4‐10 迷宮に光は射す
この人と出会えてよかったって、心の底から思っている。そっけなく接してしまった時もあったけれど、それは心とは裏腹の行動。そんな行動をした後はいつも後悔していた。
男の人にあんなに強く抱きしめられたのは初めてだった――。正直言うと、一目惚れとかに近かったかもしれない。もっと色々話したかったし、利害も一致しそうだったから、入局を進めたものだ。入局した後とは何だかんだ言って共に行動することが多かったのは嬉しかった。
……そしてずっと何かを隠しているとは気づいていた。ただそれが昔の女性と私が似ているから近づかれたなんて、少し予想外なこと。
だから、らしくなく当たってしまった。冷たい行動を取ってしまった。
似ているとか、今となってはどうでもいい事なのに。
自分が過去から逃げていたという事実に気づかされたというより、私は自分の手でこの人を斬ってしまったということが衝撃的だった。まだ微かに自制心は働いていたのか、致命傷までは行かない。逆に、自制心が働いていたのに斬ってしまったという事実が許せなかった。
このままでは本当にこの人、そして他の多くの人を不幸にさせてしまう気がする。
それなら自分で自分のことをしっかりと後始末をつけた方がいい。
だからこれからすることは決して……。
『ねえ、本当に後悔してないの?』
私はどこからか聞こえてくる声に驚いた。振り返ると、亜麻色の髪を短く切りそろえられた同い年くらいの女性が立っている。彼女が屈託のない表情で話しかけてきた。
『ねえ、聞いているの。これからすることに後悔してないの?』
「後悔するも何も、それ以外方法が……」
『他の方法ならある』
「え?」
『それはあなたがこれから過去もしっかりと見つめながら、この世界を生き続けるって決断するのなら教えてあげてもいいわよ。まあ他にも選択肢はあるかもしれないけど、私が知っているのは一つだけ』
「決断……か」
『そう、人は時に大きな決断をしなければならないのよ。まあその決断が果して大きかったかは、決断してからしばらく経ってわかるものだけどね』
女性は苦笑しながら私の目を真っ直ぐ見る。
『私もしたよ、自分の人生にとって大きな……ね。結果は……、まだ出てないや。そろそろ出ると思うけど。さあ、あなたはどうするの? あなたが考えていることをしても誰も喜ばない。他にも道があるなら、そっちの方に行くのがいいと思う』
私は女性の手をしっかり握り見つめ返す。
「お願い、教えて。この世界を見続けて行くためにも」
女性はにこっと笑う。その笑顔はこっちまで心が洗われるような爽やかな笑顔だ。
『ありがとう。じゃあ、あの人達のこともよろしくね』
「それは一体誰のこと?』
『はいはい、それでは、ひとまず自制心を最大限に働かせて……』
飄々と受け流し、私に簡略的に教え始める。
そしてその女性の笑顔は私――シェーラの心に深く残った――。
* * *
悲鳴と怒号が乱れ飛び交う中、鮮血が飛び散った。
真っ赤な血がぽたりぽたりと床に染みを作る。
イリスはその光景を目にして、がっくりと項垂れた。斜めからシェーラを見ていたイリスの目に映るのは、深々と剣を体に貫いている彼女の姿。
グレゴリオも左側から見ながら、その様子に愕然としていた。予想外の展開に戸惑うばかり。まさか自分の魔法がこういう風に破られるとは思っていなかったのだ。
クロウスは真正面、そして最も近くから見ていた。口を開けっ放しにしながら、その場で駆け寄るのをやめる。いや立ち止るしかできなかった。
血はまだ滴っている。シェーラはじっと動かない。
滴る元凶はやがて――、その場から居なくなった。
驚く暇もなく、今度はグレゴリオが甲高い声を上げる。
「な……何をするんだ!?」
グレゴリオが持っている黒色の大きな石に、深々と血塗られた剣が突き刺さっている。その場にいた人は殆ど驚きの表情を浮かべていた。
シェーラは苦しい表情でその剣の柄を握っている。その先には黒色の石。絶え絶えしい呼吸をしている。
深く切り裂いた右脇腹から、血が飛び出していた。
「まさかのこのこ魔法の元凶を出すとは思わなかった……。やっぱり石か。石が力を増幅させていたのね……」
それを聞き、グレゴリオがにやっと口を開く。
