1‐2 風吹くとき
吹き抜ける風が、イリスの長く滑らかな亜麻色の髪をなびかせていた。
約三日分の食料を持って、四人は森の中を歩いている。緑に囲まれながら、穏やかな時間を過ごしていた。
風が吹き、木々を揺らす音のほかには、時折聞こえる男女の話し声。アストンの話し声とそれに相槌を打つイリスの声だった。
「イリスさん、今回は災難だったね。でも大丈夫。俺達がちゃんと守るから」
「ありがとうございます……」
「もっと元気に行こうよ。敵がびびって逃げちゃうくらいにさ」
「そうですね」
「顔が暗いよ、肩の力をぬいて。素敵な笑顔がもったいないよ」
「はあ……」
ほぼ一方的にしゃべり通している、アストン。
それを見ながら、ソレルはため息を吐いた。お調子者のこいつには手がつけられないという感じで、肩を竦めている。
「どうしてこいつはこんな状況でも口が止まらないのか」
「いいじゃないか。イリスさんの顔も少しずつほぐれている。緊張しすぎるのは、よくないことだろ」
「それもそうだな」
その一瞬ソレルの口に笑みが浮かぶ。はっと気付いて、視線をソレルへ真っ直ぐと向けた時には、特に表情を出していないいつものソレルだった。さっきのふとした表情に疑問を感じながらも足を進める。
だが突然不穏な気配を感じとり、立ち止まった。不思議に思ったアストンは後ろを振り返る。
「どうした、クロウス?」
「……殺気を感じる。足音も微かに聞こえる。この殺気に人の量はまさかノクターナル島の兵士か!?」
「何だって? 一番入り組んだ道を通ってきたのにどうしてこんなに早く見つかるんだよ!」
「俺が知りたい! ひとまず近場の洞窟に入って難を逃れよう。イリスさん、すみませんが、走りますよ」
クロウスが先頭を、アストンはイリスを支えるように、そしてソレルは後ろについて走り始めた。だが一向に相手は追いかけてくる様子はない。むしろ殺気はより強く感じられた。
クロウスがその理由を必死に考え込む間もなくすぐに判明する。少し開けたところで、兵士が壁を作って待ち構えていたのだ。
左右を見回したがすでに全面に囲まれている。くっと歯を食い縛りながら、クロウスは自身の油断に苛立つ。隣ではイリスが震えながらアストンに寄り添っていた。
「そんなにお急ぎでどこに行くのですか?」
兵士の一人が前に出てにやにやしながら立っていた。二十代半ば過ぎの金髪の優男といったところか。顔立ちは悪くはないが、あまりお近づきになりたくない印象を受けた。
優男はイリスを目敏く見つけると、にやっと笑みを浮かべる。
「あなたが純血さんですね。かわいらしいお嬢さんだ。私はノクターナル兵士のものです」
イリスの震えは更に増し、顔を強張らせる。
「おっと、怖がらせてしまったか。まあ、そんなに怖がらないでくれ。抵抗しなければ何もしない。丁重に連れて行くよ」
「――嘘言うな!」
アストンはイリスを背中に押し付け、険しい目つきで優男を睨み返した。
「おっかない兵士がたくさんいて、どこが丁重なんだ。それに俺は聞いたことがあるぞ。連れて行かれた純血の人は、誰一人町に戻って来ていない。噂では用が済んだら奴隷のように扱われているってな」
こんなに怒りを前面に出しているアストンを見て、クロウスは驚いていた。割と手は出しやすいほうだが、いつもはある程度は感情をコントロールしている。よほど優男が気に入らないのか。
口論し合っている二人。そのため余計に一触触発になってしまう。ただ、時間が多少は稼げたのは事実だった。
クロウスはその僅かな時間で周りの様子を見回す。どこもかしこも、剣を持った兵士でいっぱいだ。おそらく二十人くらいだろう。
こんな状況で上手く突破するのは容易ではない。おそらくどこかを突破しようとすれば背後からやられてしまう。兵の層はどれも均一。だが、崩さなければ逃げ切れない。
背を向かい合っていた、ソレルにクロウスは小声で話した。
「俺が一瞬食い止めるから、二人でイリスさんを連れて逃げてくれ」
「こんな人数相手か? いくらお前でも――」
「鍛錬の時だったが、これより多い人を相手にしたことがある。撹乱するくらいならできるはずだ。ただ、イリスさんの護衛をしながらでは難しいから……、頼んでいいか?」
軽く頷くのが背中から感じられた。それを了解と受け取ると。クロウスは剣の鞘を軽く握る。
よく聞けば、アストンと優男の口論はそろそろ終わりそうだった。
「何回言えば気が済むんだ。この人は絶対に渡さない!」
「嫌といっても渡してもらいましょう。お嬢さんもこんな口うるさい男より私のほうがいいと思いますからね」
「――お前に言われたくない!」
今にも切りかかろうとしているアストンをクロウスは手で制した。アストンは一瞬間を取られることで、少しだけ沈静化したようだ。まだ感情を整える理性は残っているのだろう。怪訝な目でクロウスを見た。
「何をするんだ、クロウス。俺は、この男を――」
「お前の仕事は彼女を守ることだ。ここでお前が闘っている間に彼女が傷ついたらどうするつもりだ?」
はっとして、後ろで縮こまっているイリスを見る。そしてアストンは恐る恐るイリスの髪に触り、そっと彼女の髪を撫でた。徐々に普段の彼自身に戻っているようだ。イリスも顔の強張りが多少抜ける。
それを見てクロウスは柄に手をかけ、声のトーンを落した。
「ここは俺が食い止める」
