風呂上がり
それからどうやって家に帰ったのか、天音は全く覚えていない。
高校から自宅までは自転車通学の許可が下りない徒歩圏内。
どうしよう、どうしようと考えながら歩いていたからか、気がつけば自宅マンションの前だった。
「あっ、カバン忘れた!」
手ぶらで歩いていたことにも、気づかず歩いていたらしい。
「今から戻るの面倒くさいなあ」
幸い財布と家のカギといった貴重品は、制服のポケットに入れてある。急いで取りに戻る必要はない。ポケットには返却し忘れた旧校舎のカギも入っていたが、天音は全部明日に棚上げすることにした。
「ただいま」
今日は一日、いろいろなことがあり過ぎた。天音はこのまま何もせず寝てしまいたかった。
しかし、玄関に揃えてある上品そうなベージュのパンプスを見て、それが叶わないことを悟る。
「そっか、奈々さん、来るって言ってたっけ」
母の多恵が履きそうにない靴が玄関にあるということは、鏡一郎の母・奈々が来ていることを意味する。天音がリビングに直行すると、果たして缶ビール片手に上機嫌の鏡一郎の母がいた。
「奈々さん、いらっしゃい」
幼馴染の母親を名前で呼ぶのもどうかと思うが、これは奈々のたってのリクエストだ。おばさんと呼ばれたくない、というのがその理由。
一方、奈々は天音を実にこっぱずかしいあだ名で呼ぶ。
「遅いわよ、天使ちゃん」
家の中でだけならまだいいが、彼女は外でも大声で呼ぶ。「天使ちゃーん」と。そのたびに、天音は赤面する羽目になる。
しかし、本当は戸籍上の名前も「天使」になるところだったと聞けば、呼び名くらいで済んだことを感謝すべきなのかもしれない。
奈々と天音の母の多恵は、ソフトボール部の先輩後輩、エースと女房役という間柄だ。
どちらがピッチャーで、どちらがキャッチャーかは誰が見ても一目瞭然。すらりとした美人の奈々と比べ、ずんぐりした体型の多恵が当然、キャッチャーだ。
どちらが一学年上の先輩なのかも、同様にすぐわかる。なにしろ多恵はいまだに「奈々先輩」と呼んでいるのだから。
奈々も多恵のことはいまだに「佐藤」と旧姓で呼ぶ。
いつまで経っても学生気分が抜けない二人の間には、体育会系特有の上下関係と、バッテリーならではの厚い信頼関係が共存している。
結婚したら、子供同士も自分たちのようなバッテリーにしようと約束し合っていたようだが、子供たちの性別が違ってしまったため、計画は潰えてしまった。
それでも、多恵が女の子を産んで、奈々は大喜びだった。頼まれもしないのに張り切って、「天使」という名前を考えてきてしまうくらいに。
これまで奈々のわがままを何度も聞き入れてきた多恵だったが、さすがにこの名前だけは受け入れられなかったようだ。
天使みたいに可愛いんだから、「天使」でいいじゃない。
そう言ってきかない奈々と母の間で、相当なバトルがあったらしい。
その結果、「天」の字を残して「天音」になったのだそうだ。
多恵と奈々が揉めたのは、後にも先にもこれきりだという。
今日も、二人は仲が良い。多恵は喜々として、奈々のおつまみを作っている。手が離せないのか、娘が帰ってきてもキッチンから顔を出すだけだ。
「あら、鏡くんと一緒じゃなかったの?」
母はてっきり二人で帰ってくるものと思っていたようだ。
「あっ、そうだった。鏡ちゃんに伝言を頼まれてたんだった。あのね、鏡ちゃんは生徒会で遅くなるから夕飯いらないって」
天音が連絡を入れなかったせいで、既に鏡一郎の分も用意されていた。母はそれを怒るでもなく、おかずをタッパーに詰めはじめた。
「じゃあ、これは夜食にでも、明日の朝ごはんにでもしてもらおうね。奈々先輩、忘れずに持って帰ってよ」
「鏡一郎の分なんていいのに」
奈々は缶ビールを勢いよくあおった。
「あの子、最近はいっつも忙しい、忙しいって言ってて、本当につまんないのよ」
「鏡くんは生徒会長さんだもの。仕方ないわよ」
母が宥めても、奈々は不満顔だ。
「ふん、どうだか。どこかで遊んでるんじゃないの。でも、いいわ。今日は女だけで宴会よ」
どうやら天音の父の見晴も、今日は帰りが遅いらしい。
期せずにして、女だけの夕食会となってしまったが、奈々はそれを歓迎しているようだ。といっても、別に天音の父のことが嫌いなわけではない。女子校出身のせいか、彼女は女どうしている方が好きなのだ。
奈々は一人で「カンパーイ」と、また一口ビールを飲んだ。
息子の多忙さを愚痴っていたが、彼女自身もまた忙しい人だった。最近は特にお疲れ気味だったようで、いつもよりも酔いが回るのが早い。
彼女は酔うと、少しばかり面倒な人になる。
たとえば、しつこく同じ話をしたりするのだ。天音の両親の馴れ初め話などは、もう何回聞かされたかわからない。
今夜もまた、その話が始まってしまった。
「そんじょそこらの男だったら、私だってね、絶対認めなかったわよ。でもね、見晴さんは佐藤の命の恩人なんだもの。結婚だってなんだって、認めないわけにはいかないじゃない」
ドン、とテーブルを叩く奈々に、天音はさも興味ありげに相槌を打つ。
