5‐7 忍び寄る影
書を閉じ、イリスは深く息を吐きながら目を閉じた。隣では書から手を離し、大きく伸びをしているシェーラがいる。そして虹色の書の脇には、橙色と紫色の石が転がっていた。石によって浮かび上がる呪文のページを訳していたのだ。それもようやく終わり、一通り虹色の書は訳し終えたことになった。
書物部でイリスが使っている机の周りには若干安堵の空気が漂っている。
「ありがとうございます、シェーラさん。これで大方終わりました」
「お礼を言われることはしていないよ。ルクランシェ部長から、仕事はいいから自分の体と虹色の書を優先しろって言われているしね。そうだ、その訳したのをちょっと読ませてもらってもいい?」
「いいですけど、まだ清書していないので汚いですよ?」
「大丈夫よ。そう言いながら、私より断然綺麗だし……」
シェーラは綺麗に整えられて置いてある紙の山から十枚程取った。ちょうど風について書いてあるページだった。
風より大気のことを主に書いてある。大気がなければ、動物や植物は地面に立って生活をすることはできない。そして風がその大気を循環しなければ、上手く生命は成り立たない――。
「シェーラさんは、とても循環に対して敏感に魔法を使いますよね」
脇でせっせと片付けをし始めながらイリスは言う。
「まあ、それがベストな魔法を出すやり方だから。最近よく思うのが、世の中全ては循環で成り立っているんじゃないかと思うんだ。四大元素であれ、物品の流通であれ、人との繋がりであれ……、他にも色々とね。だからそれを乱すことはマイナスしか働かないと思う」
そう言うと、シェーラは紙を戻す。イリスは頷きながらそれに同意する。
「確かにその通りだと思います。さすがシェーラさんですね」
「イリスにそう言われると、何だか照れる。けど持論だし滅多に言わないことだからあまり他の人には言わないでね。……ねえ、そうだ。最近何か考えすぎていない? ぼーっとしていることが多いよ?」
「気のせいじゃないですか? 前からこんな感じですよ。ではこれをレイラさんに届けてきますね」
シェーラが持とうとするのをやんわり断ると、軽く会釈をする。そしてイリスは大事そうに書と訳した紙を持ちながら、急いでシェーラの元から去った。
「おかしい……、おかしすぎる」
今の様子に思わず口から本音が出てしまう。眉をひそめながら、イリスの言動に違和感を察知していたのだ。何か大切なことを、シェーラを始めとしてクロウスやアルセドに隠している。最近四人で食事をしている時もどこか余所余所しさがあったのだ。もちろんクロウスもその様子に気づいており、そしてあのアルセドまで気づき始めていた。
「次、会ったらちょっと突っ込んでみるか」
イリスの机はいつも綺麗に整頓されていた。レイラの汚さとは比べ物にならない程綺麗に。よく見ると、色褪せた本の中に比較的新しいノートが積まれていた。ノートの冊数を表わす数字は二桁をらくらく越えている。よほど長い間書いてあるのだろう。
本当にまめでいい子だよなと思いながら、シェーラは静かに机から離れた。
イリスがメーレによって副局長室へ通された時、数日前よりも散乱している本や紙の中で、レイラは文字通り埋もれていた。ごそっと本の山を動かしつつ、そこから飛び出すことに成功する。
「ふう、今日は危なかった。本の角が頭に当たって、意識が飛んじゃったわ」
「サブ、いい加減に整理整頓して下さい! 大切な書類がすぐにどっかに行ってしまいます。片づけたり、探したりするこちらの身も考えて下さい」
「大切な書類はちゃんと引出しの中に入っているわよ。さて用って何かしら?」
レイラはメーレのお説教など簡単に交わす。溜息を吐きながらメーレはイリスを前に出した。
「こんにちは、レイラさん。虹色の書がほとんど訳し終えましたので伺わせて頂きました」
レイラの表情が引き締まった。イリスが訳した紙を受け取ると、急いで読み始める。長年鍛えた速読の力を思う存分使う。
ざっと読み終えると、複雑な顔をイリスに向けた。
「ほとんどって、さっき言ったわよね?」
「そうです。ほとんどです」
「それはどういう意味?」
「読めばわかると思います」
「……呪文じゃない方の最後が記されていないわね。これはどういうことなのかしら?」
レイラはイリスを仕事の目線で見下ろした。意図的とも言える訳し途中に納得がいかなく、若干きつめに言ってしまう。
「……確かめたいことがあります」
押し殺したように静かに言葉を発する。
「それで明日、出かけたいのですが」
「……わかった。じゃあシェーラとクロウス君にあなたの護衛を――」
「あの二人には言わないでください!」
イリスが勢いよく言葉を遮った。その言葉に対してレイラは目を丸くする。
