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痴話喧嘩

 …ひどく不愉快な感覚の中で、目を覚ます。


 カーテン越しに差し込む陽射しは薄いが、それでも今の俺の目には痛い。

 気怠い体を動かして時計を見上げると、今が正午少し過ぎだということが分かる。

 俺は視線を巡らせて、半開きのドアの向こう、キッチンの隅に彼女の姿を見つけた。

「……マリア、…水」

 頭が痛い。喉がひどく渇いている。

 しかしマリアは、俺の声には応じてくれなかった。聞こえなかったのかと思い、同じ台詞をもう少し大きく繰り返してみる。それでも、返事はない。

「………?」

 何気なく目をやったテーブルの上に、開いたままの新聞紙が放り出されている。

(……あ)

 白黒の紙に印刷された真っ赤な蝶々の写真を認識した瞬間、俺は昨夜の記憶を断片的に取り戻した。

(………あー、…そっか)

 昨夜、俺とマリアは、かなり派手な喧嘩をしたのだった。

 原因は、本当に些細な下らないこと。

 昨夜たまたま流れたニュース。それはこの県内で起きた、とある研究施設からの、実験動物逃走という内容だった。

 その実験動物というのが、何のことはない。たった一対の、雄と雌の蝶々。

《……とは言え、この二匹は非常に悪質な毒を持っている上に、繁殖力が異常に強いと言うことです。詳しいことは、今だ施設側が沈黙している為……》

 キャスターの恐れを煽るような物言いが、馬鹿馬鹿しくておかしかった。

 そこで俺がつい口を滑らせてしまったのは、ビールと焼酎による酔いのせいに間違いない。


『ああ、これ、サキの家の近くだ』


 言ってから(しまった)と思ったが、遅い。

 グラスに氷を入れていたマリアの手がピタリと止まり、その表情がみるみる険しくなっていく。

 サキとは俺の前の彼女の名前で、別れ際のイザコザで、マリアにまでかなりの迷惑をかけている。

 俺に散々付き纏い、当時まだ付き合いたてだったマリアを脅し、あらゆる嘘を吹き込んで…。

 マリアにとっては、存在自体が汚らわしい、天敵のような女の名前なのだ。

 俺がそれを口にしたことを、酒の入ったマリアが聞き流してくれる筈もなく。

『何よ?あの女が心配なわけ?』

『あ…いや、俺は』

『私があの女のせいでどれだけ嫌な思いしたか!!せっかく忘れてやってたって言うのにあんたは』


 …後はもう、蛇口全開の水道の如く、文句と昔の恨み言の嵐。

 途中でさすがに頭にきてしまった俺と、近所迷惑極まりない、深夜の大喧嘩を繰り広げたのだった。


(…あー、くっだらねえ)

 怒りに任せて酒を呷った皺寄せが、この頭痛と倦怠感だというわけだ。

 俺は溜め息混じりに枕に突っ伏し、ぐったりと横になったままキッチンの方を見た。

「…なあ、昨日は俺が悪かったよ。本当、謝る」

 返事はない。代わりとでも言うように、キッチンの床に何かが放られる。僅かに開いたドアの隙間に目を凝らすと、それは何かの菓子の空箱らしかった。

(いつもダイエットダイエットって、甘い物は食わねーのに)

 訝しんでから、すぐに昨夜の自分の台詞を思い出す。

『テメーなんかいくら痩せたって、サキの半分も綺麗になんかならねえよ』

 …再度、溜め息。

 よく見るとキッチンの床には、他にも様々な菓子の空箱や包みが散乱しているようだった。

(…うーわ、こりゃかなり重症だわ)