数歩あれば充分斬り込める。
そして――今まさに斬りかかろうとした瞬間だった。
突然風が吹き乱れたのだ。あまりの強風に兵達が腕で目を覆い、先ほどの陣形が若干乱れる。クロウスも態勢が崩れないように、必死に持ちこたえた。
鋭くもどこか包み込んでくれるような風。それが吹いている最中に誰かがクロウス達の前に降り立つ。
多少なりとも双方に影響を与えた風がやむと、一人の女がクロウス達と優男の間に立っていたのだ。
黒く滑らかな髪を上のほうから一本に結っている女性。全体的に緑系でまとめられている、動きやすそうな軽装をしており、長袖の上着にキュロットスカートを着ていた。
突然の登場に一同は驚きを隠せない。兵達はざわざわと話し始めた。クロウスは思わず声を発する。
「きっ君は……」
女は声のした方、クロウスの方に振り返った。
一瞬クロウスは息を飲んだ。端正な顔立ちで、笑ったら可愛いのだろう。はっきりとした意思を持っていそうな印象を受ける。あまり年の差はなさそうだったが、とても大人びた声でクロウス達に声を放った。
「あなた達の仕事はその子を守ること。私の仕事はあなた達を安全に逃げるのをサポートすること。わかった?」
クロウスはすぐに察した。この女はデターナル島の使者ではないかと。ただこんな若い女だとは考えていなかったから、多少は驚いていた。
女は兵士達、特にあの優男のほうに振り返って言い放つ。
「全く、いい男が寄って、たかって女の子を掻っ攫うなんて呆れてものが言えないわ」
「なんだと……?」
「今帰ってくれれば、被害は最小で済むわよ。たかが小娘一人に負けたなんて言ったら、上の人はどういう顔をするかしら」
「この生意気な……! お前ら、もう遠慮するな、ぶっ殺せ! そしてそっちで縮こまっている女を捕まえろ!」
その声に合わせて兵が剣を抜きだそうとしたとき、また突風が吹いた。ただ、被害を受けたのは兵士だけだった。風が吹いた場所が限定されている。
女はちらっと、クロウス達を見て笑みを浮かべた。
「私のことは構わないで、早く行きなさい。いい、その子をしっかり守るのよ」
そして、その女は腰につけていた短剣を抜くと、真正面に突っ込んでいった。兵士はまとめて食いかかろうとしていたが、度重なる風によってまとまって動けなかった。その間に入り込んでいき、女は剣をあっさりと払いのけ、隙あらば多少傷を負わせている。
ほんの少し女の様子を見ていたクロウスだが、はっと気づき周りを見渡した。兵が数人になっていて、容易に突破できそうなところがある。少し手を加えれば突破できるだろう。
剣を抜き、その方向に走って行った。三人も遅れてそれに続く。風で上がった土埃や葉のせいで兵士のほうが視界を悪くしたせいもあって、その関門は難なく突破できた。
そして包囲網を突破し、クロウスはちらっと女の様子を見つつも、その場を後にした。
その後も、後ろから追ってくる兵に気をつけながら走り続けた。ただ、これは取り越し苦労のようだった。先ほど女がいた所からは激しく風が舞い続けており、足止めに成功しているらしい。
しばらく経ってから、アストンは走りながらぼやいた。
「あの人、いったい何者だろう。しかも、いいところに風が吹いてくれるし」
クロウスはそれに対して、兵士の気配がないことを確認してから、少し走る速度を落として答える。
「たぶん、デターナル島の使者じゃないだろうか。足止めしていたってことは、始めからあの兵の傍にいてもおかしくない」
「じゃあ、あの風は? 神風って言うのか?」
「それは……」
神風なんてまた変った言葉を使うな……と思ったが、その質問の正しい答えが言えるほど、自分には知識がなかったので何も言えなかった。
だが、すぐにこの謎は解決することとなる。
「たぶん、あの方の魔法じゃないかと思います」
必死に走っていたせいか、呼吸が乱れながらイリスは遠慮深げに言った。
二人は目を丸くする。アストンはイリスのペースに走るのを合わせながら尋ねた。
「魔法って、火とか水を出すあのこと?」
「ええ」
「けど、あんなに都合よく大量の風とかって出せるの?」
「訓練すればできると聞きました。けど、あんなに上手く使いこなしている人は、そうはいないかもしれません」
「そうか。俺は魔法の血は薄いから、魔法なんて些細なことをするくらいしかできない。あれが本場の魔法使いってやつか……。あれ、ってことはイリスさんもあんなことをできるの?」
イリスは少し考え込んで、困ったような顔をしながら答えた。
「そうですね、魔法は使えますが私の魔法はあまり実用的ではないといいますか、そこまで使ったことがないのでなんとも言えません。魔法というのは血だけでなく、技量も持ち合わせていなくては真の力は発揮できませんから」
「へぇ。やっぱり魔法は奥が深いんだな……」
クロウス自身も心の中で感心しつつも、地図を思い浮かべて今のおおよその場所を判断した。おそらくあと少しで目的の場所に着くだろう。
ふと、さっきの女のことを思い出す。戦闘にかなり慣れているようだった。相手の出方を見て、即時に自分が出ていくべきところを的確に決め、見事クロウス達を逃がしてくれた。しかし、いくら魔法を使え、剣がそれなりに使えるとはいっても、あれだけの人数を長時間相手するのは難しいかもしれない。
クロウスはまだまだ何かが起こると直感的に判断していた。