4‐9 過去から未来へ紡ぐ時間を
その光はいつ感じても心治まるようだ。不安な心を安らかにしてくれる。
クロウスはこれでシェーラは元通りになると思っていた。いつものように楽しく接してくれる彼女に。
あとは書を手に入れ、急いでその場から逃げる。例え、グレゴリオや凄腕の剣士、魔法の使い手がいたとしてもシェーラがいれば何でもできると思えていた――。
光はそこにいた人の目を晦ますには充分すぎるほどの強さだった。黄、橙、赤、そして緑、青、藍、紫色と光は順繰りに変化していく。ソレルの時よりも激しく、そして長く光り続けた。光っている時間はそう長くはないが、今までの緊迫した時間と比べるとひどく長く感じるのだ。
やがて光が治まると、クロウスは目を凝らしながらシェーラの背中を見た。突っ立ったまま動こうとはしない。放心した状態でぼーっとしているのかもしれない。クロウスはゆっくり近づき、表情を窺おうとした。
その時、シェーラの指がぴくりと動く。そしてイリスを見ると、何の前触れもなく右手に握られた剣を再び振り上げた。
イリスは目を丸くしながら息を呑みこんだ。恐怖に歪んだ顔でその場面を見る。
彼女はシェーラの行動に対して逃げることも叫ぶこともできなかった。ただ震えながら自身に起こる成り行きを見るだけ。
瞳に映るのは剣先と無表情の娘。
すべてを悟ったように目を瞑る。
その光景を見たクロウスは心の中で何かが弾けた。腹の底からあらん限りの声で叫ぶ。
「シェーラ……! お前の相手は俺だ!」
それを聞いたシェーラは刃先をくるっとクロウスの方に向け、風を使って瞬間的に移動する。そしてそのまま突きをしてきた。
右腹をかすめながらもクロウスは動きを乱すことなくシェーラの腹に蹴りを入れる。剣に気を捕えられていたシェーラは完全に交わすことができずに、激しく飛ばされた。
その間に今度はシェーラに向かって攻めて行く。
彼女が態勢を立ちなおそうとしたときにはクロウスは目の前におり、瞬時に作った風の壁を無理矢理叩き斬ろうとした。
さすがにシェーラの魔力を使っていることだけあって硬い。だが本当の壁に比べたら突破口はあると判断し、そのまま力任せに押しこむ。
壁の隙間からヒビのようなものが入るとわかった瞬間に、風はなくなっていた。
すぐに剣を振り上げて、剣と剣を交り合わせる。無表情だったシェーラの表情に、歯を食い縛っている焦りの様子が見え始める。
クロウスは――、泣きそうだった。
この娘は操られているとはいえ、親しくしている人を手にかけようとしたのだ。それがすごく悲しい。
そういう風にならないようにするためには、ここでクロウスがシェーラを止めるしかないのか。魔法が解除できなければ、止めると言うのは――。
「なあ、シェーラ。……俺が悪いのか?」
シェーラにだけ聞こえるように声を押し殺して呟く。もちろん反応はない。それでも続ける。
「俺は昔ある女性をみすみす死なせてしまった。その女性はシェーラと雰囲気が似ていた。だから、シェーラのことを守りたいと最初に思ったのはそのせいだ」
剣が一瞬離れた。そして剣と剣が交わる小気味いい音が部屋に響き続ける。
「最初から一人のただの女性としては見ていなかった。それは謝る、ごめん。でも今は違う。俺はシェーラのことを一人の女性として見ている。特別な人として……」
シェーラの肩が若干震えた。
「俺はもっとシェーラと話をしたいし、風にも触れたい。だから……」
少しだけシェーラの頬の筋肉が緩んだ。口から言葉が発せられる。
「私は……」
それを聞いて、クロウスは押す力を緩める。
「グレゴリオ様に仕える者だ」
そして何の前触れもなく、人々の耳に鈍い音が届いた。
クロウスは何が起こったのかすぐに理解できなかった。
