4‐12 絶望の中に響く声
レイラは急いで入口に向かった護衛達を追いかける。形振り構わず走り抜けた。その表情を見た一同は、しばらく見なかったレイラの焦りぶりに目を見張る。シェーラもルクランシェの手を借りて、ゆっくりと後を追おうとした。
ふと皮膚が焼けるような感じがし、シェーラが振り返ると部屋の半分以上で炎が暴れている。これ以上消火を続けるのは無理かもしれないと思い、怪我をしているクロウスやアルセドを担いでもらって、急いで部屋から出るように声を出そうとした。だが心身ともに疲れ果てているシェーラにとって、それは辛い行為だ。すぐ横にいるルクランシェに頼もうとする。しかし頼むより前に、彼は指示を出していた。
「もうこの部屋から離れた方がいい。火はすぐにここまで来る。急いで準備をして、切り上げるぞ。怪我人は丁重に、だが迅速に運べ」
そう言うと護衛達は、すぐに次なる行動へと移し始めた。ルクランシェはシェーラを立ち上がらせて、先に歩くように言う。シェーラは頷き、出来る限り早足で部屋の外を出た。
外ではイリスの手を引いているスタッツの姿が目に付く。シェーラはそっと視線を落とし、横を通り過ぎようとした。だが目の前に小さな手が広がる。その手の主は何故か微笑んでいた。
「足元がふら付いています。私で良ければお手伝いします」
躊躇うシェーラを尻目に、イリスは無理矢理手を握る。
「さあ行きましょう」
こんな非常事態でもその笑顔の効果は絶大だ。か弱く、守らなければならないと思っていた少女は、今ではシェーラの背中をしっかりと押す存在にまでなっていた。手から伝わる温もりに、シェーラは思わず込み上げてくるものがあった。それを振り払うかのように、ぐっと飲み込む。一度流したら、止まらないだろう。だから、この研究所を、そしてこの島から出るまで、その飲み込んだものを出さないようにしようと決めた。
イリスの温もりに感謝をしつつ、歩みを進める。
クロウス、アルセドを担いだ人も部屋から出て、消火をしていた人達は最後の抵抗として、黒扉の部分を厚い氷で覆った。レイラの氷まで鮮やかとはいかないが、普通の人より優れている魔力を不断に使って出した氷の壁はそう簡単に破れられないだろう。
なるべく急いで入口の方へ行こうと、急ぐ一同。ほっとするのもつかの間、背後では激しく氷が割れる音がした。
レイラは息を切らせながら入口へと駆けよる。研究所に入るときは、隣の研究所から来たものだと、適当に嘘を並べて入った。いや正確には並べようとしたが、廊下には人がほとんどいなかったのだ。いたとしても、操られた人達だったためレイラ達には気にも留めなかった。
だが、さすがに今は突然の奇妙な出来事に、多くの人々が部屋から飛び出している。研究所にいたほとんどの人だろう。廊下には所々に気を失って倒れている人もいる。
レイラ、そして多くの人が唖然と見上げる先には、真っ白な壁。今はもう炎で飲み込まれているあの部屋と同じ真っ白な壁だった。
「本当に新しい壁が……」
あまりに異質な存在で真っ白すぎる壁に対して、感嘆の意を上げそうだ。正を表すその白さが、逆に怖い。
徐々に周りは、騒がしくなってくる。
「おい、この壁は何なんだ。それよりも、こいつらは一体何者なんだ!?」
中年のお腹をぽっこりだしている男がレイラ達を指で示す。ほとんどの者は寝間着や白衣を着ている。そんな中で、紺色のローブを着ていたり、武装されている男達は明らかに浮いている存在だ。護衛達はすぐにレイラを取り囲むように構え、研究者に警戒の意を見せつける。
「私らはこちらに捕らわれた仲間を助けるために来た。その用もすでに済んだ。あとはここから去るだけ。皆さんに危害を与えたりはしない」
護衛の一人が剣の柄に手を添えながらはっきりと言った。だがすぐに反論される。
「危害は与えないだと!? 素性も知らないやつがそう言っても、誰も信じねえよ。ここの者では無いのは確かだな。急いでフィンスタ様をお呼びしろ」
「――フィンスタさんとは黒色の長い髪をした方ですよね? その方なら既にいませんよ」
レイラはやれやれと肩を竦めながら研究者達の方に歩みでる。人の集まりもようやく治まったのか、駆けよってくる人はいない。
「フィンスタ様がいないなんて、嘘を言うな! グレゴリオ様が滞在する間はフィンスタ様がお出かけになさる筈がない」
「そうかもしれませんが、グレゴリオさんと一緒にフィンスタさんは行方を暗ましましたよ。それならいなくなったのも理屈が通るのではないですか?」
「グレゴリオ様とフィンスタ様が行方を暗ましただと? 何を馬鹿なことを言っている。しばらくは黒扉の奥で作業をしているはずと言い、それで――」
「すみませんが、いい加減この状況の不可思議さがわからないのですか。後ろをご覧ください。やけに眩しくないですか?」
レイラは状況を全く理解していない男に対していつも以上に苛立ちを感じてしまい、きつい言葉を投げかける。
