ってみる?」と、キャッキャとはしゃいでいる。
男子生徒までが「そういえば旧校舎って入ったことないんだよな。面白そうじゃん。行ってみようぜ」と言いだしている。
天音は暗澹たる気持ちになった。
――ああ、これからどうなっちゃうんだろう。
「私はきみたちのことをもっとよく知りたいと思っている」
――どうしよう、誰も近づけたくないのに。
「きみたち全員のことを知りたい。残念ながら今は天音のことしか知らないのでな」
――うんうん。私のことしか……。えっ?
「なあ、天音?」
舞台上でダンタリオンが笑顔で手を振っている。
――ぎゃあ、やめてよ! なんで、ここで私の名前を出すの!
天音が首をすくめていると、盾だった筈のアサがくるりと振り向いた。
「天音、あの先生と知り合いなの?」
列の前方からも「えー、天音って天音のこと?」とクラスメートが騒ぎだしている。
「あ……、いや、知ってるっていうか、知らないっていうか……」
本当のことなんて、言えっこない。
でも、上手い嘘も思いつかない。
遠く三年の列の辺りから「またあの子?」という声が聞こえる。
一年生は新任教師の視線を辿って「なになに、誰のこと?」と囁き合っている。
四方八方から視線が刺さり、痛いくらいだ。
天音は一刻も早くこの場から逃げだしたかった。
そのとき聞こえた校長の「静かに、これで朝礼は終わりです」という声は、正に天の助けだった。
朝礼が終わると、クラスごとに端から順に退場することになっている。
天音はそんなことはお構いなしに、扉が開くと同時に駆けだした。このままぐずぐずしていたら、またダンタリオンに声をかけられかねない。これ以上の面倒ごとはごめんだった。
天音は三階の教室まで一目散に逃げかえった。
自分のクラスの教室とは不思議なもので、シェルターのような安心感がある。よその教室に入って行きづらいのも、心理的には同じことなのだろう。
天音は自分の席に着き、ホッと一息ついた。
が、大事なことを思い出した。
「あっ、しまった。旧校舎に行かなきゃいけないんだった」
教室に戻る前にカバンを取ってくるつもりだったのに、ダンタリオンの登場で気が動転し、すっかり忘れていた。
これからまた取りに戻るのは、とんでもなく面倒だ。
――今から行って戻ってきて、一時間目に間に合うかなあ。
逡巡しているうちに、クラスメートが続々と帰ってきてしまう。誰もが天音を問い詰める気満々の顔をしている。その中で、真っ先に詰め寄ってきたのはアサだった。
「なんで先に行っちゃうの。あの先生となんか関係あんの?」
アサは他のクラスメートがする噂話には、いつも興味を示さなかった。
くっだらない。
ばかみたい。
そう言って、噂話をするクラスメート自体をバカにしている節があった。
そんなアサがダンタリオンのことを詮索してくる。それが天音にはショックだった。
「えっと、アサちゃんもあの先生のこと……、好きなの?」
「は? まだよく知らないのに、好きもなにもないでしょ。っていうか、あの場で特定の生徒の名前を出すのって、どうかと思うし、第一印象はあんまりよくないかな」
「わあ、やっぱりアサちゃんはアサちゃんだ!」
アサは悪魔の魅力に屈してなかった!
天音は飛びつかずにいられなかった。
椅子を蹴倒して抱きついてきた天音をべりべりと引きはがしながら「だから余計に気になるわけ」と、アサは言った。
「あの大人の魅力ぷんぷんの危険そうな男と、いつ、どこで知り合ったわけ?」
アサが再び問いつめると、少し離れたところでじりじりとタイミングをうかがっていた他の女子が待ってましたとばかりに加わってくる。
「私も知りたい」
「私も」
「私も」
「イケメン全員天音の知り合いって、一体全体どういうこと?」
好奇心むき出しの女子とは違い、クラスの男子はさすがに輪には入ってこない。それでも、聞き耳を立てているのはわかる。皆が天音の答えを待っていた。
「えーと、えーと……」
「勿体つけないで教えてよ。田中先生とはどういう関係?」
はっきりしない天音に女子の一人が焦れた。そのすぐ後に、不機嫌な低い声が続く。
「ああ、俺も是非、知りたいね」
とうとう男子まで参戦してきたかと、女子全員が声の方を振り返った。
「きゃ」と、可愛く叫んだのは輪の外側にいた女子だった。
「加納先輩!」
「え、加納先輩?」
一斉に教師の戸口に視線が集まった。
腕組みをした鏡一郎が、開いたドアにもたれかかるようにして立っていた。
さっきまで騒がしかった教室が、一瞬にして静かになった。
「天音、ちょっと」
鏡一郎が顎で廊下を指し示す。その仕草がいつもより荒い。
――あれ、鏡ちゃん、怒ってる?