「そうだ。だが、君は愚か過ぎる。この程度の攻撃で石が壊されるはず――」
グレゴリオが言いきる前に、ぱきんっと小気味よく割れる音がした。
黒色の石は無残にも粉々に割れ、静かに床に落ちて行く。その残骸は風が吹けば飛ばされそうだ。
口元を緩ませ、シェーラは自身の体が仄かに軽くなったのを実感する。
胸を締め付けていた鎖がなくなったようだ。久々に心の中に光が差しこんでくる。暗闇から解放された瞬間だった。
すぐに気持ちを切り替え、目を丸くして全く動こうとしないグレゴリオに対してそのまま剣を突き刺そうとした。
だが触れる前に、横から別の剣が飛び出す。その剣はシェーラの剣をきれいに弾き飛ばした。
「ケルハイト!」
硬直状態を脱したグレゴリオは金色の髪をした青年の名を呼ぶ。ケルハイトは頷くと、シェーラに対して刃を向けた。
胸一直線に目掛けてくる剣先を、体をくねらせながら、やっとの思いで逸らす。右脇腹を自らの剣で致命傷まで行かない程度に斬ったが、辛うじて動くことはできる。だが反応するのには極端に遅い。長い時間攻防をするのは無理だ。
続いて来る第二撃には、いつもの短剣でやっとの思いで対抗しようとする。だがその前に、クロウスが割りこんできた。同じく右脇腹からさらに激しく血が出ているはずなのに、その動きは全く色褪せていない。
ちらっとシェーラを見る目はさらに奥にある物を指していた。
すぐにそれに気づき、踵を返しながら動かない体を必死の思いで走らせる。
目的の物はすぐそこで光っている。そして目の前には忌々しい顔をしているフィンスタが立ち塞がった。イライラしながら、すぐ後ろで封印を焦って解こうとしているナータに視線をやっている。
「ナータ、結界はまだ解除できないの!?」
「すみません、無理です。強い想いが込められていて……。それにさっきよりより強固になっているんです!」
舌打ちをすると、駆け寄ってくるシェーラを睨みつけていた。その視線にシェーラは全く答えない。シェーラの方が怪我の具合や疲労度を見ても圧倒的に不利。だが、不思議と動きはより鋭敏になっていたのだ。
ほんの少しだけ飛びあがり、フィンスタの視線の先から消えた。
血は滴るがすぐにナータの目の前に立つと一瞬で気を失わせる。そして虹色の書を結界など全く感じさせないように腕にきつくしっかりと抱えた。さっきまで泣きじゃくっていた娘の姿はもうそこにはない。
フィンスタはすぐに切り替え、持てる魔力を使って顔くらいの大きさの火の玉を投げつけようとした。それをシェーラは心もとない力で立ち向かおうとする。
だが、火の玉は途中で何の前触れもなく忽然と消えた。突然のことにフィンスタは驚き固まる。
その機会を逃さず、シェーラは昔の感覚を思い出しながら、今ある風を最大限使った魔法を放とうとする。
手にはすぐに風が巻き始められ、それを自然の流れに逆らわないようにフィンスタに向かって放つ。
予想以上の攻撃にフィンスタは風で飛ばされ、壁に当たる寸での所で無理矢理止まった。必死に魔法を出そうとするが、洞窟で戦ったような大きな火の玉が出せていない。掌で蝋燭を灯せる程度の火がでるだけ。複雑な顔をしながら、何度も何度も出そうとしているが、一向に出る気配はない。
シェーラは一瞬一息吐くと、スタッツがイリスを抱えて急いで入口の方まで戻っているのが見えた。その動きは常人では上。すぐにイリスはアルセドの元に辿り着く。
そして次に目は激しく鳴り響く剣と剣の攻防に向けられる。しかし、クロウスの方がやはり体力的に見て不利。激しく蹴りを入れられたクロウスがシェーラのすぐ近くの壁に突き飛ばされた。
慌てて駆け寄ろうとしたときに、不意に後ろからどす黒い魔力を感じる。
禍々しすぎる魔力に、悪寒が走った。
クロウスに近づきながらも恐る恐る後ろを向くと、グレゴリオが腕いっぱいに広げた黒い炎のような球体を持っていた。静かに鋭く怒りに満ちた声を出す。
「私を怒らせた罪だ。跡形もなく消えるがいい」
その球体をいとも簡単に軽く投げつけた。大きい割にはそれなりに速い。
あの炎に触れては、グレゴリオの言った通りになってしまうだろう。シェーラはクロウスを抱えて風を出し、急いでその場から離れようとした。だが、炎が風を食っているせいかシェーラの元に出るのは心もとないそよ風が出るだけ。余計に焦りを感じた。このまま普通にクロウスを抱えて走っていては逃げきれない。