男はむっとし、眉を顰めながらも後ろを振り返った。そこには、急いで走ってくる男や女。そしてその先には……、赤い光がちらついていた。
「なんだ、あそこにあるのは?」
「待ってください。何やら焦げくさくないですか? あれはもしやすると……」
レイラに負けず劣らないくらいの年代の女性が奇妙な臭いを察する。みるみる内に男の顔が真っ青になっていく。
「まさか、火事……!? 待て、あの先には黒扉が……!」
男は思わず駆けだしそうになる。その行動にレイラは慌てて叫ぶ。
「だからグレゴリオさん達はすでに逃げ遂せていますから、早まらないでください!」
その言葉にはたっと立ち止まる。そしてしばらく何かを考え込む。
そんな中、シェーラ達はようやくその集団とぶつかる所まで来ていた。少し離れたところでクロウス、アルセドを担いでいた護衛達はすぐに二人を横に寝かせ、治療を再び始める。一方、シェーラを始めとして、イリス、ルクランシェ、スタッツはどうにかレイラに近づこうとする。だが、大勢の人がいるためかき分けるのは容易ではない。
やがて考え込んでいた男は、くるっと後ろに振り返り、レイラに疑いの眼差しをする。さっきとは違い焦りが見られない口調で言った。
「あの火事やこの壁はお前たちがやったのか……?」
「は、はい? 何を言っているのですか。私達でさえ困っているのですよ、この状況に。どうして自分たちが困っていることをしなきゃいけないのですか」
「困った振りをして、俺達全員を焼き殺すつもりだろ!」
噛み付くように激しく言い放つ。レイラは呼吸を落ち着かせながら、返答をする。
「色々矛盾があります。もしこのまま炎がこの建物を燃やすのなら、私達も被害を受けます。そのような状況を自ら作りますか? それにあなたは自分の上司のことがよくわかっていないようで。フィンスタさんは相当な炎の使い手。そんな方がみすみす炎に飲み込まれますか? ここはお互い冷静になりましょう。焦って時間を使っても何もいい事はありません」
必死に宥めようと、抑揚を極力抑えて淡々と言葉を連ねる。だが男には何を言っても無駄だった。状況に踊らされて、完全に我を失っている。
「冷静になれだと? 見ず知らずのやつが何を言うんだ!? とっとと、この壁をなくせ!」
男はポケットに持っていた護身用のナイフをレイラに対して斬りつけようとした。それは隣にいた護衛によって難なく落とされる。しかし、それをきっかけにして研究者達は一斉に攻撃し始めた。
拙い魔法を出す人、薬品をぶちまけ魔力の底を上げる人、錯乱しながら殴りかかろうとする人。だがそれらは護衛達に丁重に払われ、すぐに為す術もなく再び立ち尽くす。
レイラはその様子を横目で見ながら壁をそっと触った。普通の壁のように思われる。だがグレゴリオが出したものなら魔法でできているのだろう。
目には目を、歯には歯を、魔法には魔法を――。慣れた様子ですぐに集中し、空気中にある水蒸気を集め始めた。
離れた所から見ていたイリスは、あまりの様子に開いた口を手で覆う。我を失う人々の哀れな様子を。
レイラは何も嘘を言ってはいない。だがそれを他人がどう捉えるかで、状況は一転する。冷静になって判断すればわかることも、頭に血が上ってしまっては正しい判断ができない。見知らぬ来訪者、突然現れたすべてを拒絶する壁、そしてゆっくりと襲いかかろうとしている炎――。不幸にも重なってしまったこれらのことにより、イリスの目の前では悲しい光景が広がっていた。
「シェーラさん、私達は一体どうすればいいのですか?」
「このまま見守るかな……。でもそういう時間はなさそうね」
後ろから来る燃え盛る音。黒扉の奥は魔力を高める仕組みがあったらしく、さっきより速さは落ちている。だがどちらにしても時間の問題だ。
「あの壁さえ、ぶち破れれば……」
視線の先にはレイラが必死に魔力を込めて、何らかの大きな魔法を出そうとしている。
突如イリスはある事実を思い出した。肩がより小刻みに震え始める。
「あのシェーラさん、思ったんですけどこの研究所には操られている人がたくさんいるんですよね? そして今は気を失っているのですよね? その人達がまだ奥の部屋にいる可能性はないのですか?」
シェーラの表情が強張った。苦虫を潰した様な顔をする。
「ないとは……言いきれないわね」
「それなら、早くその人達を助けに行かなくては!」
「助けに行くって、その人達がどこにいるかわからないのよ?」
まだ何人かの人がしつこく護衛達に攻撃をしている。少しは魔法の心得がある人だろう。護衛達にも一死報いているようだ。中年の男の手にはすでにナイフはなく、水の魔法を出しながら二、三人に水をかけまくっている。後先考えず行動しているため、迂闊に近づけない。
そしてシェーラ、イリスの方にもはっきりと聞こえるような大声を発していた。
「何だよ。結局世の中は生まれと強さがすべてなのかよ!」