「うんうん。歩道に突っ込んできた車から、お父さんはお母さんを庇ったんだよね。それで、お父さんは重傷を負っちゃったんだっけ?」
相槌のふりをして、さりげなく話の先を促す。時間短縮のために、天音が編みだした技だった。
「そう、そうなのよ! 入院した見晴さんのお見舞いに通ってるうちに、つき合うことになっちゃったなんて、本当にもうびっくりよ。佐藤ってば、毎日のようにお見舞いに行ってたんだってよ。佐藤がそんなに積極的な子だったなんて、私、全然知らなかったわよ」
「やだ、違うわよ、奈々先輩。身寄りがなくて、入院中お世話してくれる人がいないって、見晴さんが言うからよ。一人じゃ、大変でしょ? 私のせいでもあるわけだし」
「ふん、まあいいわよ。押しかけ女房でもなんでも」
体をくねくねさせて恥ずかしがる母を、奈々は「しっし」と手で払った。その手で隣に座る天音を抱き寄せる。
「おかげで、こーんなに可愛い子が生まれたんだから。ねえ、天使ちゃーん。ああ、もう本当に癒されるわあ」
頬をすりすりされたり、天パーの髪の毛をもしゃもしゃとかき乱されて、まるでテディベアにでもなったような気分だ。
「もう! 奈々さん、酒臭い!」
抗議しても、余計に頭をぐりぐりされてしまう。
「このまま連れて帰りたいわあ。早くうちに嫁に来てちょうだい。卒業待たずに、今すぐ来ちゃう?」
冗談のようでいて、これが結構本気で言っているから困る。
酔っていてもいなくても、顔を合わせれば「嫁に来い」と奈々は言う。子供の頃からずっとだ。ずっと言われ続けている。
そんなとき、母は笑って奈々をたしなめる。
「奈々先輩ってば、またそんなこと言って。鏡くんにだって、選ぶ権利はあるんですからね」
最近になって、これは奈々にではなく、自分に向けられた言葉なのだと、天音にもわかってきた。
本気にしちゃダメよ。
夢見てると、あとで傷つくわよ。
母は天音にくぎを刺しているのだ。
むぎゅうっと奈々に抱きしめられながら、天音は心の中で、それくらいわかってるもん、と毒づいた。
いや、たしかに子供の頃は奈々の言葉を真に受けて、鏡一郎のお嫁さんになるんだと思いこんでいたりもした。
しかし高校生にもなれば、さすがにわかる。いくら相手の母親に気に入られようが、当の本人に気持ちがなければダメなのだということくらい。
わかっているからこそ、母の言葉に腹が立つ。
それは奈々も同じなのだろう。天音を抱きしめながらいやいやと体をよじって、全身で母の正論に抵抗している。
「いやよ、私は天使ちゃんがいいのっ! 鏡一郎が他の女を連れてきたって、絶対認めないんだから!」
奈々は子供のように駄々をこねた。
何度も何度も、絶対に天使ちゃんをうちの子にする、と叫んで……、糸が切れたようにおとなしくなったと思ったら、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「あら、寝ちゃったのね」
母は奈々の顔を覗きこむと、心配そうに眉根を寄せた。
奈々の目の下には、疲労の色が濃く出ていた。
「疲れてるのね」
母は奈々の体を自分の背中に乗せて、ソファまで移動させた。それから、ブランケットを取ってきて、横たわる奈々にそっとかけた。
「奈々先輩はこのまま寝かせておいてあげましょ。天音は先にお風呂に入っちゃいなさい」
母が食器を片づけ始めたので、天音は言われた通り、風呂に入った。
風呂場でなら、今日あったことをゆっくり考えられると思っていた。
しかし、風呂につかってリラックスし過ぎたのか、脳まで弛緩してしまったのか、難しいことは何一つ考えられなかった。
「まあ、いいや。明日考えよ」
天音はバスタブの中でお尻を滑らせた。そのままお湯に鼻の下までつかり、ブクブクと泡を立てた。
ややこしいこと、面倒なことは後回しにしてしまう。天音の悪い癖だった。
ゆっくり風呂につかっていたので、当然、奈々は帰っているだろうと思っていた。
「あれ、奈々さん、まだ寝てるの?」
バスタオルをターバンのように頭に巻いたままリビングに入れば、奈々はまだソファで寝息を立てていた。
「そうなのよ。こんなにすやすや眠ってるのに、今起こしちゃ可哀そうよねえ?」
母は困った顔で笑った。本当は夕飯の片づけが終わったら、部屋に送り届けるつもりだったのだろう。
「うーん、やっぱりもうちょっと寝かせておこうかな。今からお風呂に入って、出てから送っていけばいいわよね。うん、そうしよう」
母はパタパタとスリッパを鳴らしながら、リビングを出ていった。
残された天音は、気持ちよさそうに眠る奈々を見つめた。
天音は天パー、丸顔、童顔と父親の遺伝子をそっくりそのまま受け継いだが、鏡一郎は母親似だ。キリリとした顔立ちなんて、そっくりだ。目を閉じても、その印象は変わらない。だからつい、奈々の疲れた顔を鏡一郎に重ねてしまう。
「鏡ちゃんも早く帰ってきて寝たらいいのにね」
誰にともなくつぶやいたら、返事をするかのようなタイミングでスマホが鳴った。しかも、飛んできたのは鏡一郎からのメッセージだった。
うちのおふくろ、そっちにいる?
