6‐9 継受
平兵士寮の裏で、クロウスは真黒なローブを羽織っていた。額にぽつりと雨粒が落ちる。上を見上げれば空は真っ暗だった。まだ日も落ちていないのに、辺りは夜のようだ。そして間もなく雨は本降りとなる。少し離れた所では同じく黒いローブを頭から被っているスタッツが様子を見ていた。
もうこの兵士というものに何の未練もない。確かに馬術や様々なことを学んだり、剣の使い方の幅が広がったのには感謝している。そしてエナタと出会ったことは何よりも得たことだ。だが今残っているのは、重く圧し掛かっている、人が理不尽に殺されると言う事実――。それを目の辺りにした時に何かが弾ける。もうそこから抜け出し、新しい世界に出たかった。
だが新しい世界をエナタやスタッツと生きていくためにも、今はやらなければならないことがあった。
一人感慨に耽っていると、スタッツが険しい顔をして駆け寄ってくる。
「クロウス、とんでもないことになったぞ。エナタが馬を一頭奪って脱走した」
「え……、脱走?」
「警備がきつくなり始めている。どういう経緯があったにせよ、俺達もここから移動しよう。エナタと約束した場所に」
「……祈りの場所か」
マイワールから拝借していた馬に乗り、二人は雨の中を走り始めた。祈りの場所は馬を最大限に走らせて、半日程度で着くことができる。だがこの雨の中、全速力で走るのは困難なことだ。着くのは夕方近くになるかもしれない。
スタッツを前に走らせて、適度な足場を見つけながら走る。クロウスはずっとスタッツの背だけを見て走らせ続けた。だがふとこの雨の中では奇妙な色が目につく。
振り落とされないように首を右に向けると、そっちの方でも馬が一頭走っていたのだ。そこに乗っている人は金色の髪の青年。表情はよく見えないが、禍々しい雰囲気が漂っているのは間違いなかった。その雰囲気からクロウスは眉を顰める。
「あいつはまさか……ケルハイト?」
クロウスは研修時代から剣術だけはトップクラスにいたため、その名前だけは知っていた。すごく強い金色の髪の剣士がいる、会えば雰囲気からその人だとわかるよ、と聞かされていたのだ。それがまさかこんな所にいるとは……エナタの悲痛な表情が浮かぶ。
「クロウス、今の名前は何だ?」
雨音で聞こえないはずなのに、スタッツはクロウスの呟きも逃さなかった。
「手だれの剣士さ。そいつが向こう側で馬を走らせていた」
「何だって、それは確かか?」
「スタッツも感じるだろう、あのオーラを!」
その言葉だけでスタッツは全て了解したようだ。馬を走らせる速度を遅らせて、クロウスと並ぶ。
「クロウス、お前は先に行ってエナタをネオジム島に連れて行け」
「スタッツはどうするつもりだ?」
「あいつに牽制を掛けてくる」
「無理だ! いくらスタッツとはいえ、あいつは強すぎる」
「無理って始めから言うなよ。ここで止めなきゃ、エナタは確実に死ぬぞ」
死という言葉にクロウスは過剰に反応した。
「なに、牽制するだけだ。この俺がそんなこともできないと思ったか? さあ、クロウス、さっさと行くんだ!」
背中を押されるような声にクロウスは出てきそうな言葉を飲み込み、馬の速さを上げた。それをスタッツは見届けると、徐々に右の方へ進路を変え始める。
目の前の扉を勢いよく開いた。質素な作りの小屋に雨が激しく屋根を打ちつけている。エナタは真っ直ぐ歩き、奥の方にある石の前まで来た。肩を激しく上下させながら、石に触る。
「お父さんが言っていた、始まりの石――」
濡れた服から取り出した小さな石をその石に当てる。二つは共鳴するかのように、微かに光り始めた。それを見て、エナタは思わず笑みを零す。
膝を付き、両手を胸の前に握りしめて目を閉じた。そしてひたすらにこれからのことを想いながら祈る。その僅かな時間からは何も残すことはできないとエナタは分かっていたが、石を見ると、何故だか祈らずにはいられなかった。
