旧校舎
昇降口のところで別れたアサは、そのまま正門から帰っていった。天音は一旦、職員室へ行き、旧校舎のカギをもらってからグラウンドに出た。
グラウンドではサッカー部がランニングを始めていて、息の合った掛け声を響かせている。
部室に行くとき、天音はいつも運動部の邪魔にならないように校舎沿いを歩くようにしていた。
サッカー部の隣はハンドボール部のスペースで、彼らのサッカーに比べて小ぶりなゴールの裏を通り、園芸部の花壇の前を通り過ぎると、その先に、ポツンと建っているのが旧校舎だ。
昭和初期に建てられた二階建ての木造校舎は、鉄筋コンクリートの新校舎が完成しても、昭和の終わり頃までは現役で使われていたという。
少子化による生徒数の減少で、新校舎だけで教室が足りるようになって、ようやく古い校舎はお役御免となった。解体計画が持ちあがったのは、ちょうどその頃。
しかし、それに反対したのが卒業生たちだった。旧校舎保存会を立ちあげて、署名運動を繰り広げた。彼らの働きかけで、旧校舎は耐震補強を施され、文化財として保存されることとなったのだ。
とはいえ、一棟丸々残すわけにはいかず、三角屋根が特徴的な正面玄関と、一階と二階に一部屋ずつを残す、部分保存という形になった。
正面玄関は、普段は太い鎖でぐるぐる巻きにされている。天音は鎖にぶら下がる大きな南京錠を開け、両開きのドアを解放した。
こもっていた空気が一斉に外へ逃げていく。
靴箱の前のすのこの上で来客用スリッパに履き替えると、天音は玄関横の部屋の窓も開け放った。
ここは昔、保健室だった。パイプベッドはもうないが、目隠し用のカーテンはそのままで、風を入れてやると大きく膨らんだり萎んだりする。まるで新鮮な空気に喜んでいるみたいに。
ここまでが天音のルーティーンだ。この後の行動は、どこを掃除するかによって違う。今日は最後だから、雑巾で拭き掃除をするつもりだ。
天音はカバンを置くと一度、外に出て、バケツに水を汲んで戻った。水飲み場が遠いため、近くにある花壇の水道を園芸部の好意で使わせてもらっている。
それでも重労働に変わりはない。でも、これが第二読書部部員の日課なのだ。
部には二つのルールがある。
窓を開けて、空気を入れ替えること。
掃除は丁寧に。手抜きはしないこと。
部員は代々、このルールを忠実に守ってきた。
部ができたばかりの頃、部室に使えそうな空き教室がなく、グラウンドの隅で部員は途方に暮れるばかりだった。そこへ、旧校舎保存会会長が偶然、通りかかった。事情を聞いた会長の「それならば旧校舎を使うかね?」の一言で、第二読書部は部室を得た。
そのときに出された条件が、先の二つのルールとなった。
保存会の信頼を裏切らないように。
新入部員は初めにそう教えられる。
保存会が発足してから代替わりしたかどうかは知らないが、今の会長は藤堂という老人だ。天音も何度か、会ったことがある。
小柄だが、がっちりした体格の老人だ。四角い顔に、いつもへの字気味に口を結んでいて、気難しそうな人に見えた。
時折やって来ては旧校舎を一通り見てまわるのだが、特に文句もなく帰っていくので、第二読書部への信頼は揺らいでいないのだろう。
実際、部員たちはよく掃除をした。
いつだったか、先輩の一人が「ねえ、私たちって、読書部って言うより、ほとんど掃除部じゃない?」と笑ったことがある。そのくらい、部の活動のほとんどを掃除に費やしていた。
だからと言って、いやいややっていたわけではない。
この校舎に愛着があるからこそ、だ。
天音もそうだ。特に、このレトロな雰囲気がお気に入りだった。
先輩たちにそう言ったら、「そうでしょ、そうでしょ」と、先輩たちは自分が褒められたかのように喜んだ。
「なんだか昔にタイムスリップした気分ですよね」