その声は少し裏返っていた。男の顔は背を向けているためわからないが、くしゃくしゃな顔をしているのだろうと薄々勘付く。水を撒きながら男は続ける。
「高度な魔法が使えれば上に行ける。魔法なんて、生まれや育った環境がどうとかでほとんど決まるのに何だよ、その世の中は! 魔法以外の人が持っている能力も見もせず、それだけで判断するなんておかしな話じゃないか。まったく、報われない……」
男は疲れたのか激しく呼吸をしながら、護衛達と間を取って水を出すのをやめる。護衛達からは進んで攻撃はしない。疲労によって、男は徐々に本来の自己に戻り始めていた。
レイラの耳に少しだけ中年の男性の声が入ってくる。だが気にも留めない風に振りまき、魔力が最大になったところで天井に向かって両手を広げた。そして頭上には両手を広げたくらいの鋭い大きな円錐の氷が現れる。
そして、勢いよく反動をつけると壁に叩きつけた。ずぼっと塊は壁に突き刺さる。
レイラが歯を食いしばるとどんどんのめり込んでいった。このまま貫通するまで、必死に耐えるつもりである。
だが、何の前触れもなく氷は砕け散った。
レイラは頭上に落ちてくる小さくなった氷の塊から逃れようと、その場から足を引く。激しい音を立てながら、その場所に落ちて行った。
すべてが落ち終わると、レイラは氷が突き刺さった箇所に目をやる。傷ついていた。かなり大きなへこみもある。
これを何度も繰り返せば、この壁を打ち破れるはずと確信しかけた。
しかし、次の光景に笑みを浮かべかけていた口が急に閉じられる。
傷ついた壁が徐々に修復されているのだ。
「嘘……、そんなことって……」
シェーラを始めとして、そこにいた一同は思わず動作をやめた。レイラの絶望的な声が不気味なくらいまでに響く。
誰もが納得できるほどの高度な魔法から作り上げられた氷。それが砕け、その上壁は無傷に戻る。それはつまり、あの壁には今いる者たちには砕けられないということを暗示していた。
男はぽつりと呟く。
「わかっていたよ、お姉さん。お姉さんたちも被害者なんだって。その顔をじっくり見ればわかる。……いつか見捨てられるということもわかっていた……」
哀愁漂うその顔には歳相応のものが浮かんでいた。
「所詮、高度な魔法が使えない俺達が悪かった。すまない、余計なことをしてしまって」
「いえ……、わかってくれればいいのです。魔法がすべてではありませんから」
「そうだな。このまま終わりか……」
炎は確実に近づいていた。死の宣告は刻々と来ている。
誰もが絶望に瀕していた。
――だが、一人だけ違った。
「まだ終わりじゃありません」
場違いな程の少女の声が辺りを響かせる。
声を出したイリスはきりっとした顔をしていた。その目には決意に満ち溢れており、男に向かって質問を投げかける。
「諦めていいんですか? ご家族の方がいるはずなのに」
「家族はいるさ。だがお嬢さん、あれだけの魔法がいとも無残に打ち砕かれたんだよ? これが絶望を意味しているしか……」
「私に一つだけ心辺りがあります」
一同は目を見開いた。まだあどけなさが残っている少女が発した言葉に困惑するしかない。
「ただ、それをするには時間的にも微妙なところ……。それでも、何もやらないよりいいはずです」
「しかし……」
「――もし家族が突然いなくなって、次に聞いた家族の状況がすでに亡くなった後だったら、あなたはどう思いますか? また、家族に会いたくはないですか?」
ごくりと唾を呑む音が静かに聞こえる。
「……会いたいさ」
「なら最後まで足掻きましょう。諦めてはいけません」
男はじっと床を見ていたが、少しさばさばした表情をイリスに見せた。
「そうだな……。やってみよう。お嬢さん、俺達に何かできることはあるか?」
「すみませんが、一つだけお願いしてもいいですか?」
「何だ?」
「部屋にまだ人がいるはずです。操られ、気を失っている人達が。その人達にも家族がいるはずです。ですから、その人達、そして家族のためにも急いでここへ連れて来て下さい」
イリスは静かに笑みを浮かべる。その笑みには絶望の色は見られない。
男は頷くと、何人かの研究者に指示を出す。レイラの方も慌てて、水魔法が使える護衛達にそのあとに続くように言う。
そして即席で作られた部隊は、近づく炎を避けるように探しに行った。
イリスは深く息を吐いた。そして隣にいたシェーラに顔を向ける。
「シェーラさん……」
「イリス、一体、心辺りって何なの?」
「虹色の書を貸して下さい」
「え?」
シェーラの手にはしっかりと書が握られている。イリスの予想外の言葉に驚き、首を傾げていた。イリスが書に手を近づけようとすると、それを慌てて遮る。
「待ってイリス。これは私しか持てないものよ」
「そうですね。シェーラさんも持てます」
「はい?」
ぼけっとした隙にイリスはすっとシェーラから書を取り上げる。
そして涼しい顔をしながら、中身をぱらぱらと開き始めた。