4‐2 真の意図
宿に戻ると、イリスをクロウスとアルセドの部屋に連れ来た。
今の憔悴しきったイリスを一人で部屋にいさせるのは、さすがに危険すぎると判断したのだ。ベッドに腰かけると、イリスはすぐに体を横にする。
「さっきはすみません……」
心なく言う姿は見ていて痛々しい。アルセドは無理に笑顔を取り繕う。
「いいんだよ。もう夜も遅いんだし、寝よう」
布団の中に入る様に促すと、虚ろだった目が閉じられる。
やがて寝息も聞こえくると、少しはほっとした。ひと先ずイリスは落ち着いたようだ。
クロウスはそれを見届けると、再び部屋から出ようとする。見かねてアルセドは口を開く。
「クロウス、どこに行くんだ?」
「……魔法管理局の副局長にシェーラのことを連絡する」
「こんな時間にか?」
「緊急の要件だ。朝まで待つのはよくないだろう」
「そうだな。クロウスも早く休むんだぞ」
アルセドの神妙な声をクロウスは背で受けながら部屋を出る。
もう夜も遅いため宿の中は至って静かだ。一歩一歩足を進めるたびに、足音が響く。
その静けさが、クロウスの焦りを抑えてくれる。
――今は焦っても何もいい事はない。シェーラは結界が解除するまでは大丈夫。
そう思った途端、突然クロウスは立ち止った。
――本当に大丈夫なのか?
また違った疑惑がクロウスの中で渦巻き始めた。
電話が置いてある廊下に行ったが、そこには誰もいない。事件部の人達が慌ただしく出入りをしているのか、足跡や雨で濡れていた。
受話器を持ち、レイラ宛てへの直通番号をかける。何度かコール音がした後に出てきた声は、レイラのものではなかった。
『もしもしこちらレイラ・クレメンの代理の者ですが、何か御用ですか?』
「夜分遅くにすみません。クロウス・チェスターです。シェーラと一緒にレイラさんの仕事をしている……」
『あら、チェスター君。こんばんは。ダニエル部長から連絡があったわ。……大変なことになったわね』
受話器から聞こえてくるのは、何度か会ったことがあるメーレの重い声。
「はい。それでレイラさんに俺からも話した方がいいと言われて。レイラさんに代わって頂けますか?」
『残念ながらサブは局にはいないの』
「いない……?」
『ええ。だからそっちの電話番号を教えてくれる? すぐにサブから連絡が行くようにするから』
「わかりました」
電話の近くにあった紙に書かれてある、この電話の番号を読み上げる。メーレは相槌を打ちながら、すぐにメモをし終えた。
『少し待っていて。……チェスター君、無理しないでね』
クロウスが返事をする間もなく電話は切れた。最後の言葉にはメーレなりの心配の表れから漏れたらものであろう。
受話器を置き、近くの椅子に座りこむ。どっと疲れが流れ込んできた。ずっと気を張っていたようで体がすごく重い。
深く、深く、息を吐く――。
そして胸ポケットから橙色の石を取り出した。渡されたあの日は今でもクロウスははっきり覚えている。石を握り締める度に、渡した人の温かい想いが伝わってくるようだ。
電話が小刻みに鳴る。石をポケットに戻し、すぐに立ち上がり受話器を持ち上げた。
「もしもし……」
『クロウス君!? 魔法管理局副局長のレイラ・クレメンです。メーレから電話を受け取ったわ』
レイラのはきはきとした声がクロウスの耳に届く。それに対して、申し訳なさそうに声を絞りだす。
「レイラさん、そのシェーラのことで報告が……」
『……ええ、わかっているわ。他の人から何となく聞いているけど、あなたの口から直接聞きたい。辛いかもしれないけど、話してくれる?』
「まとまっていなく、話も長くなりそうですけどいいですか?」
『夜は長いわ。いくらでも聞いてあげる』
レイラの言葉の一つ一つがクロウスの心を鎮めてくれる。こういう応対をしてくれるレイラに感謝の気持ちでいっぱいだ。
その言葉を受けながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
セクチレを求めてノベレに来て、ゲトルと接触したこと。パーティでの攻防、黒き女の出現。そして、虹色の書とシェーラの行方――。