天音は慌てて鏡一郎の後を追った。
クラスメートたちは廊下を覗きたそうにしていたが、憧れの生徒会長の手前、はしたないことはしなかった。
二年六組の教室のすぐ前には、屋上に続く階段がある。鏡一郎はそれを無言で上がっていく。
屋上には鍵がかかっているので、階段を上がったところで行き止まりだ。そのカギのかかった扉の前で、鏡一郎はようやく天音を振り返った。
「で? 田中先生とはどういう関係? 天音に俺の知らない人間関係があるなんて、ちょっとショックだったんだけど?」
責めているかのような口ぶりだ。
小さい頃からずっと一緒で、家族旅行やイベントはほとんど両家合同だった。その頃ならば、お互い知らないことは確かになかった。
でも、天音は今、鏡一郎のことをなんでも知っているとは思ってない。
クラスでは誰と仲がいいのか。
生徒会のメンバーといるときは、どんな話をするのか。
自分は天音の知らない時間を持っておきながら、天音の隠し事は許さないと言う。それはあまりにも理不尽だ。
今まで抱いたことのない感情が、天音の中に渦巻いた。
「田中先生はただの親戚だよ」
「天音の親戚はだいたい把握してるけど? おばあさんにもあったことあるし。おじさんの方は親戚が一人もいない。そうだろ?」
「鏡ちゃんが会ったことのない人だっているもん。田中先生はお母さんの……従弟の……お嫁さんの……えーと、えーと……弟、だったかな」
教室ではすぐには出てこなかった嘘が、つっかえながらも口から出てくる。そのことに、天音自身が一番驚いていた。
「それ、親戚って言うか?」
鏡一郎は納得いかないという顔をしている。やはり、彼に嘘をつくのは簡単ではない。あと五分あったら、天音は「ごめんなさい。嘘です」と白状していただろう。
しかし、天音がギブアップする前にフォローが入った。
「遠い親戚、とでも言うかな?」
いつの間にか、階段の下にダンタリオンが立っていた。
「ぎゃ!」
よりによって、鏡一郎といるときに来るなんて!
なんて間の悪い悪魔だろう。
「やあ、きみが天音の幼馴染か。たしか、加納鏡一郎と言ったか」
「やめて! 鏡ちゃんは関係ないんだから!」
鏡一郎に悪魔を近づけたくない一心だった。
しかし、この一言をどう受け取ったのか、鏡一郎は眉間に深いしわを寄せた。
「関係ない……か」
天音はダンタリオンを追い返すことばかりに夢中で、鏡一郎のつぶやきは耳に入らなかった。
「もう! 美術教師がこんなところになんの用?」
怒りから、口調もぞんざいになっていく。
事情を知らない者だったら、それくらい親しい間柄なのだろう、と勘違いしてもおかしくない。
この場に、正に事情を知らない男・鏡一郎がいるのだが、天音はそこまで気が回らない。
この状況をダンタリオンは心底楽しんでいて、こっそり舌なめずりしていることにも……。
「なんの用とは、つれないな。昨日の忘れ物を持って来てやったというのに」
ダンタリオンは後ろ手に天音の学生カバンを隠していた。
「あー、私のカバン! わざわざ持って来てくれたんだ」
さっきまでの不機嫌さはどこへやら。天音はニコニコ顔でカバンを受け取った。
鏡一郎に「……昨日、会ってたのか……?」と聞かれたが、「うん、まあ、ちょっとね」と、返事がおろそかになってしまう。
天音からしたら、それ以上話せることはないのだから仕方がない。
だから、鏡一郎の顔から一切の表情が消えたことにも気づけなかった。
「積もる話がありそうだな。俺は教室に戻るよ」
「あ、鏡ちゃん!」
階段を下りて行く後ろ姿を、天音は見送ることしかできなかった。
鏡一郎の去った階段で、ダンタリオンは高笑いをした。
