5‐10 イリス・ケインズ
朝起きたら、お母さんがベッドからいなくなっていた。その光景にびっくりし、私は目の色を変えて探しに走った。だが探すというより、ある場所に向かっている。そこに行っているだろうと不思議と確信があったからだ。そしてその場所に急いで駆けつけた。
村から少し離れたところ、内海が遠目で見える場所に小屋がある。お母さんやお姉ちゃんと昔から何度か来たことがあった。そこにいると何故か自然と心が安らぐから。
深呼吸をしてから軋むドアを押し入った。
奥の方に人一人分くらいの高さの石が置いてある。そこにお母さんが静かに寄りかかっていた。
近づくと私の存在に気づいたのか、お母さんは細く目を開ける。
そして――、微笑んだ。
驚いた。どうしてこんな状況で笑うことができるのかと。
お母さんの周りには吐血をしたのか、赤々とした血が所々に飛び散っている。
もう生きている時間は少なくない――。
私は極めて冷静に努めようとした。
「どうして私に何も言わずにここに来たの? びっくりした……本当に」
唇が震える。お母さんはそんな私の頬に冷たい手をそっと触れさせた。
「ごめんね……。でも……時間がなくて……。あなたには本当に……申し訳ないと思っている……」
頬に触れている冷たい手を私は自分の手で包み込む。そこから感じる微かなぬくもりに堪え切れず、私は思わず目から涙を流し始めてしまった。
「そんなこと言わないで。さあ、急いで村に戻ろう。診療所に行って、治療を受ければまだ大丈夫よ!」
「いえ……私はもう無理よ……」
「やめてよ、お母さん。私を一人にしないで。お父さんとお姉ちゃんと同じように、私を置いて行かないでよ!」
泣き叫んでも何も変わらないことは知っていた。でも言わずにはいられない。もうあんな風に逝かれてしまう気持ちを体験するのは嫌だから。
お母さんはどこからか必死に振り絞って出した力で私を抱きしめた。弱々しい鼓動が聞こえてくる。微かに伝わる体温が逆に辛い。
「あなたは決して……お父さんやお姉ちゃん……そして私の後を追わなくて……いいから。この石は……確かに重要なもの……。これからの世のために……守らなくてはいけない……。でも……」
言葉の途中で咳きこんだ。床に血が落ちる音が聞こえる。
「でも……あなたは自分の幸せを考えて……。それが……家族を残す者にとって……言えること。あなたを大切にしてくれる人が……いつかきっと現れる……。だからそんなに泣かないで……」
「お母さん……」
「いつまでも……あなたを見守っているわ……」
ことりと手が床に落ちた。急にお母さんの全体重が私にのしかかってくる。
「お母さん、お母さん!」
必死に揺するが何も返事はない。弱々しい鼓動は止まっていた。それが現実を直視させる。
堪らず大きな声で泣き叫んだ。今までひた隠してきた、最後の家族がいなくなったことへの切なさを――。
石にはべったりと血が付いていた。まるでお母さんはここにいたかを証明するかのように。
顔をくしゃくしゃにしながら私、――イリス・ケインズは喉が枯れようともいつまでも泣き続けていた。
それから早くも三年が過ぎようとしていた。今はシェーラさん、クロウスさん、レイラさん、アルセド君、そして他にも優しく接してくれる人達のおかげで、とても幸せな日々を過ごしている。切なかった出来事を心の奥にしまい込み、これからの人生を目先のことだけを考えて、明るく過ごしたいと思った。でも、シェーラさんの葛藤や決意は私の忘れていた気持ちを思い出させてくれたのだ。
そして私にしかできないことをしようと思い、虹色の書の翻訳に取り組み始める。優しくしてくれた恩返しのつもりでもあったが、お母さん達が教えてくれた古代文字を読む方法を多くの人に役立ててみたかったし、何よりあんなにまで必死になって守ろうとした書の内容を最初に読みたかったからだ。
書には今まで他の本を読んでは知らなかったことがたくさんあった。やがて表紙にも埋め込まれている石について書いてあるページになる。そこを読み進めて行くと、徐々にあの時のお母さんの言葉が思い出されてきた。