いるよ、と返すと、迎えに行く、とまたすぐに返信があった。
ほどなくして、インターホンが鳴り、制服のままの鏡一郎がやって来た。帰宅したばかりなのだろう。
「奈々さん、今寝ちゃってるの。うちのお母さんがお風呂から出たら送っていくって言ってたんだけど」
「いつも悪いな」
鏡一郎は天音に続いてリビングに入ると、ソファで眠っている奈々の肩を揺すった。
「おふくろ、帰るぞ」
「うーん……」
「しょうがないなあ」
鏡一郎は奈々の腕を引っ張って、無理やり起き上がらせた。
「天音、おんぶして行くから俺の背中に乗せて」
天音は言われた通り、しゃがんだ鏡一郎に奈々を背負わせた。
「よいっしょ」
大人の女性を軽々と背負って、鏡一郎は廊下を歩いていく。
母一人子一人。こうして、支え合って生きてきたのだろう。
「絶対吐くなよな」
憎まれ口は照れ隠しだ。
玄関で靴を履く鏡一郎に、天音は紙袋を二つ持たせた。それぞれに奈々の靴と、鏡一郎の分の夕食のタッパーが入っている。
「じゃあね、鏡ちゃん、おやすみ」
両手がふさがっている鏡一郎のために玄関ドアを支えているのに、鏡一郎は半歩出たところで立ち止まってしまった。
「なにか忘れもの?」
天音は首をかしげるが、鏡一郎は振り返りもしない。
「鏡ちゃん?」
再度尋ねると、鏡一郎はようやくこちらを向いた。向いたが、目が泳いでいる。
「あー、その、なんだ」
「なに?」
「風呂上りなんだろ。早く髪乾かして寝ろよ」
早口でそれだけ言って、鏡一郎は出て行った。
「え、髪?」
天音は自分の頭に手をやった。
「あっ!」
風呂上がりのままだということを、今の今まで忘れていた。
頭の上にはバスタオルの巨大なターバンが乗っている。
パジャマ代わりに着ているのは、大きめの長袖Tシャツだ。裾が長いから一枚で着ているが、長いと言っても辛うじてパンツが隠れる程度。
しかし、問題はそれだけではない。
長袖Tシャツは何度も洗濯したせいで、首元はだるだる。袖口ものびのび。元の色は可愛いピンクだったのに、色あせして全体的に白っぽい。
だったら、せめて子供じみたウサギのイラストも消えてしまっていればよかったのに。
「ぎゃあああ!」
天音はリビングまで走って戻り、さっきまで奈々が寝ていたソファにダイブした。ターバンが落ちてしまったけれど、そんなことはどうでもいい。
「こんなだらしない格好で鏡ちゃんの前に出ちゃったあ! ああ、もう!」
子供の頃は一緒に昼寝をした仲だ。
でも、今は風呂上がりの格好を見られただけで、顔から火が出そうだ。
「鏡ちゃんも困った顔で目を逸らしてたし……。ああっ、もうやだ!」
バスタオルで髪を拭きながら母が風呂から出てきても、天音はまだ足をバタバタさせていた。
「あら、奈々先輩帰っちゃったの?」
それには答えずに、天音はわめいた。
「お母さん、私、このパジャマもう捨てる!」
「あら、そう? でも、このウサギ、小学校の頃からのお気に入りでしょ。明日になったらきっと『捨てないで―』って、あなた言うわよ」
「絶対言わない。もう決めたんだから!」
しかし、天音本人よりも母の方が天音のことをわかっていたりする。母の言うことは、大抵当たっているのだ。この長袖Tシャツも明日の朝にはごみ箱ではなく、洗濯もののかごの中だろう。
それでも今は可愛いパジャマを買い足すことで、天音の頭はいっぱいだった。
他に考えなくてはいけないことがあるというのに。