無駄な口は挟まず、レイラはただじっくりと聞き入る。いちいち質問してくるより楽だ。
クロウスが最後に「以上です」と言うと、レイラはようやく言葉を入れ始めた。
『ありがとう。やっぱり本人から聞くのが一番ね』
「レイラさん、聞いてもいいですか?」
『何か?』
「セクチレをシェーラに買ってくるように頼んだのは、巡りに巡って虹色の書を手に入れるためだったのですか?」
このような事件になってしまった、すべての元凶とも言えるセクチレ――。シェーラが聞かずとも、クロウスはこの質問をすることを決めていた。
レイラはほんの少しだけ言葉に窮しているようだ。
静かな夜の中では、その少しの時間が長く感じられる。
やがて、重々しい口を開かれた。
『……そうよ。局長が遺した虹色の書を、何者かが奪う可能性が高くなっていると踏んだから、シェーラに頼んだの』
「あんな回りくどい言い方をして?」
『虹色の書の在り処を知っているのはゲトルさんと私くらい。そこまでして隠そうとした局長のことを考えると、直接教えるのは躊躇われたのよ』
「でも、もし虹色の書まで辿り着けなかったら、どうするつもりだったんですか?」
『まあ、そのときはそのときかな。……けど、シェーラなら辿り着くと何となくわかっていた』
どこか寂しげな雰囲気が漂ってくる。
『シェーラにとって局長は大切な人であり、一生忘れられない人物でもあるのよ。そんな娘が局長に関係する物があるとわかったら、たとえ苦しくてもきっと目を逸らさず探し当てるでしょう』
シェーラが自責の念から、局長に関することに敏感になっていた。
それが幸か不幸かレイラが望んだ通りに、虹色の書を一度は手にするまでなっている。
『ねえ、クロウス君』
レイラは凛とした声で静かに呼びかける。
『本当に大丈夫?』
あまりに突然の申し出に言葉が続かない。
レイラは諭すように優しく語りかける。
『クロウス君の声を聞いているとすごく心配なの。心が不安定な感じがしてならなくて。何か胸の内に抱いているものがあったら、遠慮なく言っていいのよ? 言うことで不安定さが少しでも解消されるなら……』
不安定――。
この人は本当に人の心を見事に指摘してくるなと、感心してしまう。けど心配など掛けてはいられない。想いとは裏腹な言葉を伝える。
「大丈夫です。色々ありすぎて、頭の中が整理できていないだけですから。寝れば落ち着くと思いますよ」
『それならいいんだけど。まあ今は動くべきではないわね。シェーラだってそれなりに事を解釈して下手に動かないでしょう。焦る必要はないわ』
クロウスの表情が一瞬固まった。何か引っかかることを言われたような。
最後に見たシェーラの目と表情が脳裏を走る。
「焦る必要はないんですか?」
『ええ。結界を解除するまでは少なくとも一週間はかかる。シェーラだってかなりの魔法の使い手。それくらい薄々勘付いているでしょう』
「だからと言って、シェーラが一週間以内に行動を起こす可能性はないと言いきれるんですか?」
クロウスは自然に出てきた言葉に自分でも驚いていた。レイラの言葉にも曇りが掛かる。
『それはどういう根拠があって言えるの?』
レイラの強い口調に思わず口を噤む。
その時突然、石が強く光りだした。何事かと思い橙色の石を再び取り出す。それを見た瞬間、クロウスがずっと引っ掛かっていたことがようやく繋がった。
「目だ……」
『はい?』
あまりのことに思わず聞き返す。クロウスは猛烈な勢いで記憶を遡りながら、思い立ったことを並べて行く。
「シェーラが俺達に対して最後に振り返った時の目、表情が似ているんです」
『似ているって誰に?』
「……俺が昔――」
ごくりと唾を呑む。
「大切に想っていたエナタという女性の最期の表情に」
レイラは突然の告白に息を詰まらせた。それにも構わずクロウスは続ける。
「少し寂しそうで、だけど何かを大事なことを決意したような表情。それが、すごく似ているんです。エナタはそのような表情をして俺の目の前で……自ら進んでという形に近く亡くなりました」
ぎゅっと石が割れそうなくらい強い力で握り締める。あの時の様子と昔のことを比べて、シェーラがただ単に大人しく捕まった意図がわかったような気がした。