開けっ放しの扉から濡れた靴で踏み入る音が聞こえる。そっと立ち上がり、エナタは振り返った。その人物を見て、目を丸くする。
クロウスが今にも泣きそうな顔をしながら近づいているのだ。
「エナタ、よかった……、無事で」
「ごめん。色々ありすぎて、勝手に脱走しちゃった」
「いいんだ、お前が無事なら。それよりも早くここから逃げよう。あの手だれの剣士と謳われているケルハイトがこっちに向かっているんだ。だから一刻も早くここから離れよう……!」
エナタの前に大きな体が立ち止まった。そして彼を愛おしそうに眺める。
エナタより遥かに大きい体の持ち主であるが、心の中はいつまで経っても子供のまま。穢れていなく、真っ直ぐな心の持ち主にエナタはいつしか惹かれていた。でも決して彼女はその想いを伝えはしない――。
今考えるのは彼とそしてこれから彼と出会う人のこと。もう時間はなかった。
エナタは何の予備動作もなく、クロウスに抱きつく。その行為に多少は驚かれたが、逆にきつく抱き返された。鼓動が直に伝わってくる。それがエナタにとっては逆に辛いことだった。それでも声を振り絞って出す。
「お願い、何も言わずに聞いて。クロウス、あなたに私が持っているものを受け継いでほしい」
「なっ……!」
「何も言わないで。私のことを助けると思って受け継いでほしい。ただ持っていればいい。きっと時が経てば同じような石を持った人と出会い、あなたはやらなければならないことに行きつくと思う。それを成し遂げてほしい、私の代わりに」
力が抜けた手から、エナタはクロウスを引き離す。何を言っているんだと愕然とした表情をしていた。そんな彼の右手にエナタは持っていた橙色の石を握りしめてやる。
「これはあなたをこれからきっと導くものになる。だから大切にして」
「……っそんなこと、言わないでくれ! 一緒に逃げるんだろう? どうしてそんなことを言うんだ!」
クロウスは堪らず押さえていた言葉を吐き出した。エナタは少し寂しそうな、けれども揺るがない決意をした表情をして言い返す。
「いいから、大人しく私の言うことを聞きなさい! 私はもう逃げられない。一緒に逃げたら、クロウスだけじゃなくてこの国全体に迷惑を掛ける。だからここで最後に私しかできないことをするの。お願い、その気持ちを汲んで……!」
「だからって……諦めるなよ。俺はずっとお前のことを――」
だがクロウスの声はとてつもない殺気と共に遮られた。
石をポケットに入れて、エナタを背に庇うようにしてクロウスは振り返る。ケルハイトが雨や風で乱れた髪を整えて立っていた。
「エナタ・マーベル、急いで戻ってもらおう。これはお願いではなく、グレゴリオ様直々の命令だ。断ることはできない」
「グレゴリオだって……!? 一体、エナタが何をしたって言うんだ!」
ケルハイトは目障りそうに声を上げたクロウスを見る。
「なるべく傷付けずに連れて帰れということだが……」
言い終わる前に、クロウスは腰から剣を抜き、走りだしていた。エナタが止める時間も与えない。舌打ちをしながらエナタは両手を地面に触れると、大きな声を出す。
「土よ、刺せ!」
そう言うと、ケルハイトの目の前に突然先の尖った土の塊がせり出す。身を逸らすようにそれを避けると、すぐ横からクロウスが剣を振りかざしていた。
ケルハイトは剣を途中まで抜きつつ刃をクロウスの刃に当てる。そして一気に抜き去ると、その衝撃でクロウスを弾き飛ばす。
歯を食い縛りながら、必死に足で耐える。だがすぐに第二撃は迫っており、それをやっとの思いで受け止めた。
受け止めるのに精一杯で、刃以外に注意を払うことができない。
急に腹に違和感がしたかと思うと、ケルハイトの足によって、一気に押し蹴らされてしまう。
クロウスは勢いよく開いていた扉を突き抜けて、外に押し出される。そして追撃とばかりに、ケルハイトは手を開くと中から細かな刃が飛び出し、クロウスへと刺して行った。
