1‐11 少女を守るために
シェーラは森の中を走っていた。ぬかるみに躓きそうになりながらも、ただひたすらに走っていた。
全力で走っていたため、さすがに息遣いも荒くなってきていたが、速度は未だに衰えない。窓を割って脱出をし、怪我もなく着地をした後に優男達を追いかけている。
あの優男が気配など隠さず、だらだらと滲み出しているおかげで、意図的に気配を察することなく、二人との距離を徐々に縮めていけた。
程無くして二人を見つけると、恐ろしい声を張り上げる。
「そこの男! 止まりなさい! ていうか、止まれ!」
優男は引き攣った顔でシェーラへと振り向いた。もはや彼は隊長としての威厳の欠片もない。イリスは頭の方を男の背中側になるように肩から背負われていたため、シェーラから彼女の表情を見ることができそうだ。
優男はなおも必死に逃げ続ける。もう少しで追いつけるだろう。
「止まらないのなら、止まらせるまでよ!」
次の瞬間、シェーラの動向を見ていたイリスは目を疑った。一瞬にしてシェーラがいなくなったのだ。
だが、すぐに現れると、そこはイリス自身の目の前だった。シェーラはすまなそうな顔をして、優男の隙をついてイリスをそっと抱きしめる。
優男はそれに気づき、思わず持つ手を緩めて後ろを向こうとしたが、次の瞬間シェーラは彼に対して思いっきり蹴りをくらわしてやった。
イリスを持つ手も緩んでいたため、面白いように一人だけ飛ばされていく。そのまま近くにあった木に正面衝突し、伸びきってしまった。
「よし、成功、成功。あれなら当分起きないでしょう」
シェーラは抱えていたイリスを地面に下ろし、猿轡を外してやった。イリスは口が自由になると、大きく息を吸って、吐いた。シェーラはその間に、縄を切って彼女の手足を自由にしていく。
「あの、あなたは風使いさんですよね?」
おどおどと聞くイリスに対して、シェーラは気さくに言い返した。
「そう呼ばれることもあったわね。はい、これで終わり。もう全部切ったよ。大丈夫?」
イリスは手足を見て、自分の意思で動けることを確認した。
「大丈夫です」
「そう、よかった。残りの細かい傷は村に戻ってから消毒でもしましょう。痛かったらいつでも言って、無理しないでね。そうそう自己紹介はまだだったわね」
シェーラはイリスと真正面に迎える形に座りなおした。
「一度会ったけど、ちゃんと対面するのは初めてね。私はデターナル島のシェーラ・ロセッティと言います。今回の裏の作戦者だったけど、こちらのミスで表に出てきました。今回は申し訳ありません。あなたへの被害を最小限に抑えるはずが、こんなことになってしまって……。怖い思いをさせて、大変申し訳ありませんでした」
シェーラはイリスに対して、深々と頭を垂らす。イリスはすぐに首を横に振り、慌てて弁解した。
「そんな、顔を上げてください。私もソレルさんが敵側だとは知らなかったんです。だからこの作戦はシェーラさんのミスじゃありません。時には思いもよらないことが起きるじゃないですか」
「しかし、それも予測して作戦を立て、実行することが、私たちの役目でもありますのに……」
「結果的には私は連れ去られることなくここにいるのですから、それでいいじゃないですか? ですから、顔を上げてください」
イリスはにこりとほほ笑んだ。その雰囲気に思わずつられて顔をあげてしまう。そこには一人の愛くるしい少女の笑顔があった。惹きつけられてしまうその笑顔に思わず呆然としてしまう。
「シェーラさんは私のことをご存知ですよね?」
「はい。イリス・ケインズさんですよね」
「そうです。あの、そんなに畏まらなくてもいいんですよ? 私の方が年下でしょうし」
「それは、まあ一応仕事中ですので……。ひとまず自己紹介も終わりましたので、あの見張り塔の方に向かい、クロウスと合流しましょう」
そう言うとシェーラは立ち上がり、イリスに手を差し伸べて立たせてあげた。