徐々に右脇腹から見慣れないものが出ており、痛みがそこから発せられることに気づく。やがて痛みに耐えきれなくなり、剣を床に刺して膝を折る。
足もとに鮮血が滴り落ちていた。
「いやぁ…………!」
その光景を見た少女は、あまりのことに悲鳴を上げる。
グレゴリオは歓喜の声を上げていた。予想通りの展開になって感激しているのだ。
一方、悔しそうな顔をしながらスタッツは手を強く握る。歯がゆい思いを必死に耐えていた。
クロウスは体をゆっくりと反転させると、シェーラの剣先から血が滴っているのが見えた。脇腹を見てようやく状況を判断する。苦笑しながら脇腹を押えた。
――一瞬の隙で斬られたわけか。
それでもその瞬間はわからなかった。改めてシェーラの素早さに感嘆の声を上げたい気分だ。
シェーラは人を斬ったというのに、表情を変えずに近づいてくる。最後に一斬りするために。クロウスは自嘲気味になりながら溜息を吐く。
「過去を直視しなかった罰かもしれないな」
静かに出される言葉にシェーラは歩みを止めた。
「エナタの事件をもっと真正面から見て過去を整理した状態で、シェーラと会っていればこんな展開にならなかったかもしれない。いつまでも引きずってはいけないんだな。人が死んだという事実を」
クロウスは顔を上げてシェーラに微笑む。
「シェーラは……どうなんだ?」
それは何も意識せず言っていたことだった。目の前に見える恐怖から逃れようと思って言ったのではない。ただの純粋な疑問。
シェーラは動かない。少し間をとって、クロウスは素直な疑問をぶつける。
「レイラさんから少しだけ聞いた、……局長さんのこと。今も引きずっているのか? 過去の自分としっかり対面したのか?」
「カコの……?」
シェーラの消えそうな声、剣を持っている手が微かに震えはじめていた。それはクロウスにしか聞こえず、見えない。他の人たちは、シェーラが間を取っているだけだと思っている。
操りのほぐれが見えたような気がしたクロウスは最も効果があり、唯一の武器、言葉で攻め始めた。
「その事実から逃げずに、今を歩んでいるのか?」
「一体何を言うの……」
今までとは違う雰囲気の言葉に気づき、訝しげに周りは見始める。
「私はグレゴリオ様に仕える者。過去など関係ない。これから――」
「なら局長さんはどうしてシェーラを生かしたんだ!?」
カランと床にものがぶつかる音がする。シェーラが手に持っていた剣は床に転がった。
「私を生かす……」
「シェーラ、過去は関係ないだって? その過去の人のおかげで今の自分があるんじゃないのか。過去があって今、そして未来が初めて成り立つ。それは生きている者にとって当たり前のことだろ? だから過去は関係ないなんて言わせない」
「だが過去は所詮過去。過ぎてしまったことを他人にとやかく言われる権利はない」
「他人でも言わせてもらうよ。過去のある出来事があったから、シェーラはこうして立っているんだろ? 過去を否定したら、自分の存在意義も否定することになる。それで――」
「……じゃあ、一体どうすればいいのよ!?」
シェーラは途中で口を挟んだ。目には薄っすら涙が溜まっている。一時的に表の自分を抑えつけて我を取り戻していた。手を強く握りしめ、そこから血が微かに零れ落ちる。震えながら声を上げていた。
「私のせいで人が死んだのよ!? その思い出したくない過去から目を逸らしてもいいじゃない。その時の過去をなかったようにしていいじゃない! 思い出すだけで辛いのよ。どうしてあんなことになったのか、考えるだけで胸がはち切れそうなのよ……」
子供のように泣き叫んだ。その勢いにクロウスは息が詰まる。