「言わないでって、あの二人なら護衛として申し分もない力量だし、知らない人よりも楽でしょう?」
「そうだとしても、まだシェーラさんは完全に体力を取り戻していないし、何より……二人には余計な気を使わせたくないんです」
躊躇いながらも精一杯言うイリスに、レイラは言葉を失う。
「私はずっと二人を始めとして多くの人に大切にされていました。それは立場上仕方がないかもしれませんけど、その立場に対して甘えていた部分もありました。シェーラさんやクロウスさんと一緒にいるのは確かにとても心地いいです。しかしいつまでも一緒に入られるわけじゃないですし……。それに今回行く場所はあの二人にとって行きたくない所だと思います。無理して嫌なことを思い出させたくないじゃないですか……」
儚い微笑を浮かべながらイリスは言う。その想いは譲れないものだと言葉だけでなく、視線や全身から伝わってくる。
何を言っても無駄だと思い、イリスの心に静かに諭す。
「イリスちゃんは本当に他人想いよね。でも想われ過ぎても相手は辛いだけ。二人を気遣い過ぎるのも、そろそろやめていいと思う。今のあの子達なら大丈夫よ、あなたの胸の内を言っても」
「そろそろ言おうと思っていたのです……。明日、帰ってきたら二人には話します。……レイラさんもその時には同席してもらってもいいですか?」
「ええ、いいわよ。幸い明日は局にいるから」
「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」
イリスは深々と頑なにお辞儀をする。
レイラはすぐに顔を上げさせると、メーレにイリスの護衛をすぐに手配させ始めた。
クロウスとシェーラ、そしてアルセドが話をしながら歩いていると、前からイリスが視線を下に向けながらこちら側に歩いてきていた。
「イリスさん!」
顔を上げ、三人の姿を確認するとイリスは微笑を浮かべた。アルセドはぶんぶん腕を振りながら彼女を呼び寄せる。
「皆さん、お揃いでどこに行くんですか?」
「今から町まで買い物に行こうってなっているんだ。イリスさんも一緒に行かない?」
「すみません。今日中にやらなければならないことができたので、遠慮しておきます」
「そんな……。虹色の書は訳し終わったって聞いたのに」
「また後日お誘いをお願いします」
イリスはアルセドが残念そうに溜息を吐いているのを見つつ、クロウスとシェーラに声をひそめながら話を振る。
「クロウスさん、シェーラさん、明日の夕方空いていますか?」
「明日? もちろん空いているわよ。部長が仕事をまったく入れてくれないもの」
「俺も空いている。それで何の用だ?」
「夕方、私の部屋まで来て下さい。とても大切なことをお話したいのです。ただしこのことに関してはアルセド君には言わないでください」
「……わかったわ。私もイリスに聞きたいことがあるから、その時話しましょう」
イリスは軽く会釈をする。
そしてイリスは三人を見渡して、華が咲く様な満面の笑みを浮かべながら元気よく言った。
「では、お買いもの楽しんで来て下さい。私は皆が毎日を幸せに過ごすことをお祈りしています」
そう言うと、踵を返して駆けて行ってしまった。
すると突然シェーラは一瞬目眩がしてよろける。それをクロウスは心配そうに抱えた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫。ただ……」
「ただ?」
「先生が走り去る姿が今のイリスと重なったような気がしただけ……」
呆然としながら、可憐な少女の後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。
その後ろ姿はだんだんと小さくなっていく――。
それを見ると、シェーラは漠然とした不安が浮かび上がっていた。
* * *
翌朝、レイラは物思いに更けながらも書類を読み、ハンコを押していた。それは単調な作業ではあるが、それが続くことは何より平和だということを日に日に実感している。
「ノクターナル島と話し合いをしたいな。それはきっと先生が望んでいたことだし。でもまだ無理か……」
肩を竦めながら、独り事を言う。最近よく独り事を言うのを痛感しながらも、作業を続ける。
その時突然ノックもなしに、ドアが勢いよく開いた。そこにはメーレだけでなく、他の総合部の人までいる。顔色が酷く悪い。
レイラは立ち上がり、書類の合間を器用に通り抜けながら、ドアまで駆け寄った。
「揃いも揃って、どうしたの?」
「サブ、いいですか、落ちついて聞いて下さい。……ネオジム島とデターナル島を繋ぐ橋で殺人事件が発生しました」
レイラの眉間にしわが寄る。