「シェーラさん、一つ尋ねてもいいですか?」
イリスは神妙な顔つきで尋ねる。シェーラは何となくその内容を察した。
「アストンさんは、大丈夫ですか?」
「今は意識不明の重体です」
事務的口調できっぱりと言う。イリスの顔は明るくなるのでも、落ち込むわけでもなく、同じ表情をしていた。
「そうですか。あれだけ血を流してしまったら、そうなりますよね。アストンさんはソレルさんが無理矢理私を連れて行くのをやめさせようとしたんですけど、剣を抜かれてしまい、そのまま――」
イリスの肩が微弱に震えている。人が斬られる瞬間を見て、気分がいい人はいない。シェーラはそっと、イリスを抱きしめる。
「大丈夫ですよ。あそこまで耐えることができたんです。アストンさんの意識も時間が経てば戻りますよ」
シェーラの身長もあまり高くはない方だったが、鍛えられた体の違いかイリスがより小さく見える。彼女の髪を撫でながら、心を落ち着かせた。ほんの少しの時間のことだったが、徐々に震えも治まる。やがてイリスはシェーラの顔を見上げた。
「急にすみません。もう大丈夫です。今はアストンさんの無事を祈ります」
「それがいいわ」
イリスはシェーラから離れると、大きく伸びをする。その行為ひとつひとつがシェーラにとっては微笑ましい。これでようやく仕事もひと段落か、と思った矢先のことだった。
突然凄まじい殺気を感じたのだ。シェーラはすぐに短剣を抜くと、その殺気の方向へと構える。イリスもそれを感じて、シェーラへと身を寄せた。殺気は徐々に強くなっていく。二人の緊張も高まり、冷や汗を流していた。近くの木から草を踏み分ける音が聞こえる。その足取りは遅い。それがかえって二人の緊張をより強くしていった。
やがて、木の脇から現れたのは一人の金髪の青年だった。ぱっと見れば人の良さそうな青年に見える。だがソレル以上に表情はなく、それが却って無気味であった。腰には長剣が二、三本程見える。
「後ろで縮こまっているのは、イリス・ケインズ嬢だね?」
臆することなく、はっきりとした声で言った。シェーラは短剣を持っていない左手で、イリスをさらに自分の奥へと追いやる。青年は鼻で軽く笑う。それがシェーラにはむっとさせた。険しい口調でシェーラは尋ねる。
「あなた、一体何者?」
「これから死ぬ人に言う義理はない」
「なっ……!?」
「もし足掻きたいのなら、思う存分足掻いて構わない。私は隙をついて、イリス嬢を連れて行かないから。邪魔な人はここで排除する。死にたくなければ、無条件でイリス嬢を渡すという手もあるが……」
シェーラに悪寒が走った。この青年が言っていることは、本当だ……っと。そして何人いや何十人、何百人と斬ったことがある人だと。
自分の手が僅かながらだが、震えているのがわかる。
――きっと、本気でやらなければ殺される。
深呼吸をして、心を落ち着かせた。
「イリスさん、少し下がっていてくれる?」
「でも、シェーラさん……」
「お願い」
イリスはその言葉に返答することはできなかった。そして、シェーラから一歩後ろに下がり、口をぎゅっと噛み締めて、近くにあった木の陰へと走って行く。
それを横目で確認すると、シェーラは左腕を自分の顔の前へと持ってきた。そこには藍色の石が入っている腕輪がある。それに触り、小さな声でそっと呟くと、小さな音をたてて外れた。腕輪は丁重に、自分の上着のポケットへとしまう。
そして、すっと目を青年へと向かれた。
「待っていてくれて、ありがとう。でも、イリスさんを無条件で渡すわけにはいかないわ」
「交渉決裂というところか」
「ええ、そういうところね。では、始めましょうか」
「その言葉、きっと後悔するよ」
風が一瞬吹いた。シェーラと青年の間に一枚の葉が舞う。
そして――その葉が破れた。
それを開始と見なし、青年の剣は抜かれ、二人の剣は激しく交わった。
