6‐8 邂逅
エナタはクロウスと同様、前々からノクターナル兵士について疑問を持っていたらしい。だが、それでもここでは得るものがあるだろうと、必死に毎日耐えていたのだ。クロウスよりも遥かに圧力や妬みなどを受けながらも、日々を過ごす。しかし今回の事件でようやく思い知ったと言う、ここにいては様々な意味で身が持たないと。
このまま行方を暗まそうとも考えたらしいが、最後にどうしても調べたいことがあり、そして数少ない世話になった人達に別れを告げたいと思い戻ってきた。そしてエナタ自身と同じ想いを持っている少年に提案を持ちかけたのだ。
エナタからの申し出に驚き、すぐには返答することができなかった。だが、薄々と兵士に対して疑惑が渦巻いていたクロウスにとって、それはある意味嬉しい提案。帰りにはそっとその想いを伝えていた。エナタの表情は不安そうに見えたが、それを隠すのかのように笑みを浮かべて一言だけクロウスに告げる。「ありがとう」っと。
それから一週間、エナタは図書室などで何やら本を読み更けていることが多くなった。その本は持ち出し禁止でノクターナル島のみに発行されている本。調べたいことがあると言っていたのを思い出し、その様子を遠目でクロウスは見ていた。
ただ、エナタが生きていたことに安堵していたクロウスは、さらに後ろからエナタへ突きつけている鋭い視線に気づいていない。
エナタが帰還してから、二週間ばかり経ったときだった。突然エナタが上役会議に呼ばれたのだ。それを聞いてさすがのエナタも顔を強張らせている。上役会議に平の兵士が呼ばれるのは大抵良いことではない。だがあのエナタが悪いことで呼ばれるはずがないと同期の人達は言っており、おそらく昇進に関することだと囁かれていた。確かに勉学や魔法、剣術、行動力などそれらを総合的に見ると、昇進するのはおかしいことではない。
上役会議の直前、エナタはクロウスを呼び出していた。寮の裏、ほとんど人の気配がない森の中で、いつも以上に沈痛な面持ちのエナタをクロウスは見ている。
「どうした、エナタ。もうすぐ会議が始まるじゃないか」
「……今から言うこと、必ず守って」
エナタは今までずっと握りしめていた右手をクロウスの胸に手を当てた。大きな体に小さな手が折り重なる。
「……私の身に何があっても、クロウスは必ず逃げてね。スタッツがちゃんと手配してくれるから」
「何を言っているんだ?」
驚き呆然としているクロウスの顔を見ることなく、エナタは手を離した。
「それじゃあ、行ってくるね」
エナタは静かに言うと、軽やかに駆けて行ってしまった。触れられた所から仄かに残る温もり。それから伝わるのは安堵や嬉しさではなく、漠然とした不安だけだ。
その不確かな不安から、確信へと変わるのにさほど時間は要さない――。
その会議の後、エナタは平の兵士達が生活している寮から上役が生活している場所へ移動された。寮の部屋よりも広い部屋を宛がわれ、いよいよ平兵士の中ではエナタが昇進する話で持ちきりになる。だがエナタの荷物を移動する際、本人ではなく他人が運んだと小耳に挟む。それはどこかおかしいことだ。まるで誰にもエナタと会わせたくないような印象を受ける。事実、あれ以来クロウスはエナタと全く会っていなかった。
一度接触しようと試みたが、平兵士が全く入れない所にいるため入口では通してくれない。エナタの名前を挙げればよかったかもしれないが、クロウスの冷静な部分がそれを止めさせていた。挙げれば会えるかもしれない、だがそれは彼女にとって望んだことではないだろうと。
だから次の休みのときに、スタッツの所に行くのは必然だった。最後にエナタと言葉を交わしてから一週間も経つ。その日、スタッツはクロウスと会うと、すぐに場所を移動させて森の中にある小屋へと連れて行った。
空は徐々に黒い雲で覆われ始めている。雨が降るのもそろそろだろう。