「クロウス!」
雨に打たれながら痛々しく悶えている少年を見て、エナタは血相を変えて叫ぶ。一瞬の攻防で分かった、ケルハイトの力量。クロウスは平兵士の中での剣の使いはトップレベルだ。それでもいとも簡単に蹴散らされてしまった。
これ以上何を抵抗しても無駄だろう。ケルハイトはエナタに背を向け、ゆっくりとクロウスの方に向かって歩き出す。
「待ちなさい!」
エナタは必死の思いで声を出す。ケルハイトは再びエナタの方に向き直る。
「あなたは私が目的なのよね?」
「そうだ。だが邪魔する者は容赦なく斬る。その男も例外ではない」
「じゃあ、彼を殺すっていうの?」
「そうだ」
感情もなしに冷たく言い放つ声にエナタはぞっとする。だがエナタの心はそれくらいでは折れなかった。
微かな汗が首筋を伝わる。
そして、エナタは馬を奪う際に一緒に奪った短剣を自分の首筋に添えた。
ケルハイトの眉が微かに動く。クロウスも雨で視界が霞む中、発せられる気配からただ事ではないことが起こっていることが分かった。立ち上がろうとするが、痛みがまだ残っており、苦痛で体をくねらせる。
「彼に手を出したら、私は自分の首を斬る。嘘じゃない、本気よ」
声から迷いは感じられなかった。確固たる視線でケルハイトを見据える。クロウスはそれを聞いて目を丸くする。何を馬鹿なことを言っているのか、どうして逃げないのかと、声に出そうとしても出てこない。
「それは脅しか?」
「脅しともとれるでしょう。ああ、私を止めようとしても無駄よ。さすがのあなたでもこの距離を移動するのと私が斬るまでの時間には敵わない」
エナタとケルハイトの間はだいたい大人の大股で二十歩程度。さっきの魔法を出したとしても、際どいところだ。エナタはより強く刃を自分の首筋に押し込む。健康的に焼けた肌からは赤いものが一筋流れ出る。
「魔法の力を得てどうなるの? あなた達は何も分かっていない、魔法について」
「何が言いたい」
「あなた達なんかに私の想いを渡さない。あなた達なんかにこの国の行く末を奪わせない」
クロウスは一音一音心に刻み込むようにエナタの言葉を聞いていく。
ようやく立ち上がったが、すぐにふら付いてしまう。だが倒れるのではなく、誰かに支えられる。ちらっと後ろを見ると、頬を始め全身に細かな傷を負っているスタッツがいた。そしてクロウスに向けて囁く。
「クロウス、逃げるぞ」
「はっ?」
「これがエナタの願いだ」
そして抱え込むようにクロウスを掴むとなす術もなく、馬に乗せられた。そして険しい顔をしながらスタッツも一緒に乗り込む。それを見ると、エナタはほんの少しだけ安堵の表情を浮かべる。抵抗しようとしたがその表情に惹きつけられて、冷静な部分が表面に出てきていた。
動くべきではない、感情を抑えるべきだと――。
そしてエナタは大きく息を吸い込みケルハイトやクロウスだけでなく、ノクターナル島、そしてエーアデ国全体にその想いをぶつけた。
「想いを未来へと繋げるのが私の運命ならその選択肢を取ろう。私はこれからの未来の人々や国ために決断する! ……さあ、お別れよ。ありがとう。そして……さようなら……」
クロウスが唾を呑んだときにはスタッツはすでに馬を走らせていた。
最後にクロウスの目に映ったのは、エナタが思いっきり自分の首筋に対して剣で横に引いた場面。
激しく鮮血が飛び散る。石に倒れ込み、その石にも血が付く。そしてだらりと手を床に付けた。
「エナターーーーっ!」
クロウスは叫んだ。届かない声だとわかっていながらも、雨で声が消されようがただ叫び続けていた。自身の流れた血で意識が失われるまで、エナタへの想いと己の無力さ痛感しながら叫び続ける。
大切な人を失ってしまった事実を認めたくはなかった。だが、その事実は揺るがない。
怒涛に降る雨と共に、クロウスの目からも涙が流れ出ていた――。