5‐12 進む者止まる者
殺人事件で慌ただしかった魔法管理局は犯人が傷を負って海に身を投げたという情報を得たため、緊迫した雰囲気も多少は治まった。だが犯人はわかっているだけで五人を殺し、三人を意識不明の重体にさせ、そして軽傷者を多数出させたため油断はならない。数日経った今でも、依然事件部や島の治安維持局の人々は島内での厳重警備に当たっている。
そんな朝、局ではシェーラが上の空でとぼとぼ廊下を歩いていた。顔を俯かせる。そこに笑顔は全くない。
純血の少女――イリス・ケインズは、自身の魔法によって体の組織の働きを極めて抑えたため、辛うじて生きている。医師達がその旨を聞いた時は、そんなこと果たして出来るのか、と大層驚いていた。だが、いくつか検査していくうちに、現在ではその可能性もなきにしもあらずとなっている。実際、魔法によって出血を止められ、生き長らえている人もいるのだから。
今、イリスは医療部の特別室で静かに眠っている。表情は至って穏やかだ。ただいつ何が起こってもおかしくないので、医者達が常に巡回している。
シェーラも何度か見舞いには行った。その表情を見るたびに、歯痒い思いが溢れ出てくる。最善の方法を尽くせた結果がこうなのか、尽くせなかった結果がこうなのか、そんな思考が堂々巡りしていた。
考えながら歩いていたため、誰かが目の前に立ち止まったことなど気づかずに歩き続ける。だがすぐにその人にぶつかった。
「すみません、少しぼーっとしていたものですから……」
「シェーラ、今日も休めと言ったはずだが?」
ゆっくり顔を上げると、目の前には眼鏡の先から何もかも見透かしているようなルクランシェが眉間にしわを寄せて立っていた。ルクランシェの顔にたじろぎ、急いでその場を後にしようとする。
「ちょっと散歩していただけですから……。気を使わせてしまい、すみません。では、失礼します」
「シェーラ」
立ち去ろうとするのを強い声で止められる。
「何でしょうか?」
「しばらく休暇をとってもいい。そんな顔で仕事されても困るからな」
その言葉にシェーラは少しむっとした。
「平気ですよ。仕事くらいできます。部長、私のことを気にするよりもレイラさんの方をサポートした方がいいんじゃないでしょうか? よっぽど大変そうですよ」
「人が心配してやっているのに……。これからもっと兵士との抗争が激しくなる。今回のようなことがいつ起こっても、不思議じゃない。局にいるならそれくらい分別を付けろ。それが無理なら、故郷に帰ることだな」
ルクランシェは顔を真っ赤にしたシェーラを横目で見ながら、背を向けて再び歩き始める。
一気に頭に血が上ったシェーラはその背に向かって叫んでいた。
「わかっていますよ、そんなこと! 私はもう逃げません。絶対に逃げないんですから!」
踵を返し、背中を伸ばして大股で歩き始めた。弱々しくなっていた心の中の自分に叱咤する。
血もそれに同調するようにどくどくと循環しているようだ。
瞼を閉じれば、浮かんでくるのは微笑む少女の姿――。
そして突然ある会話を思い出した。逸る想いを落ち着かせながらイリスの部屋へと向う。
宿屋に着き、イリスの部屋の鍵を借り中に入った。部屋は非常に綺麗に整頓されている。まるでこうなることが予想していたような状態にシェーラは若干のショックを受けた。机には書物部から借りたらしい何冊かの本、そして大量のノートが積まれている。ノートの表紙を見ると、綺麗な字で“日記帳”と書かれていた。一番上にあったノートをそっと取り上げる。
――この日記帳に、イリス自身が伝えたかったことが書いてある。
何十冊もあるが、どれから手をつければいいかわからない。だがやはり順序だてて読もうと思い、そこに積まれているので一番古いノート、三年前のものを開き椅子に腰を掛けて読み始めた。
クロウスは鍛錬所のベンチで休んでいた。先日の戦いで再び傷を負ったため、また逆戻りの生活をしている。療養していろと言われたが、何か辛いことや嫌なことがあったときには剣や木刀を握り、無心で振り続けているのが、一番気が紛れるので、その言葉を聞かないことにしていた。
だが今回は違う。いくら振っても、振っても、雑念が入ってきてしまう。
あの時のシーンは昔見たのと同じようだった。少女が過去の想い人に被ってしまったくらいだ。
何て穏やかな表情をしていたのだろう。今は辛うじて心臓は動いていると言っても、目覚めずに止まる可能性がある。それを少女は恐れてはいないのだろうか。
クロウスより幼いはずなのに、中身はずっと年上に感じる。国と自分の命を天秤にかけて、潔く国のほうに傾かせるなんて早々出来ることではない。よほどの確固たる想いがあって出来ることだろう。だが腑に落ちないことがいくつかある。
そう、もっとも気になることは、あの場所にいたことだ。
クロウスはベンチから腰を上げると、忙しいと思われる一人の女性に会いに行く。あの日以来まともに話していない。会えるかどうかも微妙だ。だがどうしても会って話したかった。自分よりもずっと広い視野を持っているし、そしてあの人は確実に何かを知っている――。そう直感が言っているからだ。
イリスの病室では、アルセドがずっと椅子に座って彼女の様子を眺めていた。アルセドにとってこのような出来事は初めてだ。大切な人が、死の淵に追いやられている。