小屋はとても質素な造りで、人が簡易的に住める所だと思われる。
スタッツは酷く神妙な顔をしながら、使い古されたコップに茶を入れてクロウスに差し出す。簡単に作られた丸い木の机を囲んで二人は座り込む。
「この小屋は最近、俺がノクターナル島で拠点としている場所だ。それもそろそろ捨てる」
「どうして捨てるんだ? ああ、ネオジム島に戻るのか?」
「それも一理ある。だがもう一つ。このままこの島にいては大変なことに巻き込まれそうだからだ」
クロウスは思ってもいない言葉に面食らった。スタッツは何か言いたそうなクロウスを遮って続ける。
「……そろそろ本格的に魔法の力を得るために純血狩りを始め、そして何やら大層なことをするために他の島との接触を一切禁止するそうだ、情報が漏れないために。そのため俺が見つかれば双方ともに無傷では済まないだろう」
「どうしてそんなことが……。俺達には全然そんな話出回っていないぞ!」
「知っているのは一部のお偉いさんだけ。少々危険だったが自分の耳で得た情報だ。ただそれが実行されるまで少しだけ時間はかかる。まず純血狩りは……、治安維持部隊から始めるかもな」
淡々と告げられる言葉を聞き、クロウスは握っていたコップを離した。高さもないため割れはしないが、中に入っていた茶が零れる。そして声を振り絞って、思いついた考えを言う。
「まさかエナタもその関係で、向こうの手の中に落ちているのか……?」
すぐに答えず、スタッツは静かにコップを置いた。
「おそらくな。純血であり、治安維持部隊で不審な行動をしていたとして、現在は監禁状態となっているだろう」
それを聞き、がばっとクロウスは立ち上がる。
急いで外に出ようとした。だがスタッツがそれに対して、一喝する。
「待て、クロウス! その状態で動いても何も変わらない。むしろ悪化するだけだ!」
ドアノブに握ろうとした手は止まった。歯がゆい思いで、後ろを振り返る。
スタッツは手を拱き、そして再び座るように促す。クロウスは自分の心を抑えながら、スタッツの言う通りにする。
「……エナタはどうやらあの事件の時に、他の島の重要人物と接触していた。それがどこかで知られたのか、または部隊に戻って調べている内容があいつらの耳に入ってしまったのかはわからないが、それがあいつらの琴線に触れたらしい。いつもなら上手く立ち回っていただろうが、今回は慌ててそこまで気が回らなかったのだろう。一刻も早く兵士から脱退――いや島から脱走するために」
「他の島の重要人物って誰だ?」
「それはわからない。大方見当は付くが、確証が少なすぎて、今は言いきれない」
クロウスはじっと床を見つめたまま、視線を上げない。スタッツは近くに転がっていた紙袋から大きな紙が折りたたまれたものを取り出す。
「……エナタを救出するなら、チャンスは一回だ。ただその一回がとてつもなく重く、難しい」
クロウスは語尾が震えている青年を真正面から見た。いつも物怖じせず出す言葉が揺れている。
「エナタはこうなることを予想していたのかもしれない。そして救出を試みることをエナタは望んでいないかもしれない。それでもなお、もしやるのならお前は兵士を裏切る形となり、もうここには戻ってこれないだろう。それにノクターナル島に足を踏み入れるのもしばらくは難しくなるかもしれない。それでもやるのなら――」
「やる。力を貸してくれ」
その言葉に迷いはなかった。迷わせるとすれば、少年が最も憧れていた人の瞳だけだろう――。
スタッツはクロウスの意志をしっかり受け取り、その紙を広げる。そこには治安維持部隊の建物全体が描かれていた。
* * *
自然と目を覚めた。日の光のおかげではない。生き物が持っている所謂体内時計のおかげで目覚める。