天音の『タイムスリップ』という一言に、ファンタジー好きの血が騒いだのか、そこからは大妄想大会になってしまった。
「タイムスリップっていうか、この校舎自体がタイムマシンだったら面白くない?」
「私はここの教室の扉を開けるときはいつも、異世界につながってたらどうしようって、考えちゃう」
「わかる、わかる。扉を開けたら森でした、とかね」
「私はね、私たちが帰った後、ここはお化けの学校になってるって信じてるよ」
「えー、キツネとタヌキの化け学校の方が良くない?」
皆、この校舎を愛していた。
でも、それも今日が最後。
感傷的になりたくはなかったのに、雑巾を持つ手は思い出を手繰り寄せようとしてしまう。
木の校舎のあちこちに思い出がいっぱい散らばっていて、いとも簡単に拾いあげることができてしまうので困る。
この一階の保健室でも、そうだ。
ここは、先輩たちと初めて対面した場所だった。
普段は二階の教室を部室として使っているのだが、部活動説明会があった日の放課後、先輩たちはこの部屋に受付を作り、新入生を待っていた。
後から聞いた話だが、一応待ってはみたものの、入部希望者が本当に来るとは思っていなかったのだそうだ。
なにしろ前年の新入部員はゼロ。この年も、はなから諦めモードだったのだ。
そこへ、天音がやって来たものだから、保健室は大騒ぎになった。
トコトコと一人、歩いてくるのが窓から見えていたのだという。でも、きっと手前の園芸部に行くと思っていたらしい。
なのに、園芸部の花壇を素通りするではないか。
「うそでしょ、うそでしょ、うそでしょ」
天音がスリッパに履き替えて、矢印伝いに保健室の扉を開けたとき、先輩たちの興奮はピークに達した。
「うそでしょ、キャー」
「キャー、一年生が来た!」
「どうする、どうするのー」
「キャー、キャー、キャー」
事情を知らない天音はただただびっくりしてしまって、とっさに逃げ出そうとした。部長がタックルするような勢いでがっちり捕まえてくれなかったら、そのまま帰ってしまっていただろう。
「ちょっと皆、一旦落ち着こう! 一年生が怯えちゃってる」
そう言う部長もハアハアと謎の荒い息をしていて、怖かったことを覚えている。
保健室の棚を拭きながら、天音は思い出し笑いをした。
――あのときの先輩たち、おかしかったなあ。
以前、クラスメートに「自分以外、全員先輩って、つらくない?」と、同情されたことがあるが、とんでもない。天音は先輩たちにとても良くしてもらった、と思っている。
保健室をあらかた拭き終えて、天音は廊下に出た。次は二階の教室の掃除だ。木の手すりを雑巾で拭きながら、階段を一段ずつ上っていく。
大勢の生徒が上り下りできるよう、ここの階段は幅広に作られている。その分、踊り場の面積も大きい。
天音はこの踊り場に、ふざけて魔法陣を描いたことがある。
先輩の引退が迫っていた頃のことだ。寂しさを紛らわせたくて、その頃はいつも必要以上にはしゃいでいた。先輩に「またバカやってるよ」と、笑ってほしかったのだ。
バケツの水にモップを浸して、びしょびしょ濡れのまま「えいやっ」と、まずは大きな円を描いた。
一階から先輩の一人が「何をしてるの?」と上がってきた。
「魔法陣を描いてるんです」
天音が言うと、先輩は大笑いをした。
続けて、円の中に紋様を描きこんでいると、一階から他の先輩たちもぞろぞろと集まってきて、階段周辺はすっかりにぎやかになった。
「やだ、天音ってば、フリーハンドで魔法陣が描けるの?」
「そういえば、いっつもあの本を読んでたもんね」
「ほんと、どんだけあの本を読みこんだのよ」
先輩たちの言う『あの本』とは、部室に置いてある古い本のことだ。