喋る事も、笑うことも決してない。目覚める保障は何もない。
ただアルセドはいつイリスが目覚めてもいいように、ずっと傍にいるよう心掛けている。果てしない時を要するかもしれないが……。
ドアが開く音がし、部屋の中に踏み入るヒールの音が響いた。胡乱げな目で振り返り、その人物を見る。魔法管理局で現在最も偉い、レイラ・クレメンだった。
「あらアルセド君、今日もいたの?」
大量の本を持ちながら、少し驚いた声を上げる。アルセドは答えず、視線をイリスへと戻した。
「……あまりここにいても、精神的にまいるだけよ。スタッツさんも戻ってきたことだし、一度ハオプトに帰ったら? 待っていたって何も――」
アルセドは椅子を床に倒して立ちあがり、レイラの胸倉をぐいっと掴んだ。その衝撃でレイラが持っていた本は床に音を立てて転げ落ちる。レイラより少し背が高いアルセドは見下ろす形で睨みつけた。口が震えながら、目には涙が溜まっている。
「だからってどうしろって言うんだ! どうしてイリスさんはこんな目に合わなくちゃいけないんだ。どうして止めなかったんだ。危険だと薄々わかっていたんだろう。お前が行くのを認めたから――」
レイラは冷めた目で静かにアルセドの言葉を聞く。
「お前がイリスさんを殺したも同然だ!」
激しくドアが開かれた。怒りを露わにしたシェーラが入ってくる。そしてアルセドをレイラから無理やり放し、頬に一発平手打ちをした。
「何て事言うの! 謝りなさい、アルセド!」
「……っうるせえ!」
シェーラの肩に激しく当たりながら、顔を伏せながら荒々しく出て行った。
部屋にはシェーラが小刻みにする呼吸だけが聞こえる。後ろを振り返ると、壁に背中をもたれぐっと両手を握りしめているレイラがいた。
シェーラはぶちまけられた本を拾い上げ、レイラに渡す。
「レイラさん……、大丈夫ですか?」
レイラは厳しい顔をしながら、本を受け取る。
「大丈夫よ……。いつか、誰かに言われることだって、覚悟していたから」
「きっとアルセドもまだ心の整理がついていないんですよ。あの子、イリスにご執心だったからよっぽど堪えているんです……」
「……そうね。でも今回の件、私に落ち度がなかったとは言えない」
レイラは手を広げた。そこには爪で皮膚が引っ掻かれたためか血が滲んでいる。
「まさか護衛があんなに簡単に殺されるなんて……予想が付かなかった。それにもう少し慎重に決断すべきだったのよ。兵士側に何も動きがなかったのを不思議に思わなくてはいけなかった。私だから、最後に決断を下すのが私だからもっと……」
「……例えそうかもしれないけど、イリスは命を絶たれるかもしれないことに躊躇いはなかったんです。むしろあの場所なら殺してくれと言う気持ちがあったみたいです」
レイラは目を丸くして顔を上げる。シェーラの手には何冊ものノートが抱えられていた。その表紙には“日記帳”とイリスの字で書かれている。レイラがノートに向けられている視線に気づくと、シェーラはちらっと眠っているイリスを見た。
「イリスがあの時間では伝えられなかったことが書いてあります。それを読んで欲しいを言われて、一通り重要な所は読み終わりました」
「その内容は……?」
「重要な所としては三年前からこの娘の周りに起こった出来事、虹色の書や石を含め感じたこと、そして家族のことです」
シェーラは真っ直ぐレイラを見た。少し呆然としている。
「じゃあ、全て知ったのね?」
「全てとは限りません。あとはレイラさんや……クロウスの話を合わせれば、たぶんその家族のことが伝えたかったことはだいたい……。レイラさん、教えてくれませんか? レイラさんが三年前に知り伝えられたことを」
レイラは髪をそっと掻きあげた。
「……そうか。むしろシェーラは知りたくないと思っていた。真実を知れば、きっと貴方はまた傷付くだろうから」
「もう結構傷付いていますよ。だけどここで歩みを止めたら、それこそあとで後悔する。イリスや先生が繋いだ想いも全て無駄になってしまう。私自身、心が辛くなったとしても、それで島や国がいい方向に向くのなら、私はやるって決断したんです。私自身にしかできないことがきっとあるから。だから教えてください。三年前のあの事件はどういう経緯があったのか、先生は何をしようとしたのか」
レイラはシェーラのはっきりとした言いように何故か微笑んでいた。いつもキツイ目ばかりをし、常に非難の的に立たされている副局長としてではなく、姉のような嬉しそうな微笑みである。
「……わかったわ、話しましょう。さっきクロウス君から話を聞いたから、あとはその日記帳を読んで話をまとめあげましょう。三年前の事件とシェーラと出会ってからの日記帳を貸して」
「時間、あるんですか?」
「大丈夫、適当にメーレに押しつけるから。それにこれからのために皆が知らなくてはいけないことだから、別にいいの」
シェーラは一番新しいノートから一通の封筒を抜き取ってから、該当するノートを何冊か抜き取ってレイラに渡した。
「ありがとう。じゃあ夜、副局長室に来て。クロウス君とアルセド君も誘って」
「アルセドもですか?」
「そうよ。その理由はわかるでしょ。彼も知らなくてはいけない。想いを繋がれた人間なのだから……」
静かに紡がれる言葉にシェーラはこくんと首を縦に振る。
最後にシェーラとレイラはイリスを一瞥すると、暗がりの部屋から光差す廊下へと出た。