「しっぽを巻いて逃げ帰りおった」
フハハハハという笑いが癇に障る。
鏡一郎をバカにしたような言い方も気に食わない。
天音は反論せずにいられなかった。
「勝手に勝利宣言? 勝ち負けで言ったら、悪魔になびかなかった鏡ちゃんの勝ちだと思うけどなあ。あー、わかった。鏡ちゃんが言いなりになりそうにないから負け惜しみだ!」
「いや、そうではなくてだな、あの小僧は私に嫉妬して……」
「鏡ちゃんが嫉妬? なんで? あっ、もしかして、自分がこの学校の一番人気になったとか思ってるんだ。そりゃあ、皆きゃあきゃあ言ってたけど、時間が経ったらやっぱり鏡ちゃんの方がいいって言うに決まってるよ。アサちゃんみたいに最初からあなたのことを嫌いって言ってる人もいるし。あんまり天狗になってると……」
言いかけて、天音は、ぷぷっと吹きだした。
「悪魔が天狗だって」
ぷぷぷぷぷ。
笑いが止まらなくなってしまった。
「おい、小娘、笑うな」
ダンタリオンはまだなにか言いたそうだったが、口をついて出たのは小さなため息だけだった。
――あれ、へこんでる?
黙ってしまったダンタリオンを見て、天音は言い過ぎてしまったかと後悔した。
考えてみれば「あなた、嫌われてるよ」なんて、他の誰にも言ったことがない。
どうして悪魔にだったら、ひどいことを言っても構わないと思ったのか。
天音は深く深く反省した。
「あの~、鏡ちゃんもアサちゃんも公平な人だから、悪い奴じゃないってわかったらきっと心を開いてくれると思うよ。だって、本当にそんなに悪い悪魔じゃないもんね」
「なにをっ! わ、私は魔界でも一、二を争う悪い悪魔で――」
ダンタリオンは気色ばんだが、天音はお構いなしににっこり笑った。
「わざわざカバン持って来てくれたし、本当はすごく親切だよね。私、すごーく助かっちゃった。ありがと」
「うおっ!」
ダンタリオンは顔を覆って、大げさによろけた。
「にっこりするな! 眩しいだろうが!」
「えっ、大丈夫?」
「やめろ、触るな。親切にするな」
苦しそうに顔をしかめていて心配だったが、悪魔のプライドが邪魔しているのかなと、天音は考えた。
「もうっ、気難し屋さんだなあ。具合悪いんでしょ? 素直になればいいのに」
「いいから、さっさと行け。授業が始まってしまうぞ」
たしかに、そろそろ教室に戻った方がよさそうだ。
「……でも、こんなに体調悪そうなのに、置いていけないよ」
「トードを……、トードを呼ぶから!」
「藤堂さんを?」
あのしっかり者のカエルが来てくれるのなら安心だ。
「本当に?」
「ああ、だから、さっさと行け!」
「うーん、じゃあ、行くね?」
天音は三段ほど下りてから、振り返った。
「考えてみたら、あなたがこの学校にいるのは私がなにも願い事をしないからだもんね。私がこの場所に縛りつけちゃってるのに、迷惑だなあと思ったりして、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げると、階段の上からまた「うがっ!」と叫び声が聞こえてくる。
天音が「大丈夫?」と言おうとするのを、ダンタリオンは片手で制した。
「いいから!」
心配だったが、藤堂に任せた方がいいだろう。
天音はダンタリオンが見えなくなるところまで階段を下りて行った。それから、大きな声で呼びかけた。
「偽名、あんまり似合ってないけど、これからは私も『田中先生』って呼ぶね!」
とっくに予鈴は鳴っていたが、一時間目の授業にはぎりぎりで間に合った。
これも、ダンタリオンがカバンを持って来てくれたおかげだなあと、天音は心の中で感謝した。