いつものシェーラはただ強がっているだけの娘であったことに気づく。目の前に呼吸を荒げながら、涙を流しながら睨んでくる様子がこの人の本性だったと知った。ここで優しい言葉を掛けるのがいいのかもしれない。だがそれではシェーラはいつまで経っても変わらない。クロウスは敢えて棘の道を進む。
「たまには逸らしてもいいかもしれないけど、決してそのことは忘れてはいけない。局長さんがどんな想いをしてシェーラを助けたのか」
シェーラはさらに涙の量を増やそうとしていた。
「逃げるのも一つの選択かもしれない。だけどそれは選択の一つにすぎない。選択肢の中からより良いものを得なければ、先に逝ってしまった人達に対して申し訳ないと思う。だから辛い過去を――――」
クロウスの頭の中でエナタとの最期が一瞬映る。彼女の最期はただ静かに微笑んでいた。まるで死が来ることを知っていたかのような表情。あの表情とこの橙色の石の存在は決して忘れていない。
シェーラに対して、そしてクロウス自身に対しての想いをぶつけた。
「辛い過去を悩みながら見つめて行き、それから未来を創っていくことが生きて行く者の一つの決断じゃないのか!?」
その声は部屋中に、そして人々の心の中に鳴り響いた。
イリスは石を握りしめながら目を瞑り、その言葉を深く噛み締める――。
やがてがくんと黒色の髪をした娘は膝を床に付いた。放心した状態で胸の中に収められているペンダントを握る。小刻みに呼吸をし始めた。
グレゴリオは明らかに不利な状況に一喝する。
「そんな奴の話に耳を傾けるな! その男の喉を斬り裂いてしまえば、聞かなくて済むんだ。急いで殺れ!」
叫びに近い声でさえ、今のシェーラの耳には届かないようだ。グレゴリオは舌打ちをし、胸元から掌にやっと乗るくらいの大きな黒色の石を取り出した。そして石に神経を集中させながら、シェーラに向かって叫ぶ。
「これ以上心を乱すな。新しい人生を歩むには過去にあったことをなかったことにするのが一番いいんだぞ!?」
グレゴリオが言った途端にシェーラはさらに強く胸を掴む。呼吸数は増えていくばかりだ。
「さあいい娘だ。こっちに戻って来い。お前に過去なんかいらない。人が生きて行くには今だけあれば充分なんだ」
シェーラは呼吸を乱しながらも、必死に我を保とうと努力していた。胸以外にも全身が悲鳴を上げているにもかかわらず。まるで鎖のように全身を締め付けていた。ここでシェーラは大人しくすればいいのかもしれない。だが、この抵抗が最後だということも薄々わかっていた。
シェーラは視界がぼやける中で、前方にいる脇腹から血を流している青年を見る。
その血がシェーラの剣の先にも付いていることに愕然としていた。
「クロウス……、その傷、私がやったんだよね」
僅かな余力から声を紡ぐ。
クロウスは苦しく歪んだシェーラの顔に視線が行った。
「そうだよ……、クロウスの言うとおり、ずっと逃げていた。私……、あの日のことを忘れるために、必死に強くなろうとした……。でも、心はちっとも強くならなかった……。過去を見なかったために……」
近くに転がっていた細剣を杖代わりにしながら、上手く動かせない体を無理矢理持ち上げた。
「教えてくれて、ありがとう、クロウス。これからは過去もきちんと見ようと思う……。でも、未来への重荷になるのならすべてを断ち切る……。それも一つの決断……よね」
その一言からクロウスはこれから起こるすべてのことが悟った。
「待て、シェーラ。俺に――」
亜麻色の短髪をした少女がシェーラと確実に被った。
血を流しているのも忘れて、立ちあがって手を伸ばそうとする。
シェーラは逆手で剣先を床から離した。
「俺にまた同じ苦しみをさせるつもりか!?」
シェーラはそっとクロウスに微笑みを浮かべる。
「やめろーーっ!!」
クロウスが必死に叫び、手がまだ宙を浮かんでいる時に、シェーラは剣を勢いよく振り上げた――――。