そして意を決したようにきっぱりと言い切る。
「……シェーラは死ぬ気で何かをするつもりだ。自分の身がどうなろうが、一週間も待たずに何かをするに決まっている!」
『けど、それはただ似ていたと言うだけでしょう。シェーラがそんなことをしようと思っているなんて……』
レイラの声が僅かに震えている。何か心当たりがあるのか完全には否定しきれてはいないようだ。頭の片隅に残っていたシェーラの言葉の断片を出しながら、目敏く突いて行く。
「以前シェーラがイリスを助けるため、二階の窓から飛び降りようとしたとき、こういう風に言っていました。“自分のことより他人のほうが大事だから、自分への危機管理なんて少しもない”。これはどういう意味かわかりますか?」
レイラの返答が確実に詰まった。彼女の頭を整理する暇も与えない。
「そして去る前に言った言葉。“私は自分の仕事をするの、私にしかできないことを。だから、あなた達も自分の仕事をしなさい。私は先生の意思を継ぐの”。これはおそらく虹色の書を守ることだと思いますが、どうも引っ掛かります。私にしかできないことって、何をするつもりなのでしょうか?」
他にも言いたいことはたくさんあった。シェーラの言動には常に裏がある様にしてならない。明るく振り撒く姿が逆に痛々しく見えるときがある。言ってしまえば無理に愛想を振り撒いているかと疑ってしまう。
それはクロウスの推測にすぎない。出会ってから日の浅い関係だから、信用できない推測である。
だから、クロウスはレイラに問う。シェーラにとって一番近しい存在であるレイラに。
沈黙の時間が過ぎた――。
受話器から離れていないのは、気配で分かる。
ただ返答だけを待った。
『……事実から目を背けてはいけないわね』
レイラの本当に小さな呟きが耳を通り抜ける。そして、ある事実をクロウスに教える彼女の声がいつもより弱弱しく感じた。
『局長が亡くなったのは自分のせい、とシェーラは自分で言っていたわね』
「はい、そうですが」
『今から言うことはシェーラが一番知られてほしくないことだから、他人には言わないでね』
「はい……」
『三年前、シェーラは一度ノクターナル兵士の一部に人質に捕られた。私と局長はシェーラを救出するためにそこに向かい、その時に局長は命を落としてしまったのよ』
クロウスは目を見開いた。
そんな事実、一度も聞いたことがない。
『しばらく塞ぎ込んでね。局長が亡くなったのは自分のせいだって――。それ以降、生傷が絶えない。シェーラは他人が危険に合うくらいなら、進んで自分から危険を望む娘になってしまった。今回も迷惑掛けないために、自分自身で事を起こして、終わらせようとするかもしれない』
「では一週間も待ったら、遅すぎじゃないんですか?」
『そうね、せいぜい五日くらいかしら。体力と魔力が戻るまでは。それ以降ならシェーラならやりそうだわ』
「なら早く――」
『……クロウス君、深呼吸しましょう』
「はい?」
思わず呆けた声を出してしまう。レイラは意地になっても言う。
『いいから、深呼吸。はい、息を吸って、吐いて。さあもう一度。吸って、吐いて』
釣られて深呼吸をする。ほんの少し高ぶっていた緊張感が治まった。
『焦ってもいい結果は得られないわよ? 今は休息と情報が大事。シェーラも明らかに不利な状況で動かないから、まだ大丈夫。わかった?』
「わかりました……」
一瞬でレイラのペースに戻されたようだった。少し空気が和らぐ。
『さて、夜も遅いことだしそろそろ寝ましょうか。クロウス君達は明日、というか今日はゆっくり休んでね。シェーラのことを助けたいのなら、それは前提条件よ』
「はい、そうします」
『ならよろしい。また後で連絡を入れるわ。どうもありがとう。今日は本当にお疲れ様。では、おやすみ』
ガチャリと音が聞こえると、電話は切れた。クロウスもゆっくり受話器を置く。
ロビーは至って静かだ。
手に収まっている石を見た。
まだ大丈夫だから、取り返しのつかないことはまだ起こっていないから――。そう、石から伝わってきそうだった。