ここまで足掻いてきたが、このような展開で終わってしまうのか。
そう考えると、逆に冷静になれた。
シェーラは抵抗するのをやめ、疲れきった表情をして冷めた目でその球体を見ているクロウスの顔を見る。当のクロウスは表情が徐々に歪んでいく。右脇腹からの出血はさらに酷くなってきている。
その様子に悔しさを感じた。自分の愚かさのせいで、こんな展開になったことを恨む。
申し訳ないと思いながらも、クロウスの背中に傷に触れない程度に手を回す。
微かに震え満ちている吐息が出される。クロウスはそんなシェーラの気持ちを抑えるかのように、そっと彼女の頭を撫で残された体力を使ってしっかり抱きしめてきた。
徐々にお互いの鼓動が速くなる。
絶望的な状況を目にしてか、それともほんの少しの時間、やっと二人の想いは互いにぶつかりあったためか――。
顔がひりひりと熱くなる中、無情にも炎が迫ってくる。
すべてを消し去る、炎が。
やがて二人の周りは暗くなっていた。このまま何もかも呑みこまれるのか。
だが一瞬にして、突然激しい音がすると同時に寒くなった。
シェーラはその異変に気づき、炎の方向を見る。いやその方向を見ずとも異変がわかった。クロウスとシェーラを囲むように氷が現れたのだ。
暗かった周りは、透明な氷のおかげで反射しむしろ眩しい。
外で何かが溶ける音が聞こえたかと思うと、炎が耳障りな音を立てながら氷を溶かそうとしていた。
あの炎は相当の熱を帯びている。だからそう何分もこの時間は維持できないはずだっと判断し、なるべくクロウスを炎の軌道から外そうと無理矢理動かした。
しかし、炎の威力は徐々に落ちて、小さくなっている。氷は確かに薄くなっているが一方的に壊されるのではなく、相打ちの状態が続いて行く。
シェーラは自分たちをあの炎から守ってくれている氷に手を触れた。そこから感じられる魔力に思わず驚きの声を上げる。
「まさか、何でこの人がいるの?」
「この人って誰だ? それにこの氷は一体……」
「クロウス、何か言ったの? この氷を出した人は――」
辛うじて口を開くクロウスに、シェーラは質問し返す。
だが、氷からみしっと嫌な音が聞こえた。炎は掌ほどのサイズまで小さくなっていたが、氷は今にも崩壊しそうだ。すぐに全体にヒビが入り始める。
崩壊は免れないと思うと、クロウスの上から覆いかぶさった。
次の瞬間、パリンっと小気味いい音がすると、二人を覆っていたすべての氷が小さい粉のようになりながら炎と共に消え去った。
シェーラは顔を上げると、自分の背中を触る。だが微かに水滴が付いているだけ。砕けた氷の破片が飛んできて、怪我をするかと思っていたが、そんなことはなかった。。
こんな風に水の魔法を使いこなせる人、この国に何人いるだろうか――と思いを巡らしていると、入口の近くでさっきまでいなかった人が現れたのに気づく。そしてその人を見て、予想していたとはいえ思わず絶句してしまった。
金色の髪がよく生える、紺色のローブを着ていて険しい顔をしている女性。その女性の後ろには、いつでも飛び出していきそうな武装された男性が十名ほどいた。
「どうして……」
その女性はシェーラの呟きなど気にも留めず、邪魔されてひどく不機嫌なグレゴリオに目をやる。表情は穏やかそうだが、逆にその穏やかさが怖い。女性の周りは冷たく、近寄りがたい雰囲気が漂っていた。
「どうもこんにちは、グレゴリオさん。よくも局の人を散々もて遊んでくれましたね」
「遊んだとは失礼な。言うことを聞かないから、少し教育をしただけだ」
「それならどうしてあんなに血を流している人がいるのでしょうか? それにただならぬ魔法を使いましたね。魔法で人を殺めるとは、あなたはやってはいけないことをしようとしました」
「だから何だ。そんなことよりも、お前は何者だ!?」
グレゴリオのきつい言い方よりも内容に、女性はしまったという顔をし、少しだけ一歩前に出て、胸にそっと手を添えた。
「申し遅れました。私の名前はレイラ・クレメン。現在、魔法管理局副局長。あなたとはお久しぶりと言ったところでしょう」
淡々と綴られる言葉とは裏腹に、レイラの目には静かに怒りの炎が上がっていた。