そして私は知る、私にしかできないことの存在を――――。
* * *
「何よ、突然……」
呼吸が荒くなっているイリスがやっとの思いで言った内容にシェーラ達は困惑する。
「どうしてイリスの命と国の命が絡んでくるのよ!」
何かを答えたいようだが、衰弱しきっている体では口にも力が入らないようだ。
時間がない――。
シェーラの脳内では同じ考えが何度も交錯する。
――考えなくちゃ、少女を救う最善の方法を。自分だって生かされたのだから……。
突然、あることを思い出す。そう、シェーラ自身がどうして生かされたのかを。それを実行すれば、イリスは――助かるかもしれない。だが少し躊躇いもでる。初めての試みであるし、成功する可能性が極めて低い。
脇ではアルセドがイリスをひたすらに呼び続けている。
「イリスさん……、イリスさん、お願いだ。そんな弱気なこと言わないでくれ……!」
シェーラはその姿を見て、アルセドと昔の自分が被った。無理だと思っていても助からないとわかっていても叫び続けた、あの日を――。
だけどあの時の自分とは違う。やるしかない。シェーラはそう言い聞かせると腕輪の封印を解いた。そしてペンダントにも手を触れる。絶対に封印を解いてはいけないと言われたが、中途半端な魔力だけでは絶対に成功しない。静かにペンダントも外す。そしてイリスを囲むように三つの石を置いた。
アルセドはシェーラの奇妙な行動に首を傾げる。
「シェーラ、一体何をするつもりだ?」
「……できることをする。アルセド、少し下がっていなさい」
ただならぬ雰囲気が有無を言わずにアルセドの身を引かせた。
シェーラは手に魔力を込め始める。久々にぎりぎりまで出す魔力によって、全身の血が一気に沸騰するようだ。油断すればあっという間に意識が持って行かれてしまう。
精神を落ち着けつつ、目を閉じる。そしてシェーラが生かされる直前に聞いたうる覚えの言葉、そして一瞬見たあの時の記憶を頼りに口をゆっくり開いた。
「虹色の書、光の章――」
シェーラの魔力がイリスに向かって少しずつ放出し始める。
「風は大気と穏やかさを、地は大地とぬくもりを、水は海と清らかさを、火は炎とあたたかみ――」
途中で言葉が途切れる。腕に不可思議な感触があったからだ。目を開けると、小さな手がシェーラの腕をしっかり握っていた。辛そうに目を開いているが、手は決して放そうとはしない。
「何するのよ、イリス」
予想外の行動にうろたえる。
「やめて下さい……。私のせいで……シェーラさんに……迷惑をかけるわけには……」
必死になって口を動かす姿は見るに痛々しい。
「迷惑だなんて、そんなつもりじゃない」
「私は……シェーラさんが死んで……自分が生きながらえても、ちっとも嬉しくありません! シェーラさん……私が死ぬことは……決して絶望を意味しているのではありません。だからこのまま――」
「だからって、諦めないでよ! 残された者のことも考えなさいよ!」
シェーラは顔を下に向けた。黒髪がぱさりと脇にたなびく。そしてイリスの頬に一滴、涙が舞い降りた。
「お願いだから、そんなこと言わないで……。死ぬなんて言わないで。可能性がゼロじゃないんだから、やらせてよ……。もう目の前で誰かが死ぬなんて、嫌なのよ……」
シェーラの目は涙で溢れている。その様子にイリスは目を丸くしていた。誰かが死ぬことの恐れを……必死にイリスに伝えようとしているのだ。
その目はイリスをほんの少しの時間だったが、自身の考えを改め変えるのには充分だった。
そして――、イリスは微笑んだ。
「そうですね……。大切な人がいなくなるの……私も嫌です……。シェーラさんが考えているやり方以外に……もう一つだけ私の命を繋ぎ止める……方法があります」
「それは一体、どんな方法なの!?」
「シェーラさんにも負担が掛かります……。それでも……」
「いいわよ。私に出来る事なら教えて!」
シェーラの目から涙の影は消えていた。瞳には宿る炎。イリスは呼吸を整えるように、一度大きく深呼吸した。