「そして犯人はデターナル島の方へ渡りました。犯人は二人組で一人は金髪の剣士――」
「待ちなさい。橋には事件部の剣士が何人かいたわよね。その人達は止めに入らなかったの?」
「もちろん入りましたよ。しかしすぐに……斬られたそうです。出血多量で亡くなったと連絡が入っています……」
あまりのことに言葉を失う。
橋にはビブリオの件以来、より重要な検問個所となっており、事件部でもなかなかの剣の使い手を送っている。ノクターナル兵士が不審な動きをした際、いつでも迅速に対処できるように。だがその人達が一瞬で亡くなってしまうとは、一体どんな人――。
ふと、研究所で会ったケルハイトという剣士を思い出す。そしてクロウスの顔も浮かぶ。
おそらくその人で間違いないと長年の勘からすぐに確信を持つと、呼吸を整えながら、その場にいる人に的確に指示を出し始める。
「橋の周辺の町にはいち早く情報を流して避難するようにと、治安維持局にも伝えて。島全体に警戒態勢を張るようにもお願いして。そして事件部と情報部の人にこの事実を伝えて治安維持局の人と共に、橋の状況調査、この局と橋周辺の町へ警護をするように!」
「了解です!」
「あとメーレ、クロウス君をここに連れて来て。その際、シェーラがいても構わないから」
「わかりました」
急いで出て行くと、総合部は一気に白熱し始めた。電話を掛ける音が鳴り響く。
レイラは急いで何故そのようなことが起こったかを考え始める。
――凄腕の剣士かもしれないけど、二人というのは少なすぎる。一気にデターナル島や局を陥落させる気はない。偵察にしてはやることが目立ち過ぎるし、囮だとしても後の動きは特にない。グレゴリオが自棄になって投入するのは考えられない……。
机まで戻り、亡き局長から譲り受けた一冊の古びた日記を取り出す。
――となると、デターナル島にどうしても行き、やらなければならないことがある。そのためにはデターナル島でその凄腕の人が命を落としてでもいいから、もしくは逃げ道を予め確保しておいての実行か。そう言う風にすると今回の事件、長くはない……。
ぱらぱらと日記の途中を眺める。島の全体図が描かれた地図が載っているページを開く。その地図には島一つ一つに点が打ちつけられており、場所の説明が丁寧に書いてある。そして次のページを捲ると、その場所の意味が書いてあった。
それを見た瞬間、レイラは勢いよく立ち上がり、衝撃で積んであった本の山を崩す。
この事件の全貌を悟った。
それを伝えるために、ドアへ向かおうとすると、またしてもノックなしにドアが開かれる。そこには苦しそうな顔をしたシェーラとそれを支えるクロウスが入ってきた――。
* * *
朝早くからイリスは魔法管理局を出ており、ようやく目的の場所まで着いて、危なげながらも馬から降りていた。古びているがどこか神聖な雰囲気が漂っている小屋が目の前にある。
イリスはレイラから頼まれた事件部でも選りすぐりの二人を護衛として、島外れにある小さな祈りの場所と呼ばれる所に来ていたのだ。祈りの場所は国の広い内海に面しており、その先にはネオジム島や孤島などがある。
雨曝しになっていた扉を静かに開く。天井は所々崩れ落ち、隙間をぬって外から光が差しこんでくる。
そして中央にはイリス程の高さである灰色の石がひっそりと佇んでいた。光を集めているかのようにささやかに輝いている。
石を見ると、不思議と懐かしさが込み上げてきた。駆け寄り、苔が生えているにも関わらずそっと手を乗せる。冷たい石は黄色い石と呼応するかのように、熱を帯び始めた。
「この石と七つの石は同じ材質……」
思わず言葉を漏らしながら、嬉しくなる。そしてイリスの頭の中で虹色の書が全て訳し終えた。あとは報告と――。
その時、きいっと、奇妙な音とともに扉が再び開かれた。同時にイリスは只ならぬ殺気を感じる。きゅっと握り拳を作り、振りかえると硬直した。
そこにはシェーラやアルセドをいとも簡単に戦闘不能にさせた男が涼しい顔をして立っている。そう金色の髪をした青年、ケルハイトが静かに佇んでいるのだ。後ろには小柄ながらも鋭い視線を突きつけてくる中年の男性がいる。
「おや、イリス・ケインズ嬢ではないか。これはとても嬉しき日だ。だが今日は違うようで来た」
「一体……、何の用でここまで来たのですか?」
声が上ずりながらも、どうにか言葉を出す。トップを補佐するような人がこんな所にいるのは場違い過ぎた。だが現実を見ればケルハイトはそこにいる。殺気だけでも足元が竦んでしまう。
必死に立ち続けているのを踏ん張っているイリスをよそに、ケルハイトは淡々と告げた。
「君の後ろにある石を破壊するためだ。いくら君でも邪魔なら容赦はしない」