1‐4 些細な駆け引き
クロウスは朧げな記憶を頼りに来た道を走っていたが、なかなか進んだという感じがしなかった。相手を撒くためにわざと遠回りをしながら来たのだからしょうがない。
ひたすら走り続けると、やっと開けた場所に着いた。そこには小枝、落ち葉などが散乱している。何滴か血も地面に落ちていた。
「ここは……さっき会った場所だな」
穏やかな風景とは一転して殺伐とした雰囲気が漂っている。だが、個々の血の量からして致命的な傷を持っている人はいないようだ。
あの女の人は上手く足止めをしたのだろうか――。血の跡は点々とクロウスたちの小屋がある道とは反対方向に垂れていた。
その血を追わずとも、兵士たちの大量の足跡がわかりやすいほどはっきりと残っている。その足跡を参考にしながら、ゆっくりと再び走り出した。
程無くして喧騒が聞こえてきた。首を伸ばして見れば、近くには高さのある崖が見える。下は川となっているようで、流されたらどこまで流れるか予想がつかない。気配を消し、木の影に身を隠しながら、その喧騒がするほうにゆっくりと足を進める。
そこには一人の女を兵士達が取り囲んでいる様子が見えた。ただ、兵士達の方はところどころに傷を作っていて、服もぼろぼろな者が多い。さっきの口が達者な優男がしゃべっている。だが、その顔には疲労が見られ、息も荒かった。
「この女……、どうした、もう抵抗しないのか? 逃げ切れなくなって腰でも抜けたか」
「あら残念。この崖に人を突き落としても大丈夫かなって、思案していただけ」
「――突き落とすだと!?」
厳つい男の声とは裏腹に、すごくひょうきんな言葉を返す。全体を緑系統でまとめあげられた女の服は切れている部分もあるが、素肌に関しては全く傷ついていない。一体どうやったらそれくらいの傷しか負わないのかと、不思議に思ってしまう。
女は腕を組みながら、堂々と構えて向き合っている。
「さてと、二つ答えてもらってもいいかしら?」
「なんだと?」
「まず、あなた達はどうしてこんなことをしているのか。お金のため? ノクターナル島には兵役の仕事があるって聞いたから、そう思ったんだけど。それならもうこんなのから手を引いたほうがいいわよ。私達は何もしないけど、あなた達の上司はおそらく相当厳しい。任務失敗の報告をしに行って、五体満足で帰れるのかしら?」
「ふん、俺はなあ、お前のような女に痛い目を見させてやるのが生きがいなんだ。それにはこの仕事がうってつけなんだよ」
「へえ、馬鹿ね」
男の顔が明らかに怒りを帯びていく。しかし、さして何事もなかったかのように女は平静と話を続けた。
「まあ見たところ、あなた以外の人は仕事っていう顔をしているから、しばらく頭を冷やしてもらいましょう。この仕事が相手によってはいかに恐ろしく、危ないかもしれなかったということを。……事後処理とか面倒だし、普段はこんなことしないけど、不明なことが多すぎるから時間かけてられないのよね」
女の声は徐々に凄みを増して、男を睨みつけていた。その眼は本気だった。
「さて、もう一つ。どうして彼らがあそこの道を通るっていうことがわかった?」
ただ静かに言う女の声からは凄まじい殺気がでている。おもわずクロウスも身を竦めてしまう。そのためか男は何も言えずに動けない。質問に答えられない状況であるためか、それとも何も知らなかったのかはわからなかったが、さっきの勢いは微塵もなくなっていた。
女は溜息をつき、呆れたような顔をしているようだ。
「話してくれないか。それとも下っ端すぎて何も知らされてないのか。まあどちらにしてもあなた達は邪魔だから。ごめんなさい。さあ、風よ――」
女がそう言うと、そよいでいた風が左腕の周りで変わり始めた。少しずつだが空気の波が変化してきている。
そしてさっと右に腕を振りかざすと、その直線状にいた兵士達の足がもつれた。風が直線状に薙ぎ払われたようだ。
必死に体制を維持しようとしている兵士達だが、すぐに体が言うことをきかなくなり、転げるように崖から川へと落ちて行った。
一瞬の出来事に、開いた口が閉じない他の兵士達。不可解な現象とも見られる光景にクロウスも唖然としていた。
「これが……、魔法?」
今まで何度も魔法を使用した瞬間を見てきた。しかし、これほどまでに敵を簡単にあしらっている魔法使いを見たのは初めてだった。
そして更に驚いたことに、他の人は無理矢理自然界の法則に反して使っているように見えたが、彼女は流れに反するよりも、それを生かすように使っているように見える。だから無風となった状態では、女は魔法を使わずに短剣を取り出し、迫ってきた兵士を受け流し、落としていっているのだ。そんな情景を見て、クロウスは思わず感嘆する。
自分は手助けする必要はない、むしろ出て行っても足手まといになるだけだろうと思い警戒を解こうとした。だが、ごく少量の、しかし凄まじい殺気を全身で感じた。周りを見回したが、木に遮られてしまい、場所をなかなか特定できない。