「……その前にシェーラさんに……伝えたいことが……」
「何かしら?」
「魔法のこと……です。シェーラさん……魔法は……無限の産物ではない……ことはご存知ですか?」
一瞬、時が止まった。
シェーラもアルセドも瞬きすらしない。
短くも長い沈黙。
イリスはその様子を呆然と眺めていた。
「はい……?」
シェーラがやっとの思いで出した声は何とも間抜けだった。
「知らなかった……ですか。それならば……多くの人が知りませんよね……」
「ちょっと待って。無限じゃないというのなら、魔法にはいつか終わりがあるということ?」
イリスは頷く。
「世の中には……無限のものはほとんどありません……。無限と思っていたものは……実は有限のものを上手く……利用しているに過ぎない……」
ごほっとイリスは咳きこんだ。それと同時に些細ではあったが止血されていた部分から、再び血が滲み始める。
現実問題に意識を戻すのは充分だった。
「イリス、その話はまた後で。今はあなたの命を繋ぎとめる方法を教えて」
「……わかりました。もう一つだけシェーラさん……」
「何?」
「私の部屋にある……日記帳……読んでください……。他に伝えたかったこと……記してあります」
「わかったから、今は早く――」
「アルセド君……」
突然呼ばれたアルセドはすぐにイリスの傍に寄る。
「何だい、イリスさん」
「これを……受け取ってほしい」
イリスはポケットから黄色の石を取り出した。ソレルを癒し、虹色の書に本来の力を出させる、不思議な力を秘めている石を。
アルセドは頷き、しっかりと石を受け取る。だが受け取った瞬間、不意に後ろに倒れそうになった。
「う……、何だか変な感じが……」
「ごめんなさい……。この石は魔力を増幅することもできるもの……。だからあまり魔法に依存していないアルセド君には……しばらく辛いかもしれない……。でもお願い……私の想いを……」
「わかったから。俺は大丈夫だから。イリスさんの想いをしっかり受け取るから」
イリスは苦しい顔をしながらもにっこり微笑む。そして渡した手でシェーラの腕を掴んだ。
「……シェーラさんに私の魔力を半分分けます。それで……私の役目を引き継いでください……」
「役目って……?」
「それは日記帳に……。そして……私は自分自身に魔法をかけます……光の章を」
「待って、そんなこと出来るの?」
「わかりません……。成功すれば……私の身体機能を限りなく止めることができるかもしれない……。そうすれば……しばらく体は生き続けられる……。その間に……私の役目を果たして下さい……」
イリスから伝わる温もり、視線にシェーラは何も言えなかった。ただ頷き、従うだけ。
そしてイリスは両手でシェーラの手を包み込んだ。少しだけ光ったと思うと、シェーラの中に一瞬電撃が走った。徐々に気持ち悪くなっていくが、どこか高揚した気分でもある。それは昔、プロメテから魔力を送られた時と同じ感じだった。シェーラの中に自分以外のものが入ってくるが、それ自体は悪いものではない。
光が治まりイリスが手を離すと、シェーラは全身が熱く感じられた。イリスの想いが直接胸に響き渡っている。
「イリスの魔力、確かに受け取ったわ。あとは私達に任せなさい」
そう言うと、少女は辛さを決して見せずに笑った。華のように可憐な笑顔。その笑顔はいつでも、どんな時でも人々の心を癒した。
一体、何人の人がその笑顔に心打たれたのだろうか。何人の人が救われただろうか。
だがそんな少女の命の灯火は確実に消えようとしていた。
「……では少し……休ませて頂きます……。また必ず……会いましょう……」
至って穏やかな表情だった。シェーラ達までも状況が状況でなければ、つい微笑んでしまうだろう。
アルセドは鼻を啜っている。シェーラもこれからとんでもないことをする少女をじっと見つめていた。
「虹色の書……光の章……」
そう呟くと、イリスは両手を胸の前に組み、心の中で呪文を唱え始める。
間もなくイリスは穏やかな光に包みこまれた――――。