シェーラはすぐに身を翻して、青年から離れる。
一回交えただけなのに、その衝撃は凄まじい。すでに手に痺れが広まっている。短剣ではあの両手持ちの長剣とやりあうのはかなり不利と判断し、そっと短剣に手をそえて呪文を唱えた。
「大いなる風よ、ここに集まり我が刃の一部となれ!」
言い終わると短剣に急激に風が集まってくる。そこらの葉っぱも砂も一緒に舞い上がるため、イリスは目を閉じなければならなかった。青年もすぐには近づけないようだ。
そして、数秒のうちに短剣からの先からは透明な靄のようなものがでてきた。
だがそれにも構わず、青年は目にも見えぬ速さで、シェーラに近づき剣を振り下ろす。
シェーラはその靄の部分を彼の剣に当て、受け流した。青年の顔から思わず笑みがこぼれる。
「剣と魔法を合体したものか。そこらの護衛さんたちとは違うようだな」
そう言うと、青年は左手を剣の柄から離し、左手をギュッと握りしめる。
それを見て、シェーラの中で警報音が発令した。何もされていないのに、すぐに後ろに下がり、自分の目の前に分厚い風の膜を作る。
次の瞬間、青年の手からは細かな刃が放たれた。風はそれをほとんど地面に叩きつけられることができたが、何本かは通過し、シェーラの体へと刺さっていく。
青年の殺気から、川に飛び込む時に感じたのと同じだと薄々とはわかっていた。だが、それがわかっていても、青年の行動を予測するのは難しい。
刃を放つのをやめると、すぐに風の膜をなくし、再びお互いに剣を何度か交り合わす。
防戦一方だった。
シェーラは青年の剣を上手く受け流し、攻撃に転じようと思っても、その隙が見当たらない。ソレルの斬撃なんか、かわいいものだったと感じるほどだ。
風の流れを確認すると、シェーラは左手を青年へと突き出して言い放った。
「風よ、行け!」
もはやまともに呪文を唱える暇もなかった。すぐに激しい風が舞い上がる。
それは小さい竜巻のようだったが、威力はいつも出す風と同じくらいで、攻撃をするにも、相手に撹乱するのにも充分なものだ。
シェーラはそれを撹乱するのに使い、すぐに青年の後ろに回る。
しかし、そこに青年はいなかった。
「シェーラさん、後ろ!」
イリスの叫びに近い声が、シェーラを慌てて後ろに振り向かせる。目の前にきらりと光るものが見えた。その直線状には自分の胸がある。身を反らしたが、次の瞬間くぐもった音が聞こえた。
一瞬の出来事だったが、シェーラにとっては長く感じた。
青年を見て、後ろにいるイリスも見て、そして青年の手が握られている剣の先を見る。
左肩を貫かれていた。指先から血がポタリと滴り落ちる。くっと歯を食い縛り痛みを堪えた。
反撃しようと考えたが、集中力が著しく落ちているため、風が思うように集まらない。
「残念だが、ここまでのようだ」
青年はそのままの状態から、左手で剣をもう一本抜いた。右で持っているのとなんら違和感がない。
シェーラはすっと青年を睨みつけた。最後まで屈しない、それはシェーラの一つの意地だ。
それが気に入らなかったのか、青年は容赦なくシェーラへと剣を振り下ろす。
その瞬間を狙い、シェーラは自分と青年を巻き込むくらいの強力な竜巻を出そうとした。
最悪の事態を想定したイリスは思わず目を閉じた――。
だが、次にイリスが聞こえたのは人の肉が切られるくぐもった音ではなく、カキンという剣と剣が交り合う音。
イリスは恐る恐る目を開いた。そこには漆黒の髪をした青年が左手で持っていた剣を受け止めている。そして、そのまま弾き飛ばした。
弾き飛ばされた青年はその衝撃で首筋に血が滲んだ。突然の来訪者に驚いたのか、シェーラの肩を刺した剣を抜き、後ろへと下がった。
シェーラは抜かれた反動で座り込んでしまう。そして現れた人物を見上げた。
「さて、彼女の前に俺と一戦交えてみないか?」
クロウス・チェスターは悠然と構え、鋭い目つきで青年を見据えた。