エナタが宛がわれた部屋は確かに広かった。牢獄に入れられることを覚悟していたが、通されたのは普通の部屋。電気まで通り、しかもトイレとお風呂場まで付いている。だが窓は暗幕の上に鉄格子が嵌め込まれ、ドアも真黒な鉄でできていた。一瞬、魔法を使おうと思ったが、あまりの頑丈さに無理と悟る。牢獄よりもむしろ気味が悪く、気が滅入りそうだ。
今日も真黒な鉄のドアから情けとばかりに出される食事を口にする。始めは毒が入っているかと警戒したが、どうやら普通の食事。殺す気はないということがわかった。おそらくエナタが純血であるからということが付随しているのだろう。
食事が終わった所で、無機質な音とともにドアが開かれた。その人物を見てエナタは肩を竦める。いつも聴取を取っている中年の男性とその護衛をしている青年二人だ。背格好は似てはいないが、無駄に鋭い目つきだけは似ていた。
「今日こそ、吐いてもらおうか」
意気揚々と言いきる中年の男性にエナタは溜息を吐いた。それが癇に障ったのか、男性はエナタの胸倉を掴む。
「この女、こっちが殺さないとわかっていてそんな態度を……! もういい。殴り殺してやれ!」
傍にいた青年がそっと宥めながら、物騒なことを発する。
「ちょっと待って下さい。殺してしまったら、もともこうもないじゃないですか。適当に動けない程度にしましょうよ」
それを聞いて、中年の男性はエナタを床に叩きつけた。その衝撃で舌を噛み、口から血が流れる。
「恨むのなら、もう少し素直になろうとしないお前自身を恨むんだな!」
エナタは手を床に向かって広げた。そして気配で押されることなく、睨み返す。
――ここから逃げるのはちょっと面倒だけど、どうにかなるでしょう。
男達は拳を振り上げようとした。エナタはにやっと微かに口に笑みを浮かべながら、来るものを迎えようとする。
だがまた鈍い音とともに鉄のドアは開かれた。男達は誰だ、という思いで視線を向ける。だがそこに現れた人物を見た瞬間、凍りついた。
エナタも只ならぬ殺気に全身に悪寒が走る。
金色の整った短い髪を揺らした青年がいた。腰からは三本ほどじっくりと重そうな長剣が見える。クロウスと容姿は微かに似ていたが、そこから発せられる雰囲気は全く違う。表情が読めない。無表情の男に今までにない恐怖を感じた。
「ケルハイト様、どうしてこのような所に……!」
三人の男達が慌てて直立姿勢になる。ケルハイトと呼ばれた青年に対しておどおどと行動している。
エナタはゆっくりとケルハイトから視線を逸らさずに、自分の記憶を辿る。ケルハイトという男の素性を――。だがすぐにその青年に関する記憶は出てこない。ケルハイトは抑揚のない声を出す。
「エナタ・マーベルをグレゴリオ様が会いたいという。そのために迎えにきた」
グレゴリオという単語を聞いて、さすがのエナタも驚いた。グレゴリオは研修時代から耳に穴があくほど聞いた人物の名前だ。治安維持部隊を創設した人として、ノクターナル島の影では最も有名な人として、そして実力者として名を轟かしている。魔法を使うよりは研究を主にしていて、実際に顔を拝んだ人は殆どいないと言う。
ケルハイトという男はグレゴリオの護衛、つまり相当な実力者であるだとうと勘付いた。
「あなたがエナタ・マーベルだな。さあ、早く行くぞ。グレゴリオ様が機嫌を損ねたら敵わない」
出される声を聞いて徐々に胸の不安が広がっていく。ここで抵抗したら、三人の男性を相手にするよりも恐ろしいことが起こると思い、促されるままに立ちあがった。そして速くなる鼓動を押さえながら、ケルハイトに近づく。それを見るとケルハイトは廊下に出て進み始めた。廊下からは眩しい電気が零れている。
その先にあるのは希望か、それとも絶望か――。
何としてでも最低限のことはやり遂げないといけないと、エナタは自分自身に固く誓った。