その時、傷一つ付いていない女の頬に一筋の切り傷ができた。それに気づいたのか、一瞬攻撃の手を休め、血を拭いながら首を傾げる。
次の瞬間、女の右斜め前にいた兵士が背中から大量の血を流して倒れ伏した。兵士は何があったのかわからない顔をして、やがて動かなくなる。背中には無数の細かな刃が突き刺さっていた。ほとんど風がない状態、また女のいる場所からして、彼女がやったのではない。
誰がやったのかと考えるよりも先にクロウスは飛び出し、その刃が放たれたであろう場所にひと振りする。それによって生じた風の波が、刃を放った人物に向かっていく。命中したかは定かではないが、撹乱はできたようで第二手はすぐに来なかった。その隙に女の前に守りを固める。
「あなたさっきの人じゃない。どうして戻ってきたの!」
女は今あった出来事に動揺しているのか、表情が強張っていた。だがそこまで取り乱したようでもなく、声ははっきりしている。
それとは逆にクロウスの内心は穏やかではなかった。もし、攻撃した人物がクロウスの思い当たる人物であったら、――非常に危険な人物になるだろう。
その相手が体制を立て直したのか、今度は殺気が直接肌に感じる。それを感じて確信した。
鼓動が速くなり、自身が危険であることも感じる。クロウスは後ろの女に言葉を投げかけた。
「そんなことより、今は逃げたほうがいい。あいつは……危険だ」
「……知っているの?」
「こんなことする奴は、国に一人いれば充分だろう」
「それもそうね」
あっさりと返答されたが、よく見れば握りしめられた拳は震えている。
過去にクロウスは同じ殺気の人物に出会ったことがあった。その時の出会い方はあまりにも衝撃的であり、思い出すだけでも、胸が苦しくなる程だ。一方で、その人といつかは剣を交じり合わさなければならないという予感もしている。
しかし今はこの女性が傷だらけになるのは一番避けたいところだ。
自身の感情を押し殺しながら、相手の出方を見る。
兵士達の中には一人の兵士が一瞬で殺されたことに怖気づいて逃げ出したものもいるが、たいていはその刃が放たれた方に視線が向いている。幸いこちらに危害を加えようと気はないらしい。
女も後ろから顔を覗かせながら警戒している。
「逃げるって、本気? あの馬鹿どもの頭を冷やさせてあげたいのに。それに色々聞きたいことがあるのよ」
「この状況見れば完全に冷え切っているし、そんな余裕はないだろ」
すると再び大量の細かい刃が出てきた。
その先は女がいる場所。
そして、線上にはクロウスを含めて兵士が数人いた。必死に剣を向けそれに対抗しようとしているが、あまりにも覚束ない手つきで見ていられない。
クロウスは深々と溜息を吐くと、怒声を放った。
「おい、死にたくなければとっとと逃げろ!」
その声に反応し、二、三人がその線上から消えたが、他の兵士はその刃の餌食となり、悲鳴を上げながら次々と倒れていった。急所に当たった人もいるようで、倒れたまま微動だにしていない。
クロウスは剣を振りかざし、来た刃を落とそうとしたが、あまりに細かすぎて全部は無理だった。だが、女性が後ろから前方に強い風を吹かしてくれたため、かすり傷が大量にできた程度で済んだ。
これから逃げようとしたとしても、その間に背中が蜂の巣状態にされてしまうだろう。
しょうがない、ここで剣を交えるかと思ったとき、後ろからくぐもった声が聞こえた。
「……本当に厄介な技を使う人がいること」
ちらっと見ると、女性の左腕から血が流れていたのだ。
魔法を使う際に出した腕が切り刻まれていたのか。防御したはずだが、明らかにその腕を狙って放たれたものが大多数だった。
――隙のない奴だ。
心の中で舌打ちをする。ここでクロウスが剣を向けたら、状況は変わるのだろうか。思案しかねている時、女はありえない発言をした。
「逃げましょう、対岸に」
「え、崖じゃないか!」
「この腕でも二人ぐらいなら、風をまとって跳べられるはずだわ。行きも一人でなら余裕で跳べたし」
「……そんなこともできるんだ」
「詳しいことはまた後で。さあ、行く――!?」
不自然に女の声が止まる。それもそのはず、さっきの刃の量などお子様に見えるくらいの、十倍以上の刃が放たれたのだ。あの量では、防御しても致命傷になる可能性が高い。たとえ対岸へ跳べたとしても、着いた瞬間、または途中で貫かれる――。
クロウスは瞬時に生き残るための手段を弾きだし、女を腕でしっかり抱き寄せる。「一体、何……!」と言ったようだったが、その理由を言う暇もなく崖から飛び降りた。
天を仰ぐと刃が対岸まで勢いを止めることなく渡っている。自分の判断がまだ正しかったことに安堵した。そして水の中に音を立てて勢いよく入り、二人は押し流された。
それは二人の今後を暗示しているかのように激しく、時に穏やかに流され続けている。その間もクロウスは手を緩めることはなく、全身全霊で抱き寄せていた。