 過度の飲酒のせいで、記憶が半分以上曖昧になっている。しかしダイエットマニアの彼女をやけ食いに走らせたのは、間違いなく自分なのだろう。

 怒り任せに何を口走ったのか、思い出すのも恐ろしい。

「なー、マリア。本当にゴメン。俺も興奮してたし、酒も入ってたし」

 返答は、冷たい沈黙。

「全部、本気で言ったことじゃないしさあ。大体お前だって」

 俺のどんな弁解の言葉にも、マリアは反応してくれない。この位置からでは彼女の顔は見えないが、どんな表情をしているのかは容易に想像がついた。

「なー、あの女のことはもう済んだ話なんだし」



 そう、済んだ話なのだ。

 マリアにまで迷惑をかけてしまった詫びに、俺がきちんと自分で始末をつけたのだから。

『あたし、妊娠してるの』

 勝ち誇った顔でそう言ったサキ。二人きりで話そうと言う俺の言葉を信じて、のこのこと車に乗り込んできた馬鹿女。

 人気の無い山道で力一杯殴り付けた時の、例えようのない爽快感は今でも忘れられない。

 はいずって逃げようとするサキを懐中電灯で照らしながら悠々と追い、何度も何度も硬い革靴で蹴り上げてやった。あの時の、みっともない、惨めな顔と言ったら。

 俺がフイと車の方に戻って行った時、サキはきっと心の底から安堵したことだろう。

 そして再び懐中電灯の明かりが自分目指して迫ってきた時、心の底から絶望したことだろう。

 俺は車の中に用意していた鉈を振り上げ、サキの擦り傷だらけの細い足に打ち下ろした。華奢に見えた足の骨は思っていたよりも硬く、死に物狂いで抵抗されたせいもあって、完全に切断するには数十回も鉈を振るわなければならなかった。



(あいつ死んだかなあ。死んだよな)

 俺はベッドの上でひっそりと苦笑いを漏らした。

 サキは逃げる時、山のかなり奥深くまで迷い込んでいた。鉈を取りに車に戻った時、再びサキを見つけるのに苦労したほどだ。

 なので、両足を切断されて泣き喚くサキにとどめは刺さず、俺はそのまま山を下りたのだった。

(まあ、自業自得だよな)

 サキの断末魔を思い出すと、少しだけ頭痛が和らいだ気がした。

 俺はゴシゴシと乱暴に目を擦り、のっそりとベッドの上に起き上がった。ベッドサイドに烏龍茶の缶を見付けて、有り難く一気に飲み干す。ぬるかったが、今の俺には充分にうまかった。

「なー、マーリアちゃん」

 ひと心地ついて、彼女の機嫌取りを再開する。我ながら熱心なことだ。

「もう絶対にあの女の名前は出さないからさあ。俺がアレと関わることは二度とないわけだし」

 猫撫で声で言うと、そこで初めてマリアが反応を示してくれた。

「当然よ」

 たった一言だったが、とりあえず第一関門は突破という所か。俺がホッと息を吐きかけた時、マリアがポツリと続けた。

「……生きてるわけ、ないもの」


 一瞬だけその意味が理解出来ず、俺はポカンとキッチンのドアを見詰める。

「………」

 マリアはまた黙り込んでしまった。

 俺は目を白黒させて、何度も彼女の言葉を頭の中で繰り返した。生きてるわけない、生きてるわけない、生きてるわけ………


(喋った?酔った勢いで、俺は喋っちまったのか?)


 鈍い頭をフル回転させて記憶を辿るが、やはり昨夜の記憶は途切れ途切れだ。まさかとは思うが、勢いで喋っていないとも言い切れない。

 俺は慎重に、彼女の気配に注意しながら、聞く。

「……えーと…?…何で、生きてないって…?」

 マリアの返事は短いものだった。助かる筈ない。たった一言、それだけ。

(うわ……マジかよ)

 俺は頭を抱えて地団太を踏みたくなった。

 もし喋っていたとしても、今ならまだ《酔った勢いでついた悪質な嘘》で通るだろう。

 しかし、今後、あの死体が誰かに見付けられたとしたら?身元を特定されて、その凄惨な死因と共にニュースで流されたら?

 ニュースを見たマリアは、一目散に警察に駆け込むに違いない。

(あーあ。……最悪)

 俺はボリボリと頭を掻きむしり、布団をはね退けてベッドから降りた。

 散らかった缶や瓶を蹴って避け、目を細めてキッチンの向こうを窺う。

(でもまだ確かじゃないよな。確証はないしな)

 一縷の望みを握って、俺はゆっくりと寝室兼リビングを横切っていく。

(…だけど、もし、喋っちまってたなら…)

 それを考えた時、思わず口の端が上がるのを感じた。

(その時は……)

 生きた人間を、徹底的なまでに破壊する快感。サキを痛めつけた時の激しい高揚感が、リアルに脳裏に渦巻き始める。

(その時は………仕方ないよなあ)

 俺は冷たい笑みを浮かべて重い酒瓶を拾い、キッチンのドアを開いた。

 マリアは出窓の前に佇んでいた。俺に背を向ける形で、少しだけ開いたカーテンの間から、身動きもせずに窓の外を眺めている。

「マリア」

 俺は酒瓶を握った右腕を後ろに回して隠し、さりげなくマリアの後ろに近付いた。ウェーブのかかった長い髪から、嗅ぎ慣れたシャンプーの甘い香りを感じて。







 そして俺はマリアの背中越しに、カーテンの隙間から、それを見た。



 道にいくつも転がる青黒く変色した人間と、その醜く膨れた死体に集まる、夥しい数の、真っ赤な蝶達の群れる姿を。

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