廊下にはいつも以上に緊張が漂っている。前方から来る人々はさっと道を開けて、ケルハイトに対して通路を作った。それに何も返さずに黙々と進んでいく。エナタは拘束されていない自分を見て、よほど自信があるのだろうと感じた。確かにこの状況では逃げようと思わない。
階段も何段か上がり、ようやく見えてきたのは荘厳な作りの扉だった。貴重な金まで微かに散りばめられている。扉の脇には厳重に武装された男が二人、佇んでいた。
「ケルハイト様、わざわざありがとうございます。ではお部屋にお通し致します」
男の一人が扉をノックしてから、重そうな扉を開いた。エナタは唾を飲み込みながら、ケルハイトの後ろについて歩く。
部屋には白い髪の男性が外から漏れる光を見ながら背を向けていた。そしてもう二人、長い黒髪の女性と短い黒髪の女性が妖艶な笑みを浮かべている。二人は髪の長さ以外では全く同じ容姿をしていた。双子の姉妹だろう。
「グレゴリオ様、エナタ・マーベルを連れてきました」
「ああ、ありがとう。すまないが、三人とも席を外してくれ」
そう言うと、ケルハイトと女性達は何も言わずに部屋から出て行った。
部屋には平兵士のエナタと最高実力者のグレゴリオだけが残る。それは傍から見れば、ありえない光景だと思うだろう。
「さて、エナタ・マーベルだね?」
「はい」
気持ちだけは負けてはいけないと、必死に強がる。グレゴリオは振り返り、エナタを真っ直ぐ見た。聞いていた話からでは、グレゴリオはプロメテと同じくらいの四十歳過ぎの男性。だが顔に広がる疲労感や表情からはもっと上に感じられる。
グレゴリオは低く、渋めの声を発した。
「単刀直入に言おう。君は純血だね?」
「はい」
「私の研究にその身を捧げてくれないか?」
瞬間的に垣間見たグレゴリオの殺気に、言葉が喉に詰まった。
グレゴリオは少しずつ近づく。そして低い声を出しながら、エナタの様子を舐めまわすように見る。
「もし捧げてくれたら、君が監禁されているもう一つの理由、他の島の誰かと接触したという事実の追及を和らげてあげよう」
エナタはどきっとする。
――この人は何もかも知っている。
両手を握りしめながら、カタカタと肩を揺らす。その肩にぽんっとグレゴリオは手を置いた。ぎゅっと握りしめたために爪が皮膚に食い込む。
そしてグレゴリオは耳元に囁く。
「返事は急がなくてもいい。まあ、悪いようには扱わないから、安心してくれ」
手を離し、グレゴリオはそのまま扉に向かって歩き、そのまま外に出て行った。
エナタは遠ざかる殺気を感じながら、腰が抜けたように座り込んだ。
初めて会う絶対的な支持者グレゴリオに対して、自分の無力さを痛感していた。魔力はそれほどあるとは言えない。おそらくプロメテの方がある。だが他に感じる雰囲気は誰よりも禍々しく、有無を言わせないものがあった。
エナタは激しく呼吸をしながら、両手で自分を包み込むように抱きしめる。まだ震えは止まっていない。
グレゴリオは追及を和らげると言ったが、止めると言ったわけではない。そしていつかは吐かせるつもりだ。その上、自分に対しての拷問よりもっと辛いことが起きるかもしれない。
「クロウス……」
ようやく呟く言葉に出てきたのは、一番大好きな少年の名前。
そう発することで、少しずつ冷静さを取り戻していく。そして内ポケットに忍ばせていたものを手でしっかりと握りしめた。そこから微かに橙色の光が漏れる。手で覆くらいの小さな石をぎゅっと掴む。冷たいはずの石からは熱が帯びていた。
ようやく冷静に考えられる所まで思考が戻ると、エナタは石をしまう。
石から受けた温もりが残る掌をじっと見た。
「……お父さんの言った通りだった。でも私、後悔はしていない。彼と最後に会えたこと、そして彼に託せることが何よりも嬉しいから」
自分自身に呟くように言うと。エナタは立ち上がった。
そして後ろを振り返り、扉へと歩いていく。これからすることに、決して後悔はなかった。