卒業した先輩の誰かが置いていったのだろうが、いつからあるのか、誰も知らない。
相当古いのか、ボロボロで表紙がない。後ろの方のページも失われていて、いつ頃、どこの出版社から出されたのかもわからないような状態だった。
タイトルも著者名もわからないが、内容は悪魔の召喚術を詳しく解説するもので、天音の中二心をいたくくすぐった。
天音はこの本に『誰でもできる悪魔召喚』というふざけたタイトルを勝手につけて、暇さえあれば読みふけった。おかげで、鼻歌交じりに魔法陣を描けるまでになってしまった。
天音は魔法陣を完成させると、中央に立ち、人差し指を天に突き立てた。
「出でよ、ダンタリオン!」
芝居がかった天音のポーズに、先輩たちは腹を抱えて笑った。
「っていうか、なんでダンタリオン? 悪魔なんて他にたくさんいるじゃない」
「私はルシファーの方が好きだなあ」
「私は絶対ベルゼブブ」
「えー、普通にサタンでいいじゃない」
先輩たちが口々に好きな悪魔について語りだす。
天音はそんな先輩たちに反論した。
「でも、ダンタリオンって、いつも本を持ってるんですよ。私たちにぴったりな悪魔ですよ」
先輩たちが「なるほどね、そうかもね」と納得してくれたところで、二階から部長がほうきを持って下りてきた。
「こら、あなたたち、おしゃべりしてないで掃除しなさい。はい、解散解散!」
「はーい」
部員たちは誰も部長には逆らわない。誰よりもまじめで、しっかり者の彼女がいなければ、この部が成り立たないと、皆ちゃんとわかっているのだ。
一人っ子の天音にとっては、彼女は頼りになるお姉さんでもある。
廃部が決定したときは、だから真っ先に連絡を取った。
部長は卒業後、地元を離れてしまったため、気軽には会えない。せめて声が聞きたくて、天音は直接電話をかけた。
「先輩、ごめんなさい。私の力不足で……」
廃部になったことを知らせると、「私たちの方こそ、ごめんね」と逆に謝られてしまった。
「ごめんね、天音を一人にしちゃって。ごめんね、一人で背負わせちゃって」
部長は天音を責めたりしない。だから、余計に泣けてくる。
電話を切ってから、天音は布団にもぐって大泣きした。
思い出すと、今でも涙がせりあがってくる。
――ダメだなあ、私って。
目をいっぱいに見開いて、泣くのを必死に我慢する。その甲斐もなく、瞬きした拍子に一粒、ポロリと落ちてしまった。
頬を滑り、顎を伝って落ちた涙は、木の階段の踊り場に小さな丸い染みを作った。
次の瞬間――
天音は青白い光に包まれた。
光は天音を取り巻くように円を描く。
そして、次々と細かな紋様を浮かびあがらせていく。
「えっ、なに、なに?」
どこかで見た紋様だ。
それもそのはず。
これは天音がいたずらで描いた、いつかの魔法陣だ。
魔法陣が発光しているのだ。
「な、なんで?」
水で描いた魔法陣は、乾いて消えてしまったはずだ。
それがどうして今になって……。
しかし、戸惑っている暇はなかった。
突然、足元がぐにゃりと歪み、天音はよろけて転んでしまう。階段の角に腰を打ちつけ、痛みに呻いた。
だけど、目の前の光景は痛みを遥かに凌駕する。
踊り場がぐにゃぐにゃと波打っているのだ。
木造校舎がぐらぐらと揺れる。
建物全体がミシミシと悲鳴を上げている。
窓枠は、ひしゃげる寸前だ。
今、自分がとても古い建物の中にいるということを、否応なく意識させられる。
――脱出しなくちゃ。
そう思うのに、腰が抜けて動けない。
目の前の魔法陣の中央に黒くて丸い穴が開くのを、ただただ見ていることしかできない。
穴がじわじわと広がって、何かがせり上がってくる。
「うそ、うそ……、信じられない……」
言葉とは裏腹に、今なにが起きているのか、頭ではちゃんと理解していた。
「魔法陣が……発動しちゃった!」