外伝‐5 消えた風
当てなど何もなかった。
ただ町中を走ればいい、というわけではないこともわかっている。
だが何もしなければ心の中が不安で溢れてしまうこともクロウスは知っていた。
前にも似たような経験があった。急に目の前からいなくなってしまった、亜麻色の短髪の少女。クロウスに何も言わずに行動をし、そんな彼女を必死に探し、再会した先で――。
思い出したその光景を振り払うかのように、首を激しく横に振る。
まだ日は昇りかけている最中で、道を歩いている人はあまり多くない。走りつつ、左右を見渡しながら、あの颯爽とした風使いを見える範囲で探す。しばらく走ったがまったく見当たらなく、落胆としながら道の脇に逸れて一度息を整えた。
「くそう……、一体どこに行ったんだ?」
二年半近くも共にいるのに、シェーラの深層心理を未だに理解できていないクロウス自身に苛立ちを覚える。
夜から今の時間までいないということは、グリス・テマイトの手に落ちたという可能性がある。だが、たった一人のために彼は動くのだろうか。
そもそもシェーラが情報を探しているのを彼は知らないはずだ。もし知っていたとしても、時間が限られている現状では放っておくのが一番いいだろう。どうせ情報など手に入る確率は低いのだから。
しかし敢えて手を出したとしたら、果たしてその理由は――。
相手の動向がまったく見えず、クロウスは頭を抱える。その時、軽く肩を叩かれた。振り返れば、スタッツが口を一文字にして立っている。
「朝からそんなに蒼白そうな顔をして、どうした」
「スタッツ……」
ルクランシェがスタッツを憂いている顔が一瞬よぎったが、それを差し置いて助けを求めた。
「シェーラがいないんだ、夜中から」
「……何が言いたいのか、よくわからないが」
「だからグリス・テマイトの情報を得るために宿から出たきり、帰ってきていないんだ!」
若干語弊はあったが、そう言うと、ようやくスタッツの顔に曇った表情が現われた。
「それは確かなのか?」
「ああ。昨日、そいつのことを何となく口に出したら、その後のシェーラの行動が奇妙だった。そして今朝起きたら、武器も防寒具もすべて無くなっていたらしい」
「――グリス・テマイトの手にかかったと言いたいのか?」
クロウスはしっかり首を縦に振った。
「そうじゃなきゃ、今の時間までいないなんておかしい。シェーラは一人で行動するときは皆に心配させないよう、こっそりとやっている。それが言伝なしに朝からいないなんて、何かあったとしか考えられない」
しかし、スタッツは苦悩の表情を浮かべる。
「シェーラが誰かの手に落ちたのは納得しよう。だがわざわざあいつが手を出したとは考えられない。あいつは自分がやったという証拠は極力なくしたいやつだし、そんなに害がない人を手にかけるはずがない。また別の団体じゃないか?」
「別の? そうだとしても、どうしてシェーラを。ただ情報を集めていただけだぞ」
「あのな、彼女は情報部だろう。クロウス達の事件部よりも、余計な情報をたくさん知っている。そこで誰かが知っては欲しくない重要な情報を実は知っていたら? そしてそいつらがたまたま夜中に一人で歩いている彼女を見つけたら、どういう行動に出る? ……あいつじゃなくても口封じに出るのは大いにある。むしろそっちの可能性が高い」
さらりと言われたが、その言い方にはもはや最悪の事態を決めつけているようだ。
「そんな……シェーラだってそれなりの剣術は持ちえている。そう簡単に――」
「過信しすぎだ。魔法が無くなってから彼女の力は明らかに落ちている。そこらの痴漢程度の男なら簡単にあしらえる。だがそれなりの剣士、もしくは暗殺者系なら対等に剣を交えることは難しい。それはお前が一番よく知っているはずだろう?」
冷めた目をしてスタッツは言い切る。言い返そうとしても何も反論はできなかった。
魔法という存在がシェーラの能力向上に一役買っていたのは紛れもない事実。魔法を巡る最後の攻防以来、激しい戦いに出会っていないからあまり多くの人は気付いていないが、いつも鍛錬所で共にしているクロウスにとっては、魔法なしのシェーラはさほど脅威ではなかった。
さらに顔が青ざめていく中で、スタッツはふうっと息を吐く。
「クロウス、すぐに最悪の状態を考えるのは悪い癖だぞ」
「それは……」
「いいか、これから言うことは一介の情報屋の考えだ。あまり真に受けても困るが、まったく流してもらっても困る」
スタッツの真剣な目にごくりと唾を飲んだ。
「突然情報を所有している人が目の前にいたら、まず捕まえてどこか人目のない所に連れて行く。そこで余程焦っていなければすぐには殺さない。なぜならその人がもっと有益な情報を持っているかもしれないから。それを得るために、何らかの尋問、もしくは拷問をするはずだ。拷問しても意志が強い人は中々吐かない。そのためにある程度日を置いて衰弱するのを待つか、更なる拷問をするために用意をするだろう。――だから出会って一日も経っていないのに殺す人はあまりいない」
「じゃあ……」
「まだ生きているよ、彼女は。だからルクランシェはお前を送りだしたんだろう? あいつでも得体のしれないやつらでも、犯人がどちらに転んでも大丈夫なように」
整えられた赤い髪を手で少しだけ払い除ける。そしてにやりと笑みを浮かべた。
「しょうがねえから手伝ってやるさ。お前にまた大切な人がいなくなったら、エナタに申し訳ないからな」
そして視線で裏路地の方に目をやる。その先はいわゆる繁華街と言われる場所とは逆の場所。鬱蒼とした雰囲気が漂っている。
「あの先には少しだけ顔見知りの奴もいる。何か会ったのならあっちのほうが確率として高い。――さあ、行くぞ」
「ありがとう」
ぶっきら棒できついことも平気で言う男ではあるが、情には厚い、いいやつだと改めて実感する。軽やかに駆ける姿を見て、クロウスもその後を追い始めた。
一方、ルクランシェがレイラ達にシェーラのことを含めて、ある男が暗躍し、これから開かれる式に何かが起こるかもしれないと言うと、一同はそれぞれ違う表情をしていた。
イリスはシェーラの身に何かが起こったのかもしれないと顔を強張らせているし、アルセドは隣で彼女の不安を取り除こうと、必死に声をかけている。メーレも顔は真っ青だし、ダニエルは何かに対して憤慨しているようだ。一方、レイラは机の上で両手を組み合わせて、じっと何かを考え込んでいる。
「シェーラさんは大丈夫なんでしょうか……?」
「どんな相手に狙われたかは分からないが、そうすぐに何か事を起こさないだろう。まだ大丈夫だと言いきっていい。後はクロウスの力量次第だ」
――それとスタッツが協力してくれるかによるだろう。
そう心の中でルクランシェは呟く。クロウスも色々な知見を持ってはいるが、本気で情報を収集する術を得ようとしていたスタッツやルクランシェよりも、明らかにその点では劣っている。一分でも早くシェーラを探し出したいのなら、スタッツの助けは必要不可欠だ。おそらくスタッツは親しいクロウスが焦っているのを見れば、助けの手は伸ばすだろう。
それよりも今はこれから起こることを予想しなければならない。
とりあえず沈黙を続けている、レイラからの発言を待つ。何を考え込んでいるのか、それともシェーラの安否を気にしているのだろうか。
二年前、炎使いの女性にシェーラが連れ去られたと聞いた時、レイラは酷く狼狽していたのを、その時傍にいたルクランシェは知っていた。そして今のように考え込み、それから出した結論が、『シェーラを助けるために研究所に向かう』と言うものであった。そんなことは危険だとさすがのルクランシェも止めに入ったが、頑なな決断は止められるものではない。深追いはしないというのを条件として、レイラの指示に従ったのだ。
果たして今回はどうでるか。レイラはゆっくりと顔を上げ、指を丁寧に離し、時計に目をやってからルクランシェをじっと見た。
「……式まで時間がないわ。準備をして、会場に向かいましょう」
それを聞いて目を丸くした。
「何かしら、意外そうな顔をして。シェーラももちろん大切よ。でも、式の方が何かが起こる可能性が高い。それをわかっていて、あの娘を探しに行けるはずないじゃない! もし犠牲者が出たら、顔を合わせられない……」
はっきりと言い放って立ち上がると、レイラは唖然としている一同を差し置いて、式に行く準備をし始めた。メーレがそれを見て、慌てて手伝い始める。
ダニエルも自室で必要な防具を準備してくると言い、部屋を出た。イリスもアルセドも浮かない顔をしていたが、じっとしていても何も変わらないとわかり、ひとまず部屋へと戻っていく。
ルクランシェはしばらくレイラの動向を見守っていたが、我慢している様子が見るに耐えなく、その場から急いで離れた。
空は少しずつ雲に覆われていく。黒く、厚い雲――、雨が降りそうである。
裏路地をくまなく探し始め、時折スタッツの顔見知りに夜中に緑系の服を着た女性がいなかったか、と尋ねたが皆首を横に振るばかり。それを聞いてクロウスは途方に暮れそうだった。
もし捕らわれているとするのなら、どこかの建物や町の外にある小屋にでも連れ込まれたのかもしれない。そうすると空き部屋が目立つこの町では探すのは至難である。
「どこにいるんだよ、シェーラ……」
地図を眺めて考え込んでいるスタッツの横でクロウスが呟く。雲が覆い始めているためか、気温は下がってきている。少し肌寒い。ふと、スタッツがとぼとぼと歩いている浮浪者の男に近づいた。その人は胡散臭そうな目で見て来る。
「何か用か」
「一つお聞きしたいことが。真夜中に女性が一人で歩いているのを見ませんでしたか?」
「女性? そんなのたくさんいるだろう」
「どんな女性でもいいのです。とにかく誰か見ませんでしたか?」
浮浪者は更に顔を顰めたが、スタッツがちらりと硬貨の音を鳴らすと、慌てて必死になって考え始める。そしてあっと言う声を上げた。
「そうだ、一人いた。普通なら近づいて行くが、あまりに近付けない雰囲気を出されていて眺めるしかできなかったんだ」
シェーラとはおそらく違う人物だなと、項垂れそうになったが、次の言葉を聞いて目を丸くした。
「巨乳のねーちゃんで、割と珍しい赤黒い髪だった。かなりの美人で、不思議に思ったよ。そういえばその後ろからフードを被った小さい人も通って行ったな」
「その人達はどこを通って行きましたか?」
「そこの裏路地から、町の外に続く道だ」
「そうですか、ありがとうございます」
スタッツはさらりと営業用の笑みを浮かべると、浮浪者の手にさっと硬貨を乗せて横を通り過ぎ、男が指した方向に進む。顔が明るくなった男が走っていくのを見ながら、クロウスはスタッツの横を歩き始めた。
「……さっきの言っていたフードの小さい人、きっとシェーラのことだ」
「その根拠は?」
「赤黒い髪の女、ここに来る途中で一度会った。何か企んでいると思って近づいたらしいが、こんなことを考えていたなんて……」
「その考えを聞こうか」
町の外に出ると、鬱蒼とした森が目の前に広がる。
「その女、おそらくシェーラの情報が欲しかったんだ。意図的に俺達とこの町に来る前に会うようにし、そこで俺を誘惑し、より印象を強く持たせた。シェーラは気にしていないと言っていたけど、あの性格だ、結構根に持っている。それにどことなく人を惹きつける雰囲気があった。そんな女が目の前に現れたら追いかけないはずないだろう」
今日何度目かになったかわからない、溢れる悔しさを抑えながらスタッツの返答を待っていると、突然しゃがみ込んで木の手元を覗き込んだ。
「どうした?」
「見ろ、この布切れとナイフ。このナイフ……確かシェーラが最近飛び道具として使っているやつじゃないのか?」
「何だと!?」
急いで寄り、その物品を見る。そこには少し湿っぽい布切れと、手のひらサイズのナイフがあった。それを見て、鼓動が速くなる。ナイフはシェーラが使用しているのと同じ種類なのだ。
魔法が無くなってから遠距離攻撃が難しくなったシェーラは、デターナル島で大量生産されているナイフを買い込み、それを投げて使っていることがあった。大量生産ではあるが、ここはノクターナル島よりのソルベー島。それがこんなところにただ転がせているのはおかしすぎる。シェーラのものである可能性が高い。
布切れとナイフの先には肌寒い風が流れる森の中。この先のどこかにシェーラがいるかもしれないと思うとじっとしていられなくなった。拳を握りしめ、駆け出す。
「待て、クロウス!」
まだ止めるのかと、睨みつけてスタッツに視線をやる。だがそこには何かが閃いたような顔をして立っている情報屋の青年がいた。
「赤黒い巨乳――あの女まで絡んでいるとは、恐ろしい世の中だ……。グリスだけならわからなかったが、二人が組んでいるのならこれから起こることが大体予想できる」
布切れとナイフをポケットにしまい込み、にやりと大きく笑みを浮かべた。
「行くぞ、クロウス。シェーラの